【インタビュー】競歩・現役引退 森岡紘一朗 世界と戦う姿勢、見せられた

 陸上競歩で五輪3大会、世界選手権5大会に出場した森岡紘一朗(諫早高-順大-富士通)が9月末、現役を引退した。日本競歩界の発展期をけん引した功績は大きく、実直な人柄と郷土愛も相まって「応援される選手」だった。新たに指導者の道を歩み始めた36歳に、競技人生を振り返ってもらった。

 -9月25日の全日本実業団選手権を最後に現役を引退した。
 ほとんどの選手が志半ばで去る中、自ら引退のタイミングを決められるのは幸せ。東京五輪を見届けてから区切りをつけようと考えていた。達成感とほっとした気持ち、支えてくれた方々への感謝を胸に最後のレースに臨むことができた。

 -小学4年から26年間の競技人生。
 さかのぼると、もっと幼いころからジョギングが趣味だった父親の後ろを追いかけていた。家族のコミュニケーションの手段が陸上だった。そこからさまざまな出会いや経験があり、どの場面を切り取っても素晴らしい思い出になっている。

 -都道府県対抗駅伝のメンバーに選ばれるなど長距離選手としても活躍していた中、高校2年で競歩に転向した。
 マラソンや箱根駅伝が子どものころから夢だった。夢を追うのか、新しい可能性を追うのか。葛藤を抱えながら始めたが、九州新人大会を大会新で優勝して吹っ切れた。従来の記録保持者が前年のインターハイ優勝者で、これなら自分も上に行けるんじゃないかと心が決まった。この道を選んで本当によかった。
 
-50キロで2011年テグ世界選手権6位、12年ロンドン五輪7位の実績。加えて美しいフォームを追求する姿勢が高く評価され、現在の「競歩大国・日本」を築く上で重要な役割を果たしたと言われている。
 何かを残せたのか自分で評価はできないが、世界と戦う姿勢は見せられたんじゃないか。高校1年時に競歩がインターハイ種目となり、少しずつ競技人口が増え、強化が始まった。さらに、自分たちの年代は長崎で全国中学大会やインターハイがある「ターゲット世代」。地元で長い時間も、お金もかけてもらい、たくさんの人に育てていただいた。そうやって発展する過程にいた中の1人。全中に出場できず、インターハイも失格してしまったが、長崎がまいてくれた種が、オリンピックの舞台で花を咲かせてくれた。地元の応援は常に強く感じていたし、だからこそ毎年できる限り国体に出場して貢献できるようにと考えていた。
 
-印象に残っているレースは。
 一番はやはり03年長崎ゆめ総体の優勝目前で失格したレース。今も悔しさが残っているくらい苦しかったが、競歩の難しさ、奥深さを身をもって知った。多くの人が支えてくれて、そこから失格はもちろん、警告ももらわないような歩型を目指す原点になった。自らを見詰め直して、その年の静岡国体で優勝できた時の喜びは大きかった。
 もう一つは16年リオ五輪。08年北京大会は初めて五輪に出場できる喜びがあり、選手として成熟していた12年ロンドン大会の思い入れも強いが、リオは苦しい中でやっとたどり着いた分、感慨深かった。けがや体調不良で前年の世界選手権に出場できないような状態だったが、そこを乗り越えて光を見ることができた。今、思い返しても込み上げてくる感情がある。五輪を通じて目標を持ち、追いかける大切さを知った。

 -セカンドキャリアについて。10月1日付で富士通の競歩ブロックコーチに就任した。
 リオ五輪後から、競技への関わり方を変えていた。プレイングコーチとして指導に軸足を置きながら、大学院に通って修士課程を取得した。生理学、バイオメカニクス(生体力学)など競技に直結する分野のほか、これからはチームの一員として他者にアプローチする力が必要になるので、組織論、心理学、マネジメントの専門知識を学んだ。有意義な時間だった。自チームだけでなく日本の将来を考えながら何かの役に立ちたい。
 
 -指導者としての目標を。
 日本は既に金メダルをはじめ、複数のメダルを取っているので、求められているのはそこだと。日本の競歩界をより高いレベルに発展させて、洗練させていく。素晴らしい指導者の方々との出会いがあって今の自分があるので、自分もそんな存在になれればと思っている。

 【略歴】もりおか・こういちろう 諫早高2年で競歩を始めた。2003年静岡国体5000メートルを制し、順大で05年ユニバーシアード20キロ3位。富士通に入社し、五輪は北京からリオデジャネイロまで3大会連続で出場してロンドン大会は50キロで7位。18年から富士通のプレーイングコーチ、21年10月からコーチに専念している。長崎県諫早市出身。

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