ロッテの鳥谷敬内野手(40)が今季限りでの現役引退を決断した。阪神時代に歴代2位となる1939試合連続出場を果たしたレジェンドは、球団を通じて「阪神で16年、ロッテで2年。いろいろな人と出会い、支えていただき、ここまで現役をすることができた。今は感謝の気持ちでいっぱい」とコメント。そんな鳥谷のプロ野球生活での〝礎〟となったものとは――。元阪神担当記者の本紙コラムニスト・楊枝秀基氏が明かした。
腹の底から湧き上がってくる感情。悔しさ。必ず見返してやるという気持ち。そういった思いが若かりし日の鳥谷を突き動かしていた。
ルーキーイヤーの2004年のことだ。先発マウンドにはベテラン・下柳。微妙なタイミングの内野安打や、併殺崩れがあると、遠慮なく態度に出す先輩だった。新人遊撃手にとって相当なプレッシャーだったに違いない。
「アアーッ」。先輩左腕はマウンド上で大声を出すこともあれば、グラウンドを蹴り上げることもあった。
それでも、鳥谷が萎縮することはなかった。人一倍練習するという道を黙って選んだ。シーズン中だろうが、真夏だろうが関係ない。毎日が猛特訓。黙々と守備練習を繰り返した。
当時の関係者は「相当、悔しい思いをしていましたよ。誰のせいにするでもなく、自分の能力が足りないからだと、見返したい一心で練習に励んでいましたね」と振り返る。
フル出場した2年目、05年には正遊撃手としてリーグ優勝に貢献した。もちろん、このシーズンもキャンプから猛練習。誰よりも万全な準備で、文句のつけようのない遊撃守備を心掛け続けた。
その年のシーズン最終戦となった10月5日の横浜戦(甲子園)では、鳥谷が意地を見せた。その試合の先発は最多勝のかかった下柳。同点のまま10回まで続投した裏の攻撃だった。
鳥谷が左中間へサヨナラの9号ソロ。大きな白星を、プロ野球史上最年長最多勝を贈られた下柳は、ベンチ前で鳥谷を再敬礼で迎えた。
鳥谷はその後、11年に初のゴールデン・グラブ賞を獲得。そこから遊撃で4度、三塁で1度の計5度も同賞に輝いた。
10年連続全試合出場を果たした14年オフには海外FA権を行使し、メジャー挑戦も試みた。結果的に阪神残留とはなったが、海外移籍に際し鳥谷はこう話していた。
「打撃はやってみないと分からないけど、守備は通用する自信がありますよ」
それほど積み重ねた努力を自負していた。その姿勢を手本とする後輩たちが多いのも当然だろう。
阪神で16年、ロッテで2年。18年間のプロ野球生活でファンに数々の感動を与えてきた鳥谷。その礎となったものは何か。それは、あの若き日の屈辱、重圧をはね返した反骨心にあると密かに確信している。(楊枝秀喜)