17年間の時を隔てた圧倒的スクープ「北朝鮮による日本人拉致事件」報道 (産経新聞 1980年、1997年)[ 調査報道アーカイブス No.31 ]

不可思議な事件は1970年代から80年代にかけて、主に日本海側の海辺で発生していた。デート中のアベックや母娘、女子中学生などが突然行方不明になり、まったく音沙汰がなくなる。「神隠し」「家出か駆け落ちか心中か」「難解な事件」―。地元警察の捜査も停滞し、事件か違うのかも分からない。しかも、発生地はばらばら。地元紙の報道もすぐ沙汰止みとなり、多くの人の記憶もほどなく薄らいだ。ところがー。

驚愕の展開が、産経新聞の調査報道スクープによって生まれた。

◆渾身のスクープ「アベック3組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与か?」

1980年1月7日朝刊。当時の題字は「サンケイ新聞」である。その1面に大きな横見出しで、「アベック3組ナゾの蒸発 (昭和)53年夏 福井、新潟、鹿児島の海岸で」という記事を掲載したのだ。縦の見出しには「富山の誘かい未遂からわかる 警察庁が本格捜査」「外国情報機関が関与? 同一グループ、外国製の遺留品」「戸籍入手の目的か」とあった。

東アジアの安全保障と国際社会を大きく揺るがす、北朝鮮による日本人拉致事件。その事案が初めて報道されたのだ。記事のどこにも「北朝鮮」の文字はないが、「外国情報機関」が北朝鮮を指していることは、読者の誰もが察しただろう。

同じ日の社会面では、拉致の際の手口も詳しく報道した。圧倒的な、大展開である。「こうして襲われた 4人組 終始無言の犯行 後ろ手に手錠 頭に布袋」「任務分担 事務的で素早く」「犬の鳴き声で姿消す」といった見出し。さらに「何語る特性ずくめの遺留品」「製造元どれも不明 国内での入手は不可能」という見出しも並んだ。

拉致を伝える1980年1月7 日のサンケイ新聞朝刊(産経新聞のHPから)

スクープは翌8日の朝刊でも続いた。蒸発した肉親らの取材が中心だ。「『家出考えられぬ』新居決め挙式目前に 福井事件」「3度目のデート 笑顔の写真残し 鹿児島事件」「将来設計話したばかり 翌日に旅行計画 新潟事件」。さらに9日朝刊でも、産経新聞は宇出津事件を掲載した。

取材を手掛けたのは、産経新聞社会部の警視庁担当だった阿部雅美記者である。阿部氏は前年の秋、夜回り取材で公安関係者から「日本海で変なことが起きている」と耳にした。それ以上の端緒は何もない。しかし、その言葉が気になり、阿部氏は取材に動く。自身はその様子を「特ダネの記憶 北朝鮮日本人拉致事件」(月刊Journalism 2020年12月号)でこう記している。

「変なことって何ですか」とは問い返さなかった。まともな答えが期待できる相手ではなかったからだ。公安の夜回りは、いつも禅問答のようだった。
雲をつかむような話だ。地方紙でも見てみよう。思い立って日比谷の図書館に通い、日本海沿岸の県紙のとじ込みをめくった。記事検索システムなど思いもよらない時代だった。東奥日報、秋田魁、山形新聞、新潟日報―。「変なこと」は見つからなかったが、気になった記事が一つだけあった。富山の北日本新聞78年8月16日付社会面だ。海岸で散歩中の若い男女が、4人組の男たちに襲われたが無事だった、という逮捕監禁・暴行傷害事件を報じていた。公安臭はしなかったが、犯人たちが男女を別々に押し込んだ袋を松林に置いたまま逃げた、とあるのが引っかかった。

男女をどうしようとしたのか、なぜ逃げたのか、さっぱり分からない。興味をひかれた。この行(くだり)がなければ、いかに暇でも富山まで足を運ぶことはなかっただろう。北朝鮮も拉致も念頭になかった。富山湾の幸でも食べて引き返すつもりの気楽な出張だった。「わざわざ東京から来るような事件じゃないですよ」。訪ねた県警本部長に言われたが、紹介された捜査員の話を聞くうち、すぐには帰れない、と思い始めた。

