「民藝」の樹の下で。東京国立近代美術館「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展レポート

本展の会場に並ぶのは、陶磁器、染織、毛木工、蓑、籠、ざるなどの道具類。これらは「民藝(民衆的工芸)」によって美を見出されたものたちだ。

民藝とは、ありふれた「平凡な、当たり前な品」に美を見出す思想のこと。その思想の背景には行き過ぎた近代化を反省し、自分たちの足元(ローカル)を見つめ直すという時代の流れ、そして資本主義の矛盾に苦しむ地方の農村や産業の姿があった。こうした状況への「実践」として民藝を捉え直す展覧会「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展が10月26日、東京国立近代美術館でスタートした。担当学芸員は花井久穂、鈴木勝男。

「展覧会を企画するに際して、民藝運動をどう捉えるかの2つの選択肢がありました。宗教哲学者である柳宗悦の“思想の結晶”として見るか、“実践的な活動”として見るかです。柳の思想を検証する展覧会はこれまで何度も行われてきたこともあり、当館では、3つの方法を通して多様な民藝の活動を“実践的な活動”として捉え直すことを試みました」と話すのは、担当学芸員の花井久穂だ。

会場風景より、『月刊民藝』創刊号(1939年4月)に描かれた図。出版、美術館、ショップからなる3本の樹を示す

その3つの方法とは、まず、民藝の活動自体がきわめて「モダンな」文脈のなかで生まれたものという視点から、近代の時間軸に「民藝」を位置付けること。次に、民藝をローカルなネットワークとともに展開した社会的な運動として捉えること。そして最後に、出版(日本民芸協会の活動)、美術館(日本民藝館)、ショップ(たくみ工藝店)という3つのメディアを駆使した民藝の編集手法に注目することだという。

会場風景より。写真右は、スリップウェア皿を持つ柳宗悦。アメリカ・ケンブリッジにて(1930)
会場風景より。写真右は柳宗悦《无有好醜》(1950年代)。「仏の国においては美と醜の二がない」という、二元論を超える柳の境地を示す

民藝前夜と旅

展覧会は時系列順に6章からなる。

まず、1910~20年代初頭の1章は「『民藝』前夜―あつめる、つなぐ」として、柳宗悦が結婚後に居を構えた自然豊かな我孫子(千葉県)での交流に主眼を置く。同地は、文学同人誌『白樺』同人の志賀直哉、武者小路実篤が移り住み、生涯の友人となるバーナード・リーチも窯を築くなど、柳自身が「コロニー」と呼ぶ親密な芸術家村になった。本章では、世界とのつながりを求めた『白樺』同人がオーギュスト・ロダンから贈られた彫刻、柳が陶磁器の美に開眼する契機となった朝鮮の壺《染付秋草文面取壺》(18世紀前半)など、民藝の始まりを見ることができる。

会場風景より、『白樺』第13巻第9号[別冊「李朝陶磁器の紹介」、表紙:岸田劉生](1992)
会場風景より、《陶俑 加彩牛》(7世紀)
会場風景より。一番左がオーギュスト・ロダン《ある小さき影》(1885)

2章「移動する身体―『民藝』の発見」では、大正〜昭和初期の交通網発達にともなう旅行ブームがもたらした「発見の旅」にフォーカス。国内外を精力的に移動し、各地の民藝を発掘・蒐集していった柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら創設メンバーの軌跡をたどる。

本章の見どころは、《鉄砂虎鷺文壺》(17世紀後半)、《染付鉄砂葡萄栗鼠文壺》(17世紀末期〜18世紀初期)、《染付辰砂蓮花文壺》(18世紀後半)という李朝の壺3点。朝鮮陶磁に深く感動し、朝鮮民族美術館を構想した柳がその設立に先駆け開催した「李朝陶磁器展覧会」(1922)でこの3点が披露されたが、3点が揃うのはその展覧会以来100年ぶりとなる。3点のうち2点を所蔵する大阪市立東洋陶磁美術館はそれらの貴重な名品を滅多に貸し出すことがないが、「3点が揃うなら」と今回の展示に至ったのだという。
柳の朝鮮の芸術への思慕は深く、植民地支配を行う日本の政策への批判も行っていた。柳は自身の活動を通して日本と朝鮮の関係の是正を試みていたことにも注目したい。

会場風景より、写真左から《鉄砂虎鷺文壺》(17世紀後半)、《染付鉄砂葡萄栗鼠文壺》(17世紀末期〜18世紀初期)、《染付辰砂蓮花文壺》(18世紀後半)

全国を歩き、蒐集し、文章を書き、ものを作る──民藝運動を推進した様々な職能と地縁を持つ人々のつながりはこの頃にすでに萌芽を見せる。かくして、各地への移動は「都市」に対する「郷土」という概念の成立とともに、「民俗」「民家」「民具」「民芸」など地方の伝統的な生活文化を再評価する動きを紹介する3章「『民』なる趣味―都市/郷土」へつながっていく。

会場風景より、左から柳宗悦『木喰上人作 木彫佛』(乙種)木喰五行研究會[装幀:柳宗悦](1925)、木喰五行《地蔵菩薩像》(1801)
会場風景より

民藝は「編集する」

本展の作品・資料の展示総数は充実の474件(展示替えあり)。その内約半数もの作品が揃うのが、4章と5章だ。この2つの章では、今回の展覧会でとくに強調される「美術館」「出版」「ショップ」の3本柱を掲げた民藝のモダンな「編集」のあり方と、各地の人々・もの・情報をつないで協働した民藝のローカルなネットワークを確認できる。

