松坂大輔が語った引退会見のすべて 「だから会見したくなかった」「最後に報われる」

引退会見に臨んだ西武・松坂大輔【写真提供:西武ライオンズ】

一問一答、引退の決め手はすっぽ抜け「1球でボールを投げることが怖くなった」

西武の松坂大輔投手が19日、日本ハム戦(メットライフ)での引退試合を前に、所沢市内にある球団事務所で引退会見を行った。約1時間にわたった会見では、注目を浴びた1998年夏の甲子園から家族、そしてこだわった背番号「18」のことまで。途中、涙を浮かべ、言葉に詰まりながらも、23年間のプロ生活の思いを吐露した。ノーカットの一問一答完全版は以下の通り。

――23年間のプロ生活、今の率直な思い
「そうですね……。選手は誰しもが長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願っていると思うのですが。うーん、きょうという日が来てほしいような来てほしくないような、そんな思いがあった。現時点ではまだすっきりしてないんですよね。このあとに投げることになってますし、投げることができて、そこで自分の気持ちもすっきりするのかな、すっきりしたい」

――来てほしい?
「今の自分の体の状態のこともありますし、やっぱり続けるのは難しいと思っていたので。早くできるだけ、こうして皆様の前に出てきて報告できれば良かったのですが。引退発表があって、球団はすぐに会見をしてもらう予定だったのですが、僕自身が発表したものの中々、受け入れられなかった。気持ちが揺れ動いている中で会見するのもと思って。発表してから、3か月間、やれそうだなと思った日は一度もなかったですね。できるだけ早く終わらせられたらと思って過ごしていました」

――引退決断の一番の要因
「昨年の春先に右手の痺れ、強く出るようになって。その中でも何とか投げることができたのですが、コロナ禍の中で緊急事態宣言になりトレーニング、治療がままならない中で症状が悪化して。できれば手術は受けたくなかったが、ほぼ毎日のように首の痛みや寝られない日が続いてちょっと精神的に参ってしまうこともあり手術を決断した。これまで時間をかけてリハビリ続けてきたが中々、症状が改善しなかった。その中でもキャンプインしもうそろそろ、次にはファームの試合に投げらそうだねというところまで来たが、その話をした矢先にブルペンの投球練習の中で何の前触れもなく右バッターの頭の方にボールが抜けた。ちょっと抜けたレベルじゃなくとんでもない抜けかた。投手って抜けそうだなと思ったら指先の感覚でひっかけたりできるのですが、それが出来ないぐらい感覚の無さ、そのたった1球でボールを投げることが怖くなった。そんな経験は一度もなかったので、自分の中でショックが凄く大きくて、2軍監督に相談してちょっと時間下さいと。時間もらったけど右手の痺れ、麻痺の症状が改善しなかったので、もうこれは投げるの無理だなと。自分に言い聞かせた」

「アンチのファンも含めて感謝しています」

――決意が固まったのは?
「球団に報告する1週間前だったかなと思います。球団にお願いして休ませてもらったのは5月の頭だったので。2か月間、ずっと考えて悩んで、その中でも治療を受けに行ったりして投げられればと思ったのですが、変わらなかった。時間ももうないなと」

――相談は? 家族の反応は?
「もう、難しいかもしれないと家族にはしました。うーん…。(涙を見せながら)だから会見したくなかったんですよね(笑)。ちょうど辞めると決断した時に妻に電話した。その時、ちょうど息子がいて(涙)。『長い間お疲れ様でした』と言ってもらいましたし、僕の方からも長い間サポートしてくれてありがとう、と伝えさせて頂きました」

――今振り返ってこみ上げてくるもの、感謝の思い?
「一言で感謝と言ってしまえば簡単ですが、そんな簡単なものではなかった。いい思いもさせてあげられたかもしれないですが、家族は家族なりに我慢してストレスもあったと思いますし。本当に長い間、我慢してもらったなと思います」

――今一番感謝を伝えたい人は?
「うーん、妻もそうですし、子どもたちもそうですし、両親も。これまで野球人生に関わって頂いた、アンチのファンも含めて感謝しています」

――今後について?
「そうですね、家族との過ごす時間を増やしながら、違う角度で野球を見ていきたい。野球以外にも興味あることはたくさんあるのでチャレンジしていきたい。野球界、スポーツ界に恩返しという形を作っていければいいなと思っています」

「最後は心が折れた、受け止めて跳ね返す力がなかった」

――輝かしい成績もあり怪我もった23年間
「23年、本当に長くプレーさせてもらいましたが、半分以上は故障との戦いだったと思います。最初の10年があったからここまでやれたと思う。僕みたいな選手なかなかいないかもしれない。一番いい思いも、自分でいうのも何ですがどん底も同じぐらい経験した選手はいないかもしれない」

