地域の宝の再建から考えた「持続可能性」  リニューアルに揺れる長門湯本温泉街【下】

マルシェなどのイベントが開かれた週末に賑わう長門湯本温泉街(左奥がリニューアルした恩湯)=2021年7月撮影

 全国の温泉街は、レジャー多様化や観光スタイルの変化、過疎化や少子高齢化のあおりも受け、利用者減や旅館の廃業に頭を悩ませる。新型コロナウイルスの感染拡大で受ける打撃も大きい。そんな中、山口県の長門湯本(ながとゆもと)温泉は、星野リゾートを迎え入れることで景観や資源重視をコンセプトに様変わりしようとしている。一方、地元住民や従来の客層から「利用しづらくなった」と失望の声も聞こえる(「リニューアルに揺れる老舗温泉街【上】」。生き残りをかけ変化を遂げる温泉街が目指す「持続可能性」とは何か。模索が続く。(共同通信=佐藤萌)

開業した星野リゾートの「界 長門」

 ▽「次の世代に何を残すか」試行錯誤

 温泉街再開発の仕掛け人とも言える人物がいる。経済産業省官僚として長門市に出向中に計画に携わったのが木村隼斗さん(37)だ。市の経済観光部理事として、星野リゾートが打ち出した街づくりのマスタープラン実現に向け、官民の役割分担や民間事業者の募集に奔走してきた。

 木村さんは「『計画ありきだ』と批判を受けることもあったが、地元の人を交えた『社会実験』を繰り返し、設計図は皆で書き換えてきた」と振り返る。温泉街のそぞろ歩きを実現するため、リニューアルの核心となった公衆浴場「恩湯(おんとう)」の川向かいの道路は当初は一方通行にする予定だった。しかし沿線住民らの反対で断念。そこから対話を重ね、最終的にベンチなどを置いて車の速度を落とさせる方法で折り合った。

再開発前の2016年2月当時の山口県長門市の長門湯本温泉街(左奥が旧恩湯)

 「駐車場の有料化や車の流入制限で不満が出るのも分かる。ただ目先の利便性や安さだけでなく、街の持続可能性を探り、次の世代に何を残せるかとの視点で試行錯誤してきたつもり」と説明する。木村さんは任期を終え2018年に本省に戻ったが、恩湯の経営に名乗りをあげた老舗旅館「大谷山荘」の若き経営者、大谷和弘さん(42)ら同世代が地域再建に奮闘する姿が忘れられず、官僚を辞め20年には長門市に戻った。今はこの街の広報活動に携わる会社でエリアマネジャーを務め、イベントなどを企画する。「もともと、がんばっている人を支える仕事をしたくて公務員になった。自然な流れです」と笑う木村さん。今後も長門湯本で同志らと新たな挑戦を重ねるつもりだ。

 ▽再開発の波に乗らなければ…

音信川沿いでくつろぐカップル=2021年10月

 温泉街を流れる音信川(おとずれがわ)沿いの道路に面した食料品店「荒川食品」。店主の荒川武美さん(65)は7年前に福岡からUターンし、父親の店を継いだ。「私はよそから帰ってきたからこそ、この地域の魅力を改めて感じている」と語る。「湯本まちづくり協議会」会長として、地元と市などの橋渡し役をしてきた。再開発の波にうまく乗り、自身の店も一部を改修して道行く観光客がコーヒーや軽食をテークアウトできるようにした。

 一番のお気に入りは道路に新たに設置したベンチでビールを飲むこと。「せせらぎを聞きながら外で一杯なんて最高のぜいたくでしょう?車を減らしたのはいいコンセプトだった」と笑顔だ。自治会や近隣住民で協力し、月に一度の川辺の清掃も続けている。

 だが変化について行けず葛藤する人も。恩湯の対岸近くに位置する「湯本ハイランドホテルふじ」代表の藤井和夫さん(59)は「暗に、足の悪い人や年配者はいらないと言っているようなもの。観光地として新しい工夫が必要なのは分かるが、一方的すぎる」と不信感が拭えない。「街づくりのコンセプトがうちと合わない」と語る。

 藤井さんが経営するホテルは客室33室、素泊まり8千円代で中堅の規模だ。従来、老人会などの団体客を中心に集客してきた。ベンチや植木を置いたことで道路が狭くなり、ホテル前に大型バスを止めづらくなったことが不満だ。ただ旅行のトレンドが団体客から個別客に移る中で「大型バスの旅行が数えるほどしかなくなり、今後やっていけるかというと…」と不安も隠せない。実際に街を訪れる客層が若返り、多くが散策を楽しむ様子を見てきた。「すごいと思う。若い人のやることには未来もある」とたたえざるをえない部分もあり、思いは複雑だ。

 ▽倒産が「エピソード0」

在りし日の「白木屋グランドホテル」(撮影日時不明、白木浩一郎さん提供)

