原爆後の火葬場の記憶「残したい」 長崎大医学部生、被爆者の思い受け継ぐ

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木原さん(右)から被爆体験などを聞き取る髙以良さん=今年2月、長崎市内

 76年前の原爆投下後に長崎市の火葬場の庭で、場長だった父を手伝って数百人の遺体を焼き、埋葬した記憶を持つ一人の被爆者が今年の夏、亡くなった。原爆症を患い、闘病を続けていた故・木原房雄さん(享年85歳)=長崎市東小島町=。遺骨がその後、掘り起こされ改葬されたかは不明で、「私が死んだら原爆で亡くなった人たちは忘れ去られ、誰も慰霊できなくなる」。生前こう話し、元主治医の息子で孫のように親しかった長崎大医学部5年の髙以良鴻(こう)さん(23)に思いを託した。
 木原さんは当時9歳。市営火葬場(現在の淵町、市もみじ谷葬斎場)の場長だった父道雄さんと火葬場そばの宿舎で暮らし、爆心地から1キロの竹の久保町2丁目(当時)で被爆した。
 火葬場沿革史には道雄さんの直筆で被爆直後の様子がこう記されている。
 〈昭和二十年八月九日 原子爆弾により火葬場全建物は一瞬にして全壊し一部焼失の憂目に遭遇せり(原爆中心地より千七百五十米)〉
 火葬場には原爆で亡くなった人たちが次々と運び込まれた。しかし、原爆の影響で建物は全壊していた。
 長崎原爆戦災誌によると、8月1日には第5次空襲があり、計50機の米軍機が軍需工場を中心に112トンの爆弾を投下。169人の死者が出ていた。
 木原さんによると、1日以降、空襲犠牲者が火葬場に運び込まれ、その時点で火葬が間に合わなくなっていた。9日以降は道雄さんと一緒に、「敷地内の庭で遺体を300人以上焼き、埋めた」という。

長崎市もみじ谷葬斎場

 〈十月十五日より火葬の取扱を為す その間 原爆による約八万人の死体は各被害の現場に於て火葬する等 長崎市内に於けるその惨状は言語に絶し難し〉

長崎市もみじ谷葬斎場 配置図

 同沿革史によると、火葬場の再稼働は10月中旬。その間は市内各地で遺体が火葬されたという。ただ、火葬場敷地内で遺体を焼き、埋めた記録は残されていない。その後、遺骨を掘り起こしたかも不明だ。
 市もみじ谷葬斎場は老朽化などのため建て替えが検討されているが、木原さんの証言を確かめるすべはない。同葬斎場は取材に対し、「今のところ掘り起こして調べることはしない」としている。
 木原さんは40歳ごろから、大腸がんや咽頭がんを患い、10年ほど前に「骨髄異形成症候群」と診断された。「白血病の一歩手前」で、2011年7月に原爆症の認定を受けた。
 髙以良さんは10年ほど前から、趣味の囲碁を通じて家族ぐるみの付き合いをしていた。昨年12月ごろ、木原さんからこう打ち明けられた。「いつまで生きられるか分からない。実は残したいことがあって」。髙以良さんは木原さんの証言と思いを受け継ごうと、体験を聞き取り、1人で調査を始めた。書き留めたメモは15枚を超える。

◎長崎大医学部生「当時知る人の記憶を」 証言裏付けへ独自調査

 原爆症を患い、闘病を続けた故・木原房雄さん(享年85歳)=長崎市東小島町=は被爆当時9歳。木原さんによると、10歳上の兄哲也さんと配給をもらうため呉服店を訪れ、倒壊した店の下敷きになった。
 哲也さんが覆いかぶさってくれたおかげで腕のかすり傷程度で済んだが、兄は柱と天井の材木に挟まれ、腹から腸が飛び出ていた。
 木原さんは兄を介抱しながら火の手が上がる道を歩いた。兄を淵神社(淵町)辺りに休ませ、父道雄さんが勤める市営火葬場(現在の淵町、市もみじ谷葬斎場)へ駆けた。

木原さんが火葬して遺体を埋葬したと証言する長崎市もみじ谷葬斎場の庭を訪れ、当時に思いをはせる髙以良さん=同市淵町

 火葬場は原爆の爆風により全壊し、屋外の庭でしか火葬できなかった。遺体が次々とトラックなどで運び込まれ、人手が足りず、場長の父を手伝って材木で焼いた。その後、供養するために、遺骨を掘り起こして改葬したとは聞いていない。

■「真実を」

 木原さんの証言を残そうと、聞き取りを続けた長崎大医学部5年の髙以良鴻(こう)さん(23)は、遺骨を埋めたとされる庭に5回以上足を運んだ。
 原爆投下から76年の時がたち、その場所にはベンチが置かれ、木々が生い茂るやぶになっていた。「ここで先生(木原さん)は遺体を…。まだ9歳だったのに」。胸が苦しくなった。だからこそ、木原さんが埋葬した遺骨がその後どうなったのか、「真実を知りたい」と強く思った。
 県と市の原爆関係の担当部署や長崎平和推進協会写真資料調査部会を訪ねて当時の資料を探し、葬斎場に関する被爆体験を片っ端から読み込んだ。葬斎場周辺の公園にある慰霊碑などを調べ、独自の調査を重ねた。ただ、証言を裏付ける資料は見つからなかった。
 昨年12月からは2週間に1度、木原さんを訪ね、体験を聞き取ってきた。葬斎場から取り寄せた道雄さんが残した資料を見せると、木原さんは「父の字だ」と紙を指でなぞりながら懐かしんでいた。

木原さんの父道雄さんが書いたとされる「火葬場沿革史」には、1945年8月9日に火葬場の建物が一瞬にして全壊したと記されている(長崎市もみじ谷葬斎場提供)

■前を向く

 髙以良さんにとって木原さんは「親戚のおじいちゃん」のような存在だった。だからこそ、「思いを少しでもつなぎたい」と調査を進めてきた。ただ、資料は見つからず、「頼りになるのは、当時を知る人の記憶しかない」。
 木原さんは闘病を続けていたが、容体が悪化。今年8月下旬に生涯を閉じた。火葬の場は被爆後、76年間思いをはせ続けた市もみじ谷葬斎場だった。
 髙以良さんは「亡くなった現実を受け入れられず、涙が止まらなかった」。今は「真実が分かるまで調査を進めて体験を伝える」と決意し、前を向いている。
 県内の病院で実習に励む日々で、将来は発達障害や不登校など心の悩みを抱える子どもを持つ親や、教員らを支える児童精神科医を目指している。
 「(原爆犠牲者を慰霊したいという木原さんの)心残りも、子どもたちの心の悩みも救える医師になりたい」。木原さんの平和への思いは、医師を志す若者に受け継がれている。
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 市もみじ谷葬斎場の庭に遺骨を埋葬したという木原さんの証言に関する情報は長崎新聞社報道部(電095.846.9240)へ。