大規模建物群跡を発見 「東国での重要性 裏付け」 下野薬師寺跡で市教委

発見された建物群跡の航空写真(下野市役所提供)

 国指定史跡下野薬師寺跡(栃木県下野市薬師寺)の東側に大規模な建物群跡があることが27日までに、下野市教育委員会の発掘調査で確認された。寺の運営の中枢機関である「政所院(まんどころいん)」か寺の造営を担う「造寺司(ぞうじし)」だった可能性があるという。同寺保存整備委員会会長の木下正史(きのしたまさし)東京学芸大名誉教授(80)は「飛鳥の超一級の寺院と同格か、それ以上の規模だったことが分かる。東国における下野薬師寺の重要性を裏付ける発見」と話した。

 平安時代の歴史書「続日本後紀」は、同寺の姿を「あたかも七大寺の如し」と伝えている。

 9月に始まった調査は、広大な同寺敷地の東端となる塀跡確認を目的に行われた。史跡の東に隣接する馬場下遺跡の発掘を進めたところ、2018年の調査で東門とみられていた建物跡の東側と南側に新たに同規模の2棟の建物跡が見つかった。

 建物群は「コ」の字型に配置されていた。東門とみられていた建物は東西18メートル、南北32メートル。この東側で見つかった建物は東西16メートル以上、南北32メートル。南側の建物は東西7メートル以上(復元すると34メートル)、南北10メートル。いずれも土を固めた上に建築する基壇建物で、瓦ぶきだった。

 古代では重要な建物が瓦ぶきで建築されており、規則的に配置された建物群は寺の運営に関わる重要施設と推定できる。そのため、建物群は国立寺院だった下野薬師寺の運営を担当する政所院や造寺司だったと考えられるという。

 市文化財課の下谷淳(しもやあつし)課長補佐(50)は「寺院地の西側は金堂などの宗教施設のエリア。東側は寺の運営に関わる施設のエリアとして利用していたと考えられる」と解説する。

 建物群の発見により、東西約250メートルとみられていた史跡の広さが東西300メートル程度に広がることも明らかになった。市教委はさらに発掘調査を進める。

 市教委は今回の発掘調査の現地説明会を11月3日午前10時と同11時の2回開く。駐車場は下野薬師寺歴史館(下野市薬師寺1636、電話0285.47.3121)。

 【ズーム】下野薬師寺 7世紀末に地方豪族下毛野氏の氏寺として創建され、奈良時代前半には東国唯一の国立寺院として造営が行われたと考えられている。奈良時代中ごろには東大寺、筑紫観世音寺とともに僧の資格を得るための場である戒壇が設置され、東国仏教の中心寺院として栄えた。

発見された建物群の配置図(右の3棟)

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