【仲田幸司コラム】阪神入りをすぐに決断!でも風当たりが・・・

阪神入団発表で小津球団社長(左)と握手

【泥だらけのサウスポー Be Mike(18)】仲田、巨人逆指名報道から一転、僕は阪神と南海から3位で指名をいただいて、抽選で阪神が交渉権を獲得する形となりました。

ドラフト前日に僕は父とともに巨人から用意された航空券で、沖縄から上京。「1位は池田の水野でいくが、そのあと指名します」との言葉を信じ、当日の指名を待っていました。

その時の気持ちはというと、本当に巨人に入団できるんだと、ウキウキワクワク待っていた状態でした。

ただ僕はもともと、12球団どこから指名されてもいいという気持ちでいました。プロ志望というだけで意中の球団以外は大学、社会人という考えは一切、ありませんでした。

しかし、当時は僕の本心をよそに周囲はザワついた状況でした。巨人志望の選手が阪神に指名確定。しかも、ドラフト当日に僕は母校を無断欠席という形になっており、報道各社に「仲田雲隠れ」と書き立てられていました。

バッテリーを組んでいた仲田秀司は西武から5位で指名を受けました。秀司はもちろん学校にいたはずで、同級生から祝福を受けたりしていたはずです。でも、僕はそんな状況も分からないまま。だって、東京にいたわけですからね。

世間では仲田は巨人がダメなら大学に進学するだろうと言われていました。阪神との交渉は難航するだろうなと予想されていました。でも、僕は何度も言うようにプロ志望でした。

なので、僕は阪神入りをすぐに決断しました。1983年に阪神からドラフト指名された選手の中で最初に契約が決まったのは僕なはずです。

ただ、巨人にしか入らないと言っていると思われていた選手です。阪神ファンの方々を含め、最初のころは風当たりがきつかったですね。

「お前は阪神来るんやないんやろ」とヤジられたりね…。「しばくぞ」と言われても、言葉の意味が分からないので何をされるんだろうと思って怖かったですね。

沖縄から出てきて、関西弁も関西文化も何も分からなかったですからね。今はもう言葉のイントネーションも関西に近くなってしまいましたが。18歳からもう関西に出てきましたから。今はもうこっちの方が長くなりました。

入団1年目の84年は安藤統男監督にお世話になりました。1年目はファームでじっくり鍛えて、2年目からは一軍でという方針で育てていただきました。

翌年、優勝することになる85年を前に安藤監督は退任され、吉田義男監督に交代しました。期待をしていただいていたので、安藤さんが寂しそうだったのを覚えています。

ファームではその年から中村勝広さん(故人)が二軍監督になられていました。二軍投手コーチは上田二朗さん(野球評論家)でした。

上田さんといえば印象に残るエピソードがあります。ウエスタン・リーグに登板していたとき、僕の左手の爪が割れてしまい、ユニホームのズボンに血がついてしまう場面がありました。

上田さんに「マイク、ちょっと指を見せろ」と促され「投手という仕事はこういう指先まで注意をしないといけないんだぞ。明日から坊主にしてこい」と叱られてしまいました。

次の日、坊主頭でグラウンドに行くと、なんと上田さんも坊主頭にされていました。僕が坊主にしたのは自己管理不足であることは分かります。でも、まさかコーチがと思っていると「俺の管理不足でもあるからな」と言われました。

親身に思ってくれているんだと実感した瞬間でした。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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