<南風>琉米親善の時代

 「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦。地上戦に巻き込まれた県民の犠牲者数は、12万人余と記録にある。米軍に保護された住民は本島北部の収容所に送られた。

 鉄条網に囲まれた収容所で戦後の生活がスタートした。不自由な中で、「カンカラー三線」を作り歌う人たちがいた。やがて趣向を凝らした演芸会が開かれる。石川収容所では児童生徒の合唱、女学生たちによる宮良長包や西洋歌曲の演目もあったという。

 1950年代に入ると、米軍の土地接収が始まり、反対のうねりが島ぐるみ闘争となる。一方、琉米親善の名の下に将校クラブから学校に楽器が寄贈されたり、琉米親善センターという施設が建てられたりした。音楽ホールのなかった時代、センターはフルに活用された。

 5年後に来沖したアメリカの有名なオーケストラは、那覇空港の格納庫で公演した。私は聴いていないが、すごい演奏だったらしい。翌年、数和子氏を中心に沖縄交響楽団が誕生した。小中高大学生による全琉音楽祭もこの年にスタートしている。楽器を習う子どもたちが増えたということだろうか。

 本土の演奏家もよく来沖した。私が記憶しているだけでも、明大マンドリンクラブや早大グリークラブ、東京混声合唱団、マリンバの平岡養一、オペラ・カルメンのハイライト演奏会がある。しかし何と言っても忘れられないのは、小澤征爾とN響の公演である。

 62年10月、それは基地内のズケラン体育館で行われた。演奏会の間、飛行機の爆音は感じなかった。チャイコフスキーの交響曲No.4が、本当に素晴らしかった。

 高校生になっていた私は先輩たちと復帰デモに参加し、「沖縄を返せ」と歌った。それでズケラン体育館には「だって、ここしかないから」と、自分に言い聞かせながら行った。

(新垣安子、音楽鑑賞団体カノン友の会主宰)

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