【仲田幸司コラム】二軍先発の日、沖縄から親父が日帰りで来てくれた!

上田コーチの現役時代の投球フォーム(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(19)】「巨人逆指名」と報じられながら、阪神からドラフト3位指名を受け入団。もともとは12球団OKだったので、すんなり決断しました。

沖縄から意気込んで関西に出てきました。もちろん、やってやろうという気持ちです。でも、18歳の僕にとって親元を離れての初めての生活は厳しいものでした。

まず、きつかったのは言葉です。関西弁になかなかなじめませんでした。なんか、何を言われてもケンカ腰というか、怒られているみたいな感覚でした。

あと、沖縄にはいわゆる鉄道というものがないんです。だから、電車の乗り方も分かりません。球団の親会社が阪神電鉄なんですけどね。

正直、僕はホームシックになってしまいました。今でこそ長距離移動は簡単になりました。飛行機にも気軽に乗れて、自由に行ったり来たりできます。

ただ、当時は大阪・伊丹空港から沖縄・那覇空港までは往復で6万円ほどかかりました。今なら往復で2万円しないようなチケットもありますが、時代が違います。

本当にお正月しか里帰りできなかった。高校時代も自宅から走って通ってましたし、寮生活もしたことなかったですからね。

当時の僕はウォークマンを聴きながらですよ、カセットを入れるタイプのね。今みたいにMP3の小型のプレーヤーなんてないですからね。寮に何台かあった自転車に乗って、甲子園浜に出かけるのが、唯一の気晴らしでした。

曲はサザンオールスターズの「Ya Ya(あの時代を忘れない)」です。潮の香りをかいでいると何となく沖縄を思い出すんです。それで海に向かってペダルをこいだのを覚えています。

37年も前の話ですよ。電話も寮の公衆電話ですよ。それも一人3分までと決まっていました。門限が午後10時で電話オッケーなのは10時半まで。電話の台数も1、2台しかなかった。

もちろん携帯電話なんてない。関西に知り合いもいない僕の楽しみは、沖縄への電話くらいしかなかったですね。沖縄への電話代も高かったのでたくさん、十円玉、百円玉を用意して受話器を握ったものです。

ただ、ホームシックに負けているわけにいきません。この状況に何とか打ち勝たなあかんと。そういう思いでグラウンドに出ていました。そういう中で、二軍投手コーチの上田二朗さんをはじめ、熱い指導者の下で野球漬けの生活を送っていました。

そういえば、ウエスタン戦で初めて先発した試合の前夜でした。寮の公衆電話から親父に報告しました。「明日、二軍で初先発なんだ」と。

次の日の結果は正直、はっきり覚えていないんですがそれなりに好投できたんです。試合も終わり、練習も終わり、寮に帰って風呂に入って食事も済ませ、落ち着いたころに親父に電話しました。

午後8時か9時ごろだったと思います。試合の報告をしたら「おお、ええピッチングやったなあ。すごかったなあ」と内容を知っているんですよ。

日帰りで沖縄から来てくれていたんです。そういう人なんです。ドラフトで巨人以外の球団に手紙を出した人です。巨人入りを当時の王監督に直談判した人です。息子のためならそこまでしてしまう人なんです。

僕としては一声掛けてよと言いましたが、親父には親父独特の考えがある。そういうわけにはいきません。

1年目は一軍登板はありませんでした。コーチやトレーナーにお世話になりながら、大事に鍛えていただきました。さあ、2年目は日本一になった1985年です。僕は一軍デビューすることになります。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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