まず、4章の「民藝は『編集』する」では、民藝運動が雑誌や美術館を介して提示した「美の標準」の分析を通して、柳の眼を具体的に読み解く。3本柱が図化された「民藝の樹」とは言わば、現代における「メディア戦略図解」のようなもの。本章ではその図が示す多様な活動を検証する。

会場風景より、『工藝』(第1号〜第120号)

1931年、民藝運動の機関誌として創刊された雑誌『工藝』では、豊富な写真図版と原稿によって民藝の美や思想を紹介。表紙は織物や漆絵、用紙には各地の手漉和紙が用いられ、装幀や小間絵は芹沢銈介や河井寬次郎など民藝の同人が担当。紙や布の特集では、実物が貼り込まれている号もある。

ここで着目したいのは、柳の「見せかた」へのこだわり。柳は美の本質に迫るためには、思想や嗜好や慣習を介在させず「直下(じか)」にものを見ることが大切であると説いたが、そのいっぽうで、雑誌の挿絵の機能や、作品図版のトリミングの効果、さらには展覧会における陳列の方法など、対象物がもっとも魅力的に見える方法を探った。

会場風景より、中村精編『民芸手帖』(東京民藝協会)第1号(1958年6月)〜第295号(1982年12月)

たとえば、武家の革羽織の《白地網文様鞠散し革羽織》(18世紀)も、紙媒体の『民藝図鑑』掲載にあたっては、表面にあしらわれた金と赤のアップリケは無視し、あえて網目文のみクローズアップし、部分写真として「良さ」がわかるかたちで掲載。本展ではどちらも実物が展示されているため、それらを対比して見るのも楽しい。これらはいわば編集者としての柳の手腕が光るパートだが、もの作りに参画する優れたデザイナーとしての柳の一面を見ることのできる朝鮮絵画と柳の表装指示書も今回初公開となる。

会場風景より、初公開となる朝鮮絵画と柳の表装指示書
会場風景より、写真奥が《白地網文様鞠散し革羽織》(18世紀)

担当学芸員の花井が「会場でぜひ見てほしい」と語る作品のひとつが、5章「ローカル/ナショナル/インターナショナル」で披露される、巨大な《日本民藝地図(現在之日本民藝)》(1941)。六曲一双と四曲一隻からなる全長13mを超える日本地図に、民藝運動が各地で見出した工芸品の産地が記録された本作は、各地の民藝を「ひとつの日本」に束ねる民藝運動の実践として、戦時下の国内外で日本文化を表象する役割を担うようになった。

戦時の社会的・文化的な背景を踏まえてこの時期の民藝運動が遺したものを再考する本章では、アイヌ、朝鮮、中国・華北、台湾、そして戦争に民藝がどう対峙してきたかも浮き彫りになる。

会場風景より、左から《背中当(ばんどり)》(1929)、《蓑(伊達げら)》(1930年代)
会場風景より、《羽広鉄瓶》(1934年頃)
会場風景より、《日本民藝地図(現在之日本民藝)》(1941)

最終章となる6章「戦後をデザインする―衣食住から景観保存まで」では、1950〜70年代、日本が敗戦から国際社会に復帰する過程で再び国際文化交流の最前線に立った民藝や、柳の長男・宗理による民藝からインダストリアル・デザインへの展開、戦後の経済成長に伴う民藝ブーム、民藝運動の拡張の痕跡をたどる。驚くべきは、民藝の動きは自然保護や景観保護にまで及んでいたこと。民藝運動家のひとり、吉田璋也は、地域開発の名目で植林の危機にあった鳥取砂丘を保護すべく「鳥取文化財協会」を設立し、鳥取砂丘を天然記念物の指定へと導いた。このキャンペーンに参加したのはバーナード・リーチ、山下清だったという。

会場風景より
会場風景より

こうして数多の実践が示される本展は、「民藝の樹」が出版・美術館・ショップの3要素からなるとするならば、その樹の根は深く広く、私たちの足元へも根付いていたと気付かされるものだった。

柳からの批判

最後に。東京・地方、官・民、近代・前近代、美術・工芸と、名前だけでも相反する要素ばかりの、民藝からは程遠い位置付けにある東京国立近代美術館で民藝展が開かれたのたのか疑問に思う方もいるかもしれない。それには、柳と同館の「ミュージアム」をめぐる因縁がある。じつは柳は、1958年4月発行の雑誌『民藝』のなかで「近代美術館と民藝館」と題し、美術館と民藝館を比較したうえで真正面から美術館批判を行っている。

担当学芸員の花井は、「来年で国立近代美術館は開館70周年を迎えます。柳が批判した頃からは当館も変化をしており、柳の批判を再考しつつ、当館の歴史の座標軸のなかで民藝運動を捉えたいと思いました」と説明。本展は、柳の批判への63年後の回答でもあるのだ。そのボールを受け取る柳はもういないが、鑑賞者である私たちの解釈が新たな回答となる。

会場風景より「東京にて」。前列左から河井やす子(つね)、バーナード・リーチ、柳兼子、後列左から柳宗悦、一人おいて、富本憲吉、河井寛次郎
会場風景より
会場風景より
会場風景より

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