エンゼルスのテレビ解説者ホセ・モタ氏 人種超えた信条「僕らはただの人間」

大谷(左)と話すモタ氏(東スポWeb)

【元局アナ青池奈津子のメジャー通信=エンゼルスのテレビ解説者ホセ・モタ氏(最終回)】「君なら、私にはできない放送ができる」

選手引退後、スペイン語での試合解説など、放送人として慣れてきたホセ・モタさんにドジャースで1967年実況を務めたアナウンサー、ビン・スカリー氏が言った言葉は、ホセさんの運命をまた一つ大きく変えた。

「確かにスペイン語では結構いい感じで放送できるようになったって感覚があって、心のどこかで『英語でやらないと』という思いはあった。最初は妻や代理人に言われただけだけど、次第に選手たちからも『僕らをリプリゼント(代表)してくれよ』と言われるようになった」

当時はまだアクセントが強かったため、英語の発音コーチをつけ猛特訓するところから始まったが、スカリー氏の言葉は大きな糧となった。

「ビンに『君は英語で実況をすべきだ』と言われている気がしたんだ。『彼らの生い立ちは? 彼らをかき立てるものは? お母さんに家を買ってあげたい理由は? セカンドにスライドした選手らの気持ち。私は試合の流れは伝えられるかもしれない。でも、君だからこそ伝えられる放送がある』と。一生忘れないよ。確かに黒人のラテン系選手だった自分は、多くの人よりも越えなきゃならないことがたくさんあった。そこに問題を感じてはいないけど『あいつは僕らの仲間なのか?』という見方はあったから、僕は輪に入るためにアメリカの文化を学ぶ必要があったし、彼らが僕について知っているよりずっと知っているよね」

大リーグの取材に携わっていなければ、ドミニカ共和国にそこまで興味を持つこともなかっただろう。まだ訪れる念願をかなえられていないが、英語でインタビューしてもいいと踏み出してくれた選手らから聞いた世界は、音楽にあふれ、近所の交流が盛んで、トロピカルな気候に嫌なことも吹き飛ばしてしまうような、底抜けに明るい人が多い。しかし、同時に貧困にも悩んでおり、冷たいシャワーやでこぼこの道路が当たり前だったりもする。

ドミニカ共和国では、一日のどんな時間に爆音で音楽をかけても問題にならないらしい。午後5時に約束した人が6時になって来なくても「まあ、いっか。また明日」となるのだとか。電車が1分遅れただけで、謝罪アナウンスが流れる日本で育った身としては、ドミニカ共和国に行ったらきっと笑うしかないな、と思っているが、そういう環境が当たり前の選手らが大リーグの夢を追って海を渡ってきたアメリカで、戸惑いや寂しさを乗り越えて大舞台に立っているのを知れば知るほど、私は野球が好きになる。

「僕らは、ただの人間だから」

ホセさんの信条だ。野球選手である前に、まずは自分を理解すること。ポジティブな人たちを周りに置くこと。人に接する時は、自分がそうされたいと思う接し方を自らすること。人種は関係ない。

「僕ね、たくさんの日本人選手と出会ってきたんだ。新庄、大家、(松井)ヒデキ、石井。イチローとは、オールスター行きの飛行機で出会ったんだよ。バートロ・コロンが用意してくれたプライベートジェットで。それ以来、顔を見せると『ホセ! ホセ!』って声をかけてくれるようになった。(大谷)ショーヘイにも少しでも心地良くいてもらいたいし、僕も努力していることを知ってもらいたい。だからリスペクトを伝えたくて、日本語の単語やフレーズを覚えるようにしているんだ。ウチューカン(右中間)! サチューカン(左中間)! オメデトウゴザイマス! ショーヘイもすっかり慣れて、この前は携帯を持っていたら『それ、ケイタイデンワ』と教えてくれた」

ホセさんのように、とまではいかないが、このコラムを通して少しでも国境を超えた親近感を届けられていたら本望なのだ。

☆ホセ・モタ ドミニカ共和国出身。56歳。エンゼルスの実況アナウンサー兼解説者(スペイン語と英語)。1985年、ホワイトソックスにドラフト2位指名されプロ入り。91年にパドレスで二塁手としてメジャーデビュー。メジャーでの出場は19試合にとどまる。引退後、97年からFOX局でスペイン語の実況中継をするようになり、2002年からエンゼルスのブロードキャストメンバーに。ラテン系の元選手で英西バイリンガルの放送人は大リーグ唯一だ。

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