激動26年!馳浩元文科相 差別乗り越え…東京五輪で涙「安倍首相に怒られた」

国会議員として〝最後の登院〟となった馳浩氏

衆院が14日の本会議で解散し、目前に迫る次期衆院選(19日公示、31日投開票)の事実上の選挙戦が始まった。ただ、出馬しない議員も35人以上と多い。自民党の馳浩元文科相(60)もその一人だ。来春の石川県知事選に立候補を予定している馳氏は、26年間に及んだ議員生活を振り返るとともに後輩たちにも熱いメッセージを送った。

この日が最後の登院となった馳氏は即興で「秋の朝 終(つい)に行く道 永田町」と一句、そらんじてみせた。国語の高校教員、ロス五輪出場からプロレスラーになるという異色の経歴を持つ馳氏は、1995年の参院選に石川県選挙区から自民党推薦で立候補し、当選した。2000年には衆院に鞍替えし、これまで当選7回を数える。党や内閣の要職を歴任し、15年には安倍内閣で文部科学大臣に就任。これはプロレスラーとして、初の入閣という快挙だ。レスラーの政治家転身といえばアントニオ猪木氏が先駆けだが、馳氏は26年にもわたって自民党を支えただけに、その功績は計り知れない。

ただ初当選時は馳氏も戸惑いがあったという。「地方議員も経験しておらず、行政の経験もないまま、いきなり国政の場に登場することになった。正直、私のような者が働いていいのか。タレント議員とかプロレスラーだといって軽蔑もされた。ただ正当な選挙を通じて選ばれたことには違いない。きちんと(活動を)報告して、政治の世界のしきたりに適合する部分と、馳浩という“らしさ”をどういうふうに表現していくかを考えた」と振り返る。

唯一の立法機関である国会で馳氏は、持ち前の明るさと粘り強い下交渉、多彩な人脈を駆使し、法案作りに汗を流し、児童虐待防止法改正や過労死等防止対策推進法などの議員立法を成立させた。

「事務局長、超党派の会長として成立したのが37本で、歴代1位。私自身、当たり前のことをしたつもりだが、意識を持って活動しないと成果を上げられない」

こうして冷たい目で見ていた永田町の住人を見返してきた。

文科相を務めていた時には、文化庁や国立工芸館の移転をめぐって「大臣の暴走と省内で言われ、OBからは罵声を浴びた」。だが議員生活でつらかったのは「一つしかない」とか。それは任期途中で衆院に鞍替えした時だ。

「任期をまっとうできなかった悔しさと、そうせざるを得ない政治事情もあって森(喜朗)総理と官邸で判断した。ギリギリの判断だったが、政治は決断ですから後悔はありません」

最も感動したのは13年、東京五輪招致が決まった時。「ロゲ会長の『トウキョウ!』と聞いた時、(自民党の)招致(推進)本部長をやっていて良かったなと。国会議員をやっていて、泣いたのはあの時くらい。一緒にいた安倍首相から『親の死に目以外に泣くものでない』と怒られたのを覚えている」と笑った。

今も現役のプロレスラーとして二足のワラジを履く馳氏は、国会にあるジムで日々、筋トレを欠かさない。60歳にしてなお筋骨隆々のボディーは健在だ。最後の登院は26年前の初登院時に着たスーツに袖を通し、「体形もそうだが、26年前と変わらずフレッシュな気持ちで、一日一日が勝負で全力で走り抜けた」と胸を張った。

猪木氏や馳氏の活躍もありプロレスラーや格闘家の政界転身が相次いでいる。いまでは須藤元気参院議員や木村健悟品川区議、西村修文京区議ら10人以上の議員が国政、地方議会で活動。馳氏は「プロレスラーであることを忘れないで精進していただきたい」とパイオニアとして後進にメッセージを寄せた。議員バッジを外した馳氏だが来春の石川県知事選へ向けて、すでに動きだしている。

「道半ばで国会を去る決意をしたが、石川県の将来に対する熱い思いがある。26年間の政治力、ネットワーク、永田町や霞が関との人間関係を総動員して、故郷に尽くしていくタイミングじゃないかと思っている」

近く正式に立候補を表明するが、衆院選でも後継候補のサポートに回る。その後、休む間もなく次なるビッグマッチに挑むことになる。

☆はせ・ひろし 1961年5月5日生まれ。富山県小矢部市出身。専修大卒業後、母校・星稜高の教員を務める。84年のロス五輪にレスリング・グレコローマン90キロ級で出場。翌年、長州力率いるジャパンプロレスでプロレスラーとしてデビュー。新日本プロレスではメインイベンターとなる。95年の参院選で初当選し、2000年に衆院に鞍替え。予算委員会筆頭理事、自民党の広報本部長など要職を歴任し、15年に文科相に就任。妻はタレントの高見恭子。

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