岸田政権発足後初めて、そして次期衆院選(31日投開票)まで唯一の与野党論戦だった衆参両院の代表質問が終わった。9月の自民党総裁選では格差是正や分配重視の姿勢を示し、「自助」をうたった菅義偉前政権からの「転換」を演出した岸田文雄首相。もともと分配重視を打ち出していた立憲民主党など野党との政策の「近さ」が指摘されていた。だが、岸田首相の代表質問答弁を聞くと、間違いだと分かった。分配政策の主要な柱と言えた「金融所得課税の強化」は早くも腰砕け。総裁選で打ち出した、改革姿勢は次々と後退していた。むしろ「まず成長を目指すのが極めて重要だ」と、分配より成長優先の姿勢が際立った。
首相の後ろ盾であり、「アベノミクス」を提唱していた安倍晋三元首相への配慮、政権発足直後の株価下落の影響など、いろいろな解説がある。だが、筆者は、変節の理由はそんな表面的なことでなく、自民党の在り方そのものにあると考えている。(ジャーナリスト=尾中香尚里)
▽疑似政権交代繰り返す
自民党は、昭和の55年体制当時「キャッチ・オール・パーティー」(包括政党)と呼ばれた。自民党自身は「国民政党」という言い方をしてきた。キャッチ・オール・パーティーとは、国民各層の幅広い支持を得るために、総花的な政策を掲げた政党を指す。55年体制当時、1993年の細川政権発足まで、38年間にわたり政権政党の座を維持し続けた。与野党の政権交代が起きない政治状況下で、自民党は党内の各派閥による権力闘争によって「疑似政権交代」を繰り返してきた。
そこには結果として、政治理念や重視する政策の対立が包含されていた。日米安保条約を改定し、憲法改正を目指した岸信介首相が退陣後、池田勇人首相が「所得倍増計画」を訴え、経済重視の軽武装路線にかじを切ったのが良い例だ。
このような首相交代と政策転換により、国民は、選挙によって自らの手で政権政党を選んでいないにもかかわらず、ある種の「刷新感」を感じ満足してきた。
党内に国権主義者から、社会民主主義を容認する勢力まで、幅広い意見を抱える政党。野党であれば「バラバラ」「寄り合い所帯」とやゆされるところを「懐の深さ」とプラスに転じさせる。それが「昭和の自民党」だった。
9月の自民党総裁選は、まさにそんな、昔懐かしい姿を演出したものだった。岸田氏を含む4人の候補の理念・政策は右から左まで幅広く、党内からは「党の多様性を示せた」と前向きに評価する声も出た。総裁選を勝ち抜いた岸田氏は、菅政権の新自由主義的政策からの脱却をうたい、掲げた政策の項目は「支え合いの社会」をうたう野党第1党の立憲民主党と、極めて似通っていた。
「疑似政権交代」によって野党の主張を取り込み、間近に控えた衆院選での対立軸を消すという状況を作り出そうとしたのである。しかし、そんな昭和の政治、すなわち疑似政権交代は、もはや自民党に許されなかった。自民党はすでに「キャッチ・オール・パーティー」ではなくなっているからだ。
▽2010年綱領が本質
2001年の小泉純一郎政権の誕生と05年の「郵政解散」を通じ、自民党は新自由主義的な政党になったとされる。ここでは、党内で「保守本流」と呼ばれ、社会民主主義的政策とも比較的親和性が高かった勢力が、大きく力をそがれた。岸田首相が属する「宏池会」も弱体化した。
筆者が特に注目しているのは、民主党政権下、野党だった自民党が10年に行った綱領改定である。改めて読んでみよう。
「我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある」と国民性を定義している。
党の政策の基本的考えとして「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」とうたっている。
他人に頼らず、自立を誇りとする。自立できない国民に対しては家族や地域社会による「共助」を求める。行政による「公助」は最後の手段というわけだ。まさに菅前首相が唱えていた「自助、共助、公助、そして絆」そのものである。
さらに「市場原理主義ではない」と断りつつも「我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない」と宣言している。
▽目指す社会像が衝突
筆者は、この綱領に当時の民主党政権の「子ども手当」など、自民党が「バラマキ」と呼ぶ政策への、恨みとも受け取れる感情を見て取る。野党に転落した最大の原因の一つと考えているのだろう。綱領の解説文には「民主党は(略)高所得者にまで『子ども手当』を、米作農家に生産費補償費(農業者戸別所得補償制度)をばらまき、国民生活に政府が関与する政策をとっています。これを恒常的にやると、人間は弱いものですから、自立と自助の心根がなくなります」とある。
子ども手当について当時の民主党は「子どもは(家庭任せにせず)社会で育てる」と訴えていた。親の所得で制限をかけず、高所得の家庭も含め、世帯にではなく、すべての子どもを対象に手当を給付したのも、こうした理念が背景にあった。そして、こうした政策は「子どもの教育は家庭が責任を持つ」という自民党と、理念や目指すべき社会像の点で衝突することになった。
政権を失い、政治権力という接着剤を失っていた自民党は、こうして綱領改定によって自らのアイデンティティーを見つめ直した。そして「頑張った人が報われる自助努力の社会」を、党が目指すべき社会像として掲げた。この時点で、もはや自民党は、かつてのキャッチ・オール・パーティーではなくなったのである。
一方、12年、民主党は再び野党に転落した。下野後の民主党、後の民進党は、目指すべき社会像が異なる議員の「寄り合い所帯」ぶりを露呈した。党内の内輪もめを繰り返し、国民の支持を取り戻せずにいた。
しかし17年の「希望の党」騒動による民進党の分裂と、この結果野党第1党となった立憲民主党を中心とした野党再編の流れの中で、枝野幸男代表が掲げる「支え合いの社会」へと、党として目指す社会像の中軸が確立していった。
▽「自民の多様性」に惑わされるな
このようにして「自助努力の自民党」vs「支え合いの立憲民主党」-という、目指す社会像が対峙(たいじ)する形になる二つの政治勢力が、ほぼ確立した。
あらゆる政策を抱えた一つの政党の中で、権力闘争によって選挙を経ずに疑似政権交代する「昭和の政治」から、二大政治勢力はあるものの有権者が何を選択しているのか明確でない「平成の政治」を経て、目指す社会像が異なる二つの政治勢力から、有権者が選挙によってどちらかを選び取る「令和の政治」へ、ようやくアップデートができた、ということだと思う。
小選挙区比例代表制の導入によって求められた政治の姿とは、つまりはこういうものだったのではないか。その意味で菅前首相は、自民党の綱領に実に忠実だった。コロナ対応の失態で国民の支持を失い退陣したとはいえ、与野党二つの政治勢力の対立軸を明確にして戦うという意味では、確かに「菅vs枝野」のほうが分かりやすかっただろう。
しかし、岸田首相も結局は、安倍、菅と続いた政治を引き継ぎ、その本質がほとんど変わっていないことが、この短い国会で十分明らかになった。要は現在の綱領に沿った「本来あるべき自民党」の姿に忠実なだけだ。逆に岸田氏が党総裁選の時のように、新自由主義的政策を否定し、そこを大きく脱却しようとするなら、むしろ自民党を出た方がいい。
「自民党の多様性」などという言葉に惑わされてはいけない。19日に公示される次期衆院選は、国民が自らの「目指すべき社会像」は与野党どちらの政治勢力に近いのかを考えた上で、どちらに政権を任せるかを選び取る、事実上初めての選挙だからだ。