――自身でみた松坂大輔は?
「まぁ、長くやった割には思っていた成績を残せていないなと思います」

――辛口な評価
「通算勝利数も170個、積み重ねてきましたが。ほぼ、最初の10年でできた数字というか。自分の肩の状態は良くなかったですが、そこからさらに上乗せできると思っていた」

――褒めてあげたい部分は?
「選手生活も後半は叩かれることが多かったですが、それでも諦めずに、諦めの悪さを含めて。もっと早く辞めても良いタイミングはあったと思うし、思ったパフォーマンスが出せない時期が長く自分自身苦しかったが、たくさんの方にも迷惑かけてきましたが、諦めずにここまでやってきたと思います。最後はこれまで、叩かれたり批判されたりすることを力に変えて跳ね返してやろうとやっていましたが、やっぱり最後はそれに耐えられなかったですね。心が折れたというか、あとはエネルギーに替えられたものが、受け止めて跳ね返す力がもうなかった」

――名勝負もたくさんあった、印象に残っている試合、対戦は?
「その質問されるだろうなと思って色々考えたのですが。ベストピッチ、ベストゲームだったり色々ありすぎて、中々、この人、この試合、この1球と決めるのは難しいですね。見て感じるものだったり記憶に残るのは人それぞれ違うと思うので、何かをきっかけに『松坂あんなボール投げてたな、あんなバッターと対戦したな、あんなゲームあったな』と思い出してくれればいいかなと」

巨人・桑田真澄に憧れ「周りにいい加減にしろと言われるぐらい、18を付けたがる自分がいた」

――背番号18に対する思い
「小さい頃にプロ野球を見始めて、ほぼ巨人戦しかやってなくて。その試合で映る桑田さんの背番号18が物凄くカッコよく見えて。当時はエースナンバーと知らなかったですが、最初に受けた衝撃がそのまま残っていたというか、だからエースナンバーと知る前からプロに入ってピッチャーやるなら18を付けたいと思ってやっていた。18という数字にこだわってきたというか、周りにいい加減にしろと言われるぐらい、18を付けたがる自分がいた。最後に背番号変わることありましたが、最後に18を付けさせてくれた球団に感謝したい」

――18を付けてマウンド、最後にファンに向けてどんな姿を
「本当は投げたくなかったですね。今の体の状態もあるし、この状態でどれぐらい投げられるかもありましたし。もうこれ以上、ダメな姿を見せたくないって思っていたんですけど。引退を沢山の方に報告しましたが、やっぱり最後、ユニホーム姿でマウンドに立ってる松坂大輔が見たいと、言ってくれる方々がいたので。もうどうしようもない姿かもしれないが、最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思いました」

――試合後のセレモニーは?
「特にないですが、セレモニーに関してはファン感謝デーにやらせてもらえるので、そこで改めてファンの方々に伝えられればと。試合後にグラウンド1周してスタンドに挨拶をさせて頂く。今日やるとナイターですし、皆さんも時間がないと思うので別の日にしたほうがいいかなと。僕の気遣いが(笑)」

――改めて野球とは?
「気の利いたことが言えたらいいですが、5歳くらいから初めて35年以上なりますけどほぼ、やってきた僕の人生そのものだと言えますし。その中で本当にたくさんの方々に出会えて、助けてもらってここまで生かされてきたと思う。本当に皆さんには感謝しています、その思いを込めて何球投げられるか分かりませんが、最後のマウンドにいきたいと思います。本当にありがとうございました」

松坂世代は「本当にいい仲間に恵まれた世代」

――野球への思いが揺らいでしまった時は?
「そうですね……。これは僕だけじゃなくて、怪我をしている選手、結果が出ない選手もいると思いますが、すごく苦しいんですよね。周りの方が思っている以上に。でも、僕の場合は野球を始めた頃から変わらない、野球の楽しさ、野球が好きだっていう。その都度思い出して、なんとか気持ちが消えないように戦っていたというのはありますね。落ち込んでも、最後にはやっぱり野球が好きだ、今でも続けたいと。後半はギリギリのところでやっていたと思いますね。いつその気持ちが切れてもおかしくなかったって思います」