そこから粘り強い取材は始まる。富山県警の捜査員は、1年ほど前の事件について「これだけ遺留品があるのに犯人にたどりつかない」とこぼす。おもちゃの手錠や布袋などの遺留品は日本で製造・販売されたものではなく、「どれも工業のひどく遅れた国でつくられた粗悪品だ」という。阿部氏は被害者にも話を聞いた。犯人グループに襲われて袋詰めにされた際、「静かにしなさい」と乱暴な手口に似合わない言葉で命じられ、犯人らが話した言葉はその一言だったという。

阿部氏はその後、福井、鹿児島の両県でも海岸近くでアベックが行方不明になっていたことを知り、現地取材を重ねた。3件の共通点は、若い男女のデート中の出来事であり、家出や心中、事故の可能性が低いこと。現場はすべて海岸近くで、付近に北朝鮮不審船の目撃情報があり、過去に北朝鮮工作船が密入国した地点に近いことだった。

そうした取材の結果が、上掲のスクープとして実ったのだ。

◆他メディアに無視されても諦めず

もっとも、一連のスクープは、他メディアから黙殺された。後を追う報道はまったく出ない。「北朝鮮がそんなことをするわけがない」「あり得ない」といった受け止めだったのだろう。当時はまだ、韓国が軍事政権だったこともあり、メディアや政治家、研究者らも含め少なくない日本人が「北朝鮮は平和勢力」と信じていた時代だ。産経のスクープによって、「北朝鮮」と「拉致」を結び付ける動きは大きくならなかった。

なぜ、新聞やテレビが後追いしなかったかについて、阿部氏は自著「メディアは死んでいた〜検証 北朝鮮拉致報道」でこう書いている。

荒唐無稽と断じたライバル紙の記者もいたが、総じて半信半疑で、「確証がないじゃないか」という受け止め方だったように思う。確かに、確実な証拠などありはしない。そんなものがあれば、苦労はしない。
しかし、たとえ確証がなくても、事実に基づく推察は時に新聞記事に足りうる、というのが私の信念であり、先輩記者や紙面掲載に踏み切った編集幹部も同様だったに違いない。確証はなくても、大きな記事にするほどに疑いが濃厚であることを報じたのだ。

(中略)

確証がなければ書けない、書かないのであれば、一切の疑惑報道などできない。「疑いが強い」「可能性が高い」といった表現の報道は今日、いくらでもあるし、あって当然だ。

一時は「虚報ではないか」とまで言われた産経新聞のスクープも、時を経て新たな展開へとつながった。

1988年1月の通常国会でのことだ。民社党(当時)の委員長が大韓航空機爆破事件の容疑者に関して質問した際、産経新聞が報じていたアベック3組の行方不明事件に言及。これらは北朝鮮の犯行ではないかと質問したのだ。
さらに同年3月には、国家公安委員長が国会答弁で、「アベック3組は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と発言。同年中には、欧州で行方不明になっていた男女3人の若者が北朝鮮にいることも明らかになる。91年には警察庁が、大韓航空機爆破事件の容疑者の日本語教師役だった「李恩恵」は東京都内で行方不明になっていた田口八重子と断定した。

北朝鮮に拉致されながら、日本に帰国した人たち(日本政府の公式動画から)

◆横田めぐみさんの拉致もスクープ

産経新聞は1997年2月3日、朝刊1面トップで決定打を放った。1977年に新潟で行方不明になった女子中学生・横田めぐみさんは北朝鮮に拉致された疑いが強まったと報道したのである。学生服姿のめぐみさんの写真を添えた記事は「北朝鮮亡命工作員証言 『20年前、13歳少女拉致』」「新潟の失踪事件と酷似 韓国から情報」というスクープだった。

めぐみさんのスクープは、拉致問題に取り組んでいた日本共産党の国会議員秘書・兵本達吉氏から寄せられた。共産党と産経新聞は、いわば犬猿の仲。しかし、拉致問題に関しては産経も共産党もないとして、2人は個人の立場で協力し合っていく。そうした経緯は前掲書「メディアは死んでいた」に詳しい。人々の熱意と行動が、事態を動かしていく様子が手に取るように見えてくる。

娘めぐみさんの奪還を訴える横田滋さん夫妻(日本政府の公式動画から)

産経新聞は、過去に「虚報」とされた1980年1月のスクープと、17年後の横田めぐみさんのスクープの2件を合わせて1997年度の新聞協会賞を受賞した。これだけの時を隔てた記事がセットで選ばれたのは、異例中の異例だった。

■参考URL

単行本「メディアは死んでいた 検証 北朝鮮拉致報道」(産経新聞出版)
北朝鮮による日本人拉致問題(日本政府)

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