 一方、街の変化を特別な思いで見守ってきた人物がいる。温泉旅館「白木屋グランドホテル」は「毛利藩の殿様湯」と呼ばれて約150年続き、2014年に倒産した。建物は長門市が公費で解体し、跡地に星野リゾートが誘致された。いわば再開発のきっかけとなった存在だ。専務だった白木浩一郎さん(49)は「(温泉街再開発の)種をまいた身として何か言える立場でない」と再開発には関わってこなかった。ただ「街づくりの『エピソード0』として、廃業に至った経緯ならお話しできますよ」と取材を快く受けてくれた。

 白木屋は1865年に小さな温泉旅館として創業。1960~70年代にかけて移転や増改築を繰り返し、客室数118室と宴会場17部屋を抱える巨大な「グランドホテル」となった。白木さんは「当時は巨大な洋館というだけで目新しさがあったよね」と懐かしむ。企業の慰安旅行などを中心に団体客が次々と入り、連日の宴会で大いににぎわった。

 白木さんは2000年に商社を辞めて地元に戻り、親のホテル業を継いだ。しかしバブル景気も終わり、経営はすでに傾いていた。その年の経常損益は6千万円の赤字。「築30年の巨大旅館はまるで大きな恐竜のよう。拡大当時はブレーキをかける判断ができなかったし、気がついた時はもう身動きが取れず、新しい時代に適応できなかった。自分のかじ取り力が不足していた」と苦い思い出を振り返った。

「engawa YUMOTO」の前に立つ白木浩一郎さん

 「倒産した男」としてもうこの街に住めないと思ったが、地元の人は温かかった。「出て行かないでよ」と声を掛けられ、新たな職を見つけ家族と地域に残った。そして今春、川沿いの自宅1階を改修し、カフェを併設したレンタルスペースをオープンした。新しい町並みの一角を彩る存在だ。白木さんは「多くの従業員を抱え、金融機関から多額を借り入れるやり方に今は抵抗がある。身の丈に合った商売を無理なく続けたい。久しぶりの接客業も楽しい」と穏やかな表情で語る。

 ▽栄枯盛衰見つめてきた住職

 変わりゆく温泉街を見渡す山の麓に、曹洞宗の大寧寺(たいねいじ)がある。恩湯の泉源を所有する。住職岩田啓靖さん(83)に歴史を尋ねてみた。恩湯には、1427年に住吉大明神が地域の土地を持つ大寧寺に温泉を授けたとの縁起がある。以来、恩湯は寺の管理下にあった。明治政府による地租改正で、全国で多くの泉源が官有化されたが、恩湯の所有権は奇跡的に寺に残った。ただ寺は広大な土地を失って財源は入湯税だけとなり、入浴施設の管理運営も自治体に委託してきた。

 住職は「市営で赤字が続き、『お荷物』だった恩湯をどうにか打開する必要があったが、方策は分からなかった。恩湯がなくなったら寺もなくなり、ひいては地域の歴史も途絶える。焦りもあった」と打ち明ける。

「鯉は自分1人で生きているつもりかしらんが、池も川も温泉も全部つながっているからね。環境はみんなで守らないかん」と話す岩田啓靖住職=2021年10月

 今回の恩湯のリニューアルや再開発の方向性は歓迎しているという。「温泉は川や森と同じように自然の一部。泉源は地中深くでつながり、地域全体の宝といえる。利益を求めて多くの旅館が建ち、規模を拡大し、廃れゆく様も見たが、限りある大切な資源を、街全体が連帯して息長く活用して、歴史をつないで行けたらいい」と話した。

 【取材後記】

 取材が深まるほどリニューアルへの見方は変わっていった。常連客から「情緒がなくなり、狭くなった」と不満の声が上がっていた恩湯は、持続可能性を念頭に自然の湯量に合わせてあえて浴槽を縮小していた。駐車場を高台に移したことで苦情もあったが、川沿いの散策を楽しむ人が増え、温泉街の元からの風情を取り戻したとも言える。

 バブル期には右肩上がりの景気に押され、旅館や浴場の規模も拡大していった。一方で自然の恵みを頂いている感覚は薄れていたのではないか。今はまさに原点に立ち返って危機を乗り越え、温泉街の価値を未来へつなぐための過渡期だと感じている。

 ただ、一部住民の「長く続けてきた生活様式を否定されたようだ」との訴えも切実だ。街に求めるものは立場によってさまざま。大きな変化には、常に対話が求められると言えるだろう。

 「温かい湯があればつい入りたくなる」という人間の性。湯を巡って人が集まり、商いが始まる。当然、時代の変化にももまれる。長門湯本温泉は10年、20年先どんな姿を見せてくれるだろう。どこまでも〝道半ば〟であってほしいと思った。

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