――野球が大好きな気持ちは変わらない
「そうですね。好きなまま終われてよかったです」

――ブルペンの話はいつ?
「4月の終わりの方だったと思いますね。ゴールデンウィーク前くらいから休ませてもらったので、4月の終わりです」

――自信を持って投げられた最後はいつか?
「そうですね、2008年くらいですかね。今でも忘れないというか。細かい成績は覚えてないんですけど。2008年の5月か6月、チームがウォークランドに遠征中で、僕もその前の試合で投げて、ウォークランドで登板間のブルペンの日だったんですけど。ブルペンに向かう途中で足を滑らせてしまって。咄嗟にポールのようなものを転ばないように掴んだんですけど。その時に右肩を痛めてしまって。そのシーズンは大丈夫だったんですけど、シーズンオフからいつもの肩の状態ではなかった。そこからは肩の状態を良くするのに必死でしたね。フォームを大きく被り始めたのが2009年くらいだったんですけど、その頃には痛くない投げ方、痛みがあっても投げられる投げ方を探し始めていました。その時には、自分の思うように投げられていなかったですね。それからは、その時その時の最善策を見つける作業ばかりしていました」

――松坂世代への思いは?
「本当にいい仲間に恵まれた世代だったなと思います。本当にみんな仲良かったと思いますし、言葉に出さなくても分かり合える。松坂世代という名前がついていましたけど……うーん。自分は松坂世代と言われることはあまり好きではなかったんですけど、僕の周りの同世代のみんながそれを嫌がらなかったおかげで、ついてきてくれた。そういうとおこがましいですけど、みんながいたから先頭を走ってくることができたと思いますね。みんなの接し方が本当にありがたかったなって思いますね。それと同時に自分の名前がつく以上、世代のトップでなければならないって思ってやってきましたけど。それがあったから、最後まで諦めずにやることができたかなと思いますし、最後の1人になった(和田)毅にはですね。僕の前に辞めていった選手たちが、僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分も毅が投げ続けて欲しいなと思います。同世代の仲間には感謝しています」

心残りは200勝「東尾さんにお返ししたかった」

――マウンドに上がるときに1番心掛けていたことは?
「最後の3年間あまり自分の状態が良くなくて、投げたくないな、できれば代わりたいな、代わってもらいたいなって思うことはあったんですけど。やっぱり、最後は逃げないで、立ち向かう。どんな状況も全て受け入れる。自分に不利な状況も跳ね返してやる。ギリギリまで嫌だなと思っていることもありましたけどね。でも、その気持ちを持ってマウンドに立つようにしていました」

――大場面で力を発揮するために、子どもたちに伝えたいことは?
「厳しい状況もあったんですけど。このマウンドに立てる自分はかっこいいと思っていましたね。思うようにしていたんですけどね。他の人に任せて、降りた方がいいことはあったかもしれないですけど、大きな舞台、目立てる舞台に立てる自分がかっこいいと思うようにしていたからですかね。毎回勝っていたわけではないですし、痛い思いをしてきたこともありましたけど。そういう舞台に立てるのは、かっこいいと思うので。みんなにはそういう舞台では、積極的に立ってもらいたいなと思います」

――170勝、日本一、世界一も成し遂げた。やり残したことや後悔は?
「ライオンズに入団したときに東尾さんに200勝のボールをいただいたので、自分自身も200勝してお返ししたかったなって思いますね。1番先に思います、そのことが」

――自分に声をかけるとしたらどのような声を?
「『もう十分やったじゃん。長い間お疲れ様』ですかね。はい」

1998年夏の甲子園でのPL学園戦が「諦めなければ最後に報われると感じさせてくれた」

――ご家族から労いの言葉は?
「家族も僕の体の状態をわかってくれたし、『もうそろそろやめるかも』って話していた時は、喜んでいたんですけどね。『これから遊ぶ時間が増える。嬉しい』って言ってはいたんですけど。実際に辞めるって報告した時は、みんな泣いていたんで……。『やったー! お疲れ様』って言われるかと思ったんですけど、みんな泣いていたので、うーん。でも、僕にはわからない感情を妻や子どもたちが持っていたのかもしれないですね。でもそれを知って、感謝の気持ちとともに申し訳ないなって気持ちはありますね。妻と結婚してもらうときも、批判の声だったり、叩かれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくからといって結婚してもらったんですけど、思った以上それができなくて本当に申し訳なかったなと思いますね。妻は本当に関係ないところで叩かれることもあったので、本当に大変だったと思います。ありがとうございましたと改めて言いたいですね」

――ご家族と過ごす時間増えると思うが一緒にやりたいことは。
「最近、家の庭で野菜を育てたりしているので、そんなことをみんなでやっていきたいと思いますね。大したことじゃないのかもしれないですけど、そういうことですらできなかったので、そういう時間を増やしていけたらと思います」

――諦めの悪さの1番の原動力は?
「諦めなければ、最後に報われると……。それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。今、質問されてパッとその試合が出てきたので、あの試合があったからですかね。最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べるって。あの試合が、諦めの悪さの原点ですね」(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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