実家は寺。出撃前の特攻隊員が祈願に来た。桜の枝をあげたお兄さんは同期の桜を歌ってくれた。翌日、寺の上空に飛行機が。3回旋回して南へ飛び立った〈証言 語り継ぐ戦争〉

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昭和10年の照明寺本堂の落成日に撮影した写真。左から2番目の母親に抱かれた子どもが有川蓮美さん

■有川蓮美さん(87)霧島市隼人町東郷

 太平洋戦争が始まった時、溝辺国民学校の1年生だった。鹿児島空港(霧島市溝辺)の近くにある浄土真宗の照明寺が実家だ。空港は戦争末期、多くの特攻機が飛び立った旧海軍航空隊第二国分基地があった場所。出撃前、寺を訪れた特攻隊員の“お兄さんたち”の記憶は、いまも忘れられない。

 僧侶だった父は満州へ出征し、姉2人は女子挺身(ていしん)隊、兄も学徒動員で家を出ていた。家に残されたのは、母、耳が遠くなった祖母と私の3人。自転車にも乗れない母は、法事などがあると父の代わりに歩いて檀家(だんか)さんを回っていた。

 本堂の瓦屋根には、敵機をごまかすために木を置いていた。空襲警報が鳴るたび、祖母の手を引いて近くの斜面に掘った防空壕(ごう)に駆け込んだものだ。身近で空襲は経験しなかったが、鹿児島市方面の夜空が真っ赤に染まっているのが見えた。

 1944(昭和19)年、寺から2キロほどの場所に第二国分基地が完成し、ほどなく溝辺に全国各地から特攻隊員がやってきた。一帯は天孫降臨ゆかりの高千穂峰、韓国岳などの霧島連山、桜島も一望でき、春には菜の花が黄色いじゅうたんのように一面咲き誇る。今も夢に出てきそうなほど美しい場所だった。

 いつしか寺に隊員たちが足を運ぶようになった。必勝祈願だったのだろう。仏様に手を合わし、「あす飛び立ちます」と言って帰る。そして翌日は飛行機が出撃した。母が何か相談に乗っているような場面も記憶にある。幼いながら、特攻という作戦の内容、隊員たちに待ち受ける運命も理解していた。

 寺に小さい子どもがいると聞いていたのか、隊員たちは基地からチョコレートやコンペイトーをお土産に持ってきてくれるようになった。ぜいたく品で見たこともないお菓子に心が躍り、学校から大急ぎで帰宅していた。中には、わが子と重ねていた隊員もいたのだと思う。

 桜の時期だった。ある隊員から「ご家族の写真をください」と頼まれた。手元にしのばせ、心の平穏になればと思ったのだろうか。ただ、家に渡せる写真はなかった。代わりになればと、とっさに近くの桜の木にはしごをかけ、枝を1本折って手渡した。受け取った隊員は胸ポケットに桜をしまい、「同期の桜」を歌い始めた。背筋を伸ばして声高らかに。そして基地へと戻っていった。

 翌日、隣家に住む女性が「飛行機が飛んで来ちょいもんど」と走ってきた。空を見上げると、1機が寺の上を3回旋回して南の方に飛び立っていった。昨日の隊員だと思った。名前も知らない。ただ、涙があふれて手を振り続けた。

 寺に来た隊員はみんな優しかった。死にたくなかっただろう。平和な時代であれば、普通にお父さんをしていた人だっていたはず。だけど「お国のため」と教育されていたからか、未練を見せることはなかった。

 特攻を指示した人たちは生き、命令された若い人たちは死んだ。あまりに理不尽だ。溝辺である特攻隊の慰霊祭には毎年参加している。以前は生き残りの方々の姿もあったが、もう一人もいない。生き証人がいなくなる中、風化させてはいけないと強く思う。

特攻隊員との交流を振り返る有川蓮美さん