法廷で明らかとなった法違反の数々 神奈川県職員パワハラ過労自殺訴訟 和解は成立しても……

神奈川県の職員だった息子が自殺したのは、過労と上司のパワハラが原因だ――。母親がそう訴え、県に損害賠償を求めていた訴訟がある。黒岩祐治知事は横浜地裁の和解案を受け入れると表明し、裁判は幕引きとなる見通しだが、問題は終わっていない。

法廷で明らかになったのは、パワハラとすさまじい長時間労働だけではない。亡くなった職員と産業医の面談が半年も遅れたうえ、医師には実際の半分以下の残業時間しか伝わっていなかった。県は過労死対策をどう立て直すのか。

◆37歳、公衆トイレで自ら命を絶つ

神奈川県庁は、観光名所でもある横浜港の大さん橋から徒歩で10分ほどしか離れていない。プロ野球・横浜ベイスターズの本拠地、横浜スタジアムへも歩いていける。

その庁舎近くの公衆トイレで2016年11月14日夜、男性職員は自ら命を絶った。入庁してからちょうど10年。37歳の働き盛りだった。当時の職場は「不夜城」と呼ばれ、県庁内で一、二の忙しさだった総務局財政課。そこでいったい何が起きていたのか。

訴状などによると、男性は財政課に来る前の知事室勤務時代から、しばしば不眠や体調不良を訴えていた。知事の「特命事項」などをめぐって、上司からパワハラを受けていたからだという。「いつも怒られて、つらい」と顔を覆って泣いていたこともあった。16年4月に財政課へ異動すると、今度は残業に次ぐ残業が襲いかかった。厚生労働省は月平均80時間の残業を「過労死ライン」としている。男性職員の残業は、それをはるかに上回った。異動から3カ月後の7月には、残業が200時間超。9月にはうつ病を発症した。財政課に移って11月に自殺するまでの7カ月半、休みを取れたのは土日を含めて計24日に過ぎなかった。

神奈川県庁本庁舎


◆4月116時間、5月130時間、6月141時間……

男性職員の公務災害(民間で言う労災)は2019年4月に認定された。自殺の原因は長時間労働などに伴ううつ病だったと、地方公務員災害補償基金神奈川県支部が判断したのである。認定の決め手となったのは、男性職員の専用パソコンの記録だ。ログオン・ログオフの時刻をもとに、休日出勤時の休憩時間などを除いて残業時間を算定した。その実態がすさまじい。

知事室在籍時の約2年半は、月当たりの残業時間がたびたび100時間を超過し、財政課へ異動する直前の2016年3月も100時間を超えていた。財政課への異動後を並べると、次のようになる。

4月 116.41時間
5月 130.25時間
6月 141.02時間
7月 201.13時間
8月 185.51時間
9月 135.37時間

9月までの半年間は、月平均で151.6時間に達し、9月にはうつ病を発症した。それでも残業は止まらない。うつ病発症後の10月も残業は約100時間。11月も、自殺する14日までの約半月間で残業は60時間超になっていた。

当時の労働安全衛生法は事業者に対し、月当たりの残業時間が100時間を超す労働者に対しては、産業医による面談指導を義務付けていた。月当たり80時間超の労働者については努力義務。法改正で2019年4月以降は義務の範囲が80時間超になったものの、当時の法基準に従えば、神奈川県は2016年春には男性職員に産業医の面談を受けさせる義務があった。

ところが、男性職員が初めて産業医の面談を受けたのは、自殺の4日前、2016年11月10日のことだ。県側に「義務」が生じてからすでに半年。なぜ、こんなにも面談は遅れたのか。

◆残業時間 記録と実態に大きな食い違い

昨年7月30日に行われた第2回弁論準備は、この訴訟の一つの山場だった。原告側が裁判所に提出した証拠書類によって、とんでもない事実が明るみに出たのだ。

実は、男性職員と産業医との面談が実現した際、県総務局総務室は医師に対し、事前に男性職員の残業時間を伝えている。証拠書類によると、財政課時代の残業時間は2016年4月が47時間、5月77時間、6月72時間、7月70時間、8月79時間、9月は87時間だった。月平均では72時間に過ぎない(それでも相当に多いが)。地方公務員災害補償基金神奈川県支部がパソコンのログオン・ログオフ記録から確定させた残業時間と大きく食い違っている。

つまり、総務局総務室が把握していた書類上のデータによれば、16年春段階の残業時間は面談の義務基準「残業80時間超」に達していない。義務になったのは、9月の87時間になってからだ。そして、ようやく11月に面談に至ったことになる。しかも、産業医は「月平均151時間」という実態とは全く違う「月平均72時間」という数字を知らされ、男性職員との面談に臨んでいたのだ。

産業医は労働安全衛生法などに従い、面談を終えると、労働者一人ひとりについて「面接指導結果報告書」を作成する。男性職員の報告書はどうだったか。書面にはこう記されている。

「配慮すべき心身の状況 あり」
「診察区分 要観察」
「疲労蓄積 軽」
「就業区分 普通」
「事後措置としての指導・勧告の必要性 不要」
「次回面接 予定なし」
「労働の圧縮 特に指示なし」

心身の状況には配慮すべき状況が見られるが、疲労の蓄積は大したものではないし、働き方についての指導も不要、仕事を減らすなどの措置も特にない――。正しい残業時間が医師に伝わっていなかったためか、この報告書からは切迫した状況が何もうがかえない。男性職員が県庁近くのトイレで生涯を終えたのは、この4日後のことだ。


