彦山と聖母の騎士修道院周辺の見どころ 聖母の騎士修道院 水浦征男

By 聖母の騎士社

 長崎駅前から路面電車の蛍茶屋行き(3番乗り場)に乗り、諏訪神社前まで行くと、真正面に山が見える。この山が彦山である。彦山は、長崎の街を取り囲む七つの山の一つに数えられている。聖母の騎士修道院は、その彦山のふもとに位置している。彦山は、正式には英彦山と書くようだが、同じ表記の山が福岡県にもある。それで、区別するためにここでは彦山と書いている。長崎では、一般に彦山が使われている。昔から長崎では、正月に七高山巡りが行われる習慣があった。近年は廃れているが、彦山から昇る朝日は美しい。彦山は、修道院の裏手のルルドから登れる。標高は386メートル。ふもとは草原になっているが、頂上付近は結構、険しくなっていて登るのは楽ではない。彦山には、秋の月見でも美しいと定評がある。中秋の名月は、彦山の上にかかるのが最も素晴らしいとの歌まで ある。

 長崎空港から車で聖母の騎士修道院に行くには、高速の長崎道を通った方が速い。大村から高速道路に入る。諫早の出口を過ぎ、次の多良見インターチェンジから長崎出島道路に入る。ここから10分くらい走ったところに、長崎芒塚という出口がある。この出口から出ると、古いトンネルがある。大正時代に完成したかなり長いトンネルである。約650メートル。この長さを掘削機械なしで、人力だけで掘るのは大変な作業だったろう。トンネルが完成した大正時代、全国でも3番目くらいの長さだったという。いまや、薄暗い古くさいトンネルだが、昔は長崎街道を貫く重要な隧道であった。この道は、国道34号線となっている。日見トンネルがなかった時代は、山路を通った。ちょうどトンネルの上辺りに、「芒塚」がある。江戸時代、俳人の向井去来が詠んだ句が碑に刻まれている。「君が手も混じるなるべし花芒」。その情景を想像すれば、こんなところか。旅立つ去来を峠まで見送ってくれた女性が、いつまでも手を振っている。やがて、その姿も見えなくなって、一面の芒の穂波が揺れているだけだ。あの中に彼女の手も混じっているにちがいない。長崎の人は、去来の碑を「芒塚」と呼んでいる。

 日見トンネルから道なりに10分ほどで、「本河内」の信号機が見える。そこを左折して狭い側道に入ると聖母の騎士修道院の正門に着く。左上にマリア像が出迎えてくれる。門をくぐって坂道を上る途中、右手にレンガ色の聖コルベ記念館が建っている。ここに、コルベ神父ゆかりの品々を集めた展示室がある。車を近くに停め、聖堂、聖母の騎士社の売店、ルルドなどを訪問することが出来る。修道院から見下ろす34号線の向こうに本河内水源池(ダム)がある。このダムの上流に、小さな上部水源池がある。かつて長崎市街に水道を引いていた水源池である。神戸、横浜に次いで、日本では三番目の水源池と言われる。現在は、水道の役割は終えている。

 聖母の騎士修道院から歩いて下ると10分くらいで電停、蛍茶屋に着く。さらに10分ほど歩くと、トードス・オス・サントス(諸聖人)教会跡に建つ春徳寺がある。トードス・オス・サントス教会は、長崎甚左衛門の屋敷近くにあった。長崎甚左衛門は、大村純忠とともに、横瀬浦でトーレス神父から洗礼を受け、ベルナルドと呼ばれていた。妻は、大村純忠の娘であった。大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した当時の領主が甚左衛門である。最初の宣教師はルイス・アルメイダだった。まもなく福田のヴィレラ神父が任命され、甚左衛門の領地に移った。甚左衛門から譲り受けた小さな寺を教会とし、トードス・オス・サントス(諸聖人)教会と名付けた。一時期イエズス会の本部であった。セミナリヨが置かれたこともある。イエズス会本部が置かれた頃、秘書役として、パウロ三木が住んでいた。 また、1614年11月、マニラに流される前には ユスト高山右近もしばらく、ここに滞在している。かつて日本の教会に足跡を残した宣教師たちのゆかりの地と思うと、感無量である。春徳寺以外に、今はキリシタン時代を偲ぶ建物はないが、大きな楠が残っている。この楠だけが、かつての教会の目撃者である。長崎甚左衛門の屋敷跡には現在、市立桜馬場中学校が建っている。

聖母の騎士 2021年9月号より掲載

聖母の騎士修道院 〒850-0012 長崎県長崎市本河内2丁目2−1

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