がん告白、壮絶な被爆体験「一言でも後世に」 岡さん、医師の孫へ語り継ぐ

岡さんの話に耳を傾ける三浦さん(右)=長崎市内

 今年の長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典を機に、原爆投下後に救護所となった新興善国民学校で活動した医師の記憶が、孫に受け継がれた。看護学生として救護所で活動した被爆者の岡信子さん(92)が「平和への誓い」で経験を明かしたのがきっかけ。岡さんは「祖父のことを知りたい」と求める医師の孫と面会。自身にがんが見つかったことを告白し、「一言でも後世に残したい」と壮絶な体験を伝えた。
 孫は長崎市の三浦紀子さん(66)。祖父寛次さんは当時、興善町に「三浦医院」を構える開業医で、原爆投下後、リヤカーで医療器具を救護所に運び込んで被爆者を治療したという。しかし、生前、当時の経験を家族に語ることはなかった。
 市などによると、新興善国民学校には最も多くの負傷者が集まり、被爆後の8月17~31日には約8千人が治療を受けたという。1階に外来診察室があり、2、3階に患者が収容された。市医師会や海軍などから医師らが派遣されたというが、従事者の人数は記録が残っていない。
 紀子さんは、岡さんが被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げたことを報じる新聞記事を読み、寛次さんが壮絶な現場で治療を続けたことを知った。少しでも知りたいと岡さんとの面会を望んだ。
 9月下旬。市内で紀子さんと顔を合わせた岡さんは「三浦先生のお名前は記憶にある」と証言。ある時、被爆者の体からウジを取るためのピンセットを借りに行った出来事を明かした。いったん「数がないからだめだ」と断られたものの、その後、「さっき借りに来たのは誰だったかな」と持ってきてくれた、と振り返った。紀子さんは「それは、おじいちゃんらしい」と目を細めた。

三浦寛次さん

 寛次さんは紀子さんが中学生の時、88歳で死去。救護所で被爆者を治療したことは親戚から聞いたことがあったが、本人は生前何も語らなかった。もともと寡黙だった祖父。「私が聞けば教えてくれたと思う。年を重ね、『聞いておけばよかった』と後悔している」と紀子さんは語る。
 治療らしい治療はできないにもかかわらず、次々と負傷者が運び込まれ、救護所は「戦場そのものだった」と岡さん。自身も当初は被爆体験について「思い出したくない」と語らなかったことから、生前多くを語らなかった寛次さんにも理解を示した。その上で、「他人のことを考える余裕もない状況下で、三浦先生は人を助けようという気持ちが強かったはず。すばらしいこと」とたたえた。
 岡さんは、がんが既に転移して手術ができない状態であることを説明。「一日でも長く生きて、少しでも後世に残していきたいという気持ちでいっぱい。三浦先生のお孫さんに出会えて、当時を思い出せたことも何かの縁だと思える」と紀子さんに語り掛けた。
 「名前を覚えてもらっていただけで十分。おじいちゃんが携わった現場を少しでも知ることができた」。紀子さんは、祖父が体験したであろう原爆の惨状を伝える岡さんの言葉を、孫として胸に刻んだ。

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