◆「誰が見ても異状な状態だったと思います」

男性の母親は当時、何を思っていただろうか。裁判所に提出した意見陳述書などには、こうつづられている。

「財政課に異動後は土日も休めず、日に日にやつれていきました。『頭が痛い、頭が働かない』とこぼし、8月ころからは表情がなくなりました。誰が見ても異常な状態だったと思います」

「入院するように何度説得しても『身体が悪いわけじゃない。みんなに迷惑をかける』と出勤を続け、毎日無事に帰宅してくれることだけを祈っていました。医師から言われれば入院してくれるのでは、と面談が最後の望みでした」

これに対し、被告・神奈川県は準備書面の中で、面接日の設定が遅きに失したこと、正しい残業時間が産業医に伝わっていなかったことについては「認める」と記さざるを得なかった。ただし、残業時間をめぐる実態と記録の大きな食い違いがなぜ起きたのかを県側は法廷で明らかにしなかった。

では、書類上の残業時間を算定しているのは誰か。この男性職員に限ったことなのか、組織的なことなのか。

フロントラインプレスは神奈川県に問い合わせた。総務局組織人材部人事課の担当者は「残業時間は自己申告制になっているので、(公務認定された残業時間との開きについて)詳しいことは本人ではないので分からない」と回答した。その本人はもういない。

神奈川県庁に勤務する40代の男性職員は、取材に対して次のように語った。

「財政課は『不夜城』と言われて県庁内で一、二の忙しい職場です。(自殺した職員は)実際の残業時間を申告できなかったんでしょう。そんなことをしたら毎月のように医師面談を受けることになるし、そうなったら、課長の管理責任が問われることになる。産業医に正確な残業時間が伝わっていたら……とは思うけど、そうした仕組みというか、体制には今もなっていません」

財政課と同じ本庁舎に勤務する別の職員にも取材した。

「遺族による裁判で過労自殺が表沙汰になって以降、どの部署もなるべく残業を減らそうと取り組んでいます。けど、大幅な人員増でもなければ、実態として全員が80時間以内(の残業時間)にするのは無理。生の残業時間をそのまま申告できる職場なんて、今だって限られています」

◆“見せかけの残業時間”の裏で

このケースで問われたものは、いったい何か。過労死問題に詳しい日本労働弁護団の笠置裕亮弁護士(神奈川県)にインタビューした。

――県職員の今回のケースでは、産業医に面談相手の正しい残業時間が伝わっていませんでした。これをどう捉えたらいいのでしょうか。

「産業医が職責を果たすために事業者がきちんとした労働者のデータを提供するよう、労働安全衛生法は義務付けています。(神奈川県庁のように)過小な残業時間を知らせたら法律違反です。しかし、違反に対する罰則はありませんから、正確な労働時間を把握することすらしない事業者が多いのが現状です。法律に触れない範囲の、見せかけの残業データを提供していれば、それでいいと思っている。そんな状態では産業医から適切なアドバイスは期待できません」

笠置裕亮弁護士

――“見せかけの残業データ”の裏で、実際はどんなことが起きているのでしょうか。

「会社や役所側が遺族に示す残業記録が実際の労働時間を本当に反映しているかと問われれば、全体の95%は反映されていない。過労死の事案を担当している弁護士の実感として、そう思わざるを得ません。(2019年の改正労働基準法の施行によって)民間や公務職場で月80時間という残業の上限規制が導入されたことから、どんなに忙しい職場でも残業は79時間とか、77時間とかにとどめておこうとしている。労基署の指導を逃れるため、データの隠ぺい件数はこれまで以上に増えている気がします」

――事業者は何をすべきでしょうか。

「過労死を防ぐためにも、産業医の面談を意味あるものにするためにも、民間企業や公務職場はまず、日々の労働時間を正確に把握することに取り組むべきです。パソコンの操作記録や入退館記録などを活用し、それを可能にする仕組みを作らなければならない。正確なデータを把握しないことには、労働時間を減らすための業務見直しや業務量の調整作業は進みません」

神奈川県の黒岩知事は裁判所の和解勧告を受けると表明した9月6日の会見で、こう述べている。

「亡くなられた職員は、私もよく知っている職員です。誰に対しても優しく、仕事の面でも、まじめで優秀な職員でした。 彼が過重な業務に起因して自ら命を絶ったことについて、県行政の最高責任者として、改めて、ご遺族に心からのお悔やみと、お詫びを申し上げます。申し訳ございませんでした。

彼の死を決して無駄にしないよう、そして、このような悲しい出来事を二度と起こさないよう、平成29年2月に、私を本部長とする『働き方改革推進本部』を設置し、パソコンのログの記録も活用した時間外勤務の管理や事前命令の徹底による長時間労働の縮減などの「働き方改革」に取り組んできました。この和解を契機に、県庁の『働き方改革』をさらに徹底してまいります」

知事の言は本当に実を結ぶのか。神奈川県庁は長時間労働からもパワハラからも無縁になっているのか。民事訴訟の次回弁論は10月28日。原告の母親に請求通り、神奈川県が約1億円を支払うなどの和解案が正式に成立する予定だ。

(フロントラインプレス:本間誠也、写真も)

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