本田美奈子が “朝霞のマドンナ” になった武道館公演「ザ・ヴァージン・コンサート」  合掌 11月6日は本田美奈子.の命日です(2005年没・享年38)

歌が好きだから歌を歌っている―― ただシンプルに歌を愛した本田美奈子

まだ本田美奈子が存命の頃だから、もう20年近く前のことになる―― 当時私は朝霞で塾講師をしていたのだが、生徒との雑談のなかで、ふと彼女の名前が出たことがあった。

「本田美奈子なら、○○で見かけたよ」
「そうなの?」
「なんか畑仕事してた。先生ファンなの?」
「わりと」
「へー」

何も珍しいことではない “地元の有名なおばさん” といった感じでその生徒は受け流した。

本田美奈子が朝霞出身であることは知っていた。しかし、今でも地元に住んでいることは知らなかった。

一定の成功をおさめた芸能人といえば港区、目黒区、世田谷区、渋谷区あたりに住んで、私生活すらギラギラに虚飾をまとわせるのが定番のところ、地元にいまだ根を張って、肩肘張らず普段着のまま暮らしている。そして家庭菜園か何かなのか畑仕事までしている。

本田美奈子らしいなと思って、心が少し暖かくなった記憶がある。

“歌手” でも、ましてや “芸能人” でもない、ただありのまま “歌が好きだから歌を歌っているひとりの女性”、本田美奈子は晩年期そのような境地に達したのだが、そこに至るまでは長い道のりを要した。そこには時代のいたずらという要素も大きかったと思う。

そのひとつの例証として、彼女のライブアルバム『MINAKO ザ・ヴァージン・コンサート』(LP・CT発売:1986年2月20日 / CD発売:1986年3月20日)とライブビデオ『MINAKO ヴァージン・ライブ』(1986年3月5日発売)について語りたい。

初コンサートが武道館!アイドルプロモーションもバブルの狂乱へ突入

これらは彼女が初めて開催したソロコンサート(1985年12月7日:日本武道館)の模様を収録したもので、ライブの構成は秋元康、ライブビデオのディレクションはフジテレビの港浩一が担当している(いわゆる『とんねるずのみなさんのおかげです』コンビだ)。

80年代のアーティストのゴールであるはずの日本武道館が初のコンサートとなった本田美奈子であるが、無論これは彼女がデビューから爆発的な人気を博したがゆえに到達したということでは、決してない。1983年の岩井百合子がデビューからわずか9ヶ月で武道館コンサートを開催して話題になったように、当時既に “武道館コンサート” 自体がひとつのプロモーションとして作用していたのである。

“人気があるから武道館ライブ” ではなく力技でを武道館ライブ敢行して “武道館アーティストなのだから人気があるのだろう” と興味のない聴衆にアピールする、この因果の逆転したプロモーションがまかり通るようになったことが明白なように、1985年、アイドルポップスは隆盛という範囲を超えてバブルの狂乱へと向かいはじめていた。

このバブルのきっかけは言うまでもない、松田聖子の結婚が前年より各マスコミに報道されていたからに他ならない。

この詳細は以前<a href="https://reminder.top/726010069." target="_blank">『松本隆が「ハートのイアリング」で予言した松田聖子の恋愛物語?』に書いたので割愛するが、1980年に山口百恵の席を争って一気にアイドル業界が活性化したのと同様のことが起きると予測した各レコード会社・プロダクションがこの年、大攻勢を仕掛けたのである。

デビューに際して巨額のプロモーション費用を用意し、そのことすら宣伝材料とする “30億円デビュー” の工藤夕貴と “40億円デビュー” のセイントフォー、東宝に所属しながらライバルの東映の企画(『スケバン刑事』)にも起用させる斉藤由貴、ドラマ『毎度おさわがせします』でセックスに興味津々な中学生女子・森のどかを演じた中山美穂など、この年にデビューするアイドルのプロモーションには、何らかのギミックを用意するパターンが非常に多かった。その最たるものが、ソロアイドルとして売り出すには少し足りないアイドル候補生を集めた、テレビ局主導による新たなコンセプトのアイドルグループ「おニャン子クラブ」に他ならない。

そのような状況下で本田美奈子はデビューしなければならなかった。

聴いて驚き、観て驚いた本田美奈子「ザ・ヴァージン・コンサート」

最初に体験したのは『MINAKO ザ・ヴァージン・コンサート』のライブ盤の方だったが、聴いて、まず驚いた。スタジオ録音盤と比較して、圧倒的に美奈子の声のノリが良い。武道館の音の渦のなか、1万人の聴衆を相手にしたほうが本田美奈子の歌は何倍にも輝いている。

初めてのコンサートなのに気後れしていないとか、そういうレベルではなく、比較にならないほどライブ盤のほうが素晴らしいのだ。途中ほんのすこし挟まれるMCは年齢以上に幼く聞こえるものの、歌うと声のニュアンスが豹変する。

細かい抑揚や情感のニュアンスも抜群に良くなっている。グラマラスでセンシュアルなボーカルは、18歳にして圧倒的なオーラが漂っている。天性の歌手だと、お世辞なしに思った。

続いてライブビデオも観て驚いた。

「え? こんな子供が歌っているの?」

―― 本田美奈子の姿が、あまりにも幼すぎるのだ。その昔、デビュー当時の美空ひばりの、ラジオから流れてくる歌声と実際の姿とのギャップに多くの聴衆が驚いたというが、それと同じ衝撃が私に走った。

18歳とは思えないスキニーな幼児体型、手や足さばきのニュアンスも子供のそれだ。色っぽい仕草もそれ風のことを子供がモノマネしているようにしか見えない。

ギリギリのスリットドレスも、見せる用の下着を穿いてるから気にしないとばかりのパンチラの大盤振る舞いも、ガーターベルトに網タイツも、猫脚のバスタブのなかで身をくねらせるのも、すべて茶番だ。「ちびっこモノマネ歌合戦」で本気になっている小学生の女の子のために悪い大人たちがイタズラ半分で用意した大舞台、そんな風にしか私の目には映らなかった。

同じライブを収録しながらも、ここまで音源のみと映像が含まれたときの印象が異なる作品というを、私は知らない。

本田美奈子がこの時使用したギミック、それは “セクシー” あるいは “本格派” という記号であることが、またそれが彼女の本質に似つかわしくないものであることが、このライブデビオを観て、痛いほどによくわかる。

武道館ライブは作られた自意識のお披露目の場?

本田美奈子はもともと演歌歌手になりたかったのだという。

「東武東上線以外の電車は苦手、池袋から先はどこにも行けない」 「夢は朝霞の夏祭りで歌うこと」

その他、残された当時の発言からしても、本田美奈子が素朴で飾らない性格の少女であることがわかる。

また「うっちょんぷりーん」「やっほー」などの彼女の口癖を覚えているファンも多いのではなかろうか。

カラオケ大好き、演歌大好き、洋楽なんてぜんぜん聴かない。そんなすっぴんで生きている彼女に、周りの大人たちがマドンナやシンディ・ローパーのビデオを見せまくって、その気にさせてしまった。

「わたしは朝霞のマドンナ」

武道館ライブは、その作られた自意識のお披露目の場といっていいだろう。

本田美奈子の所属した当時の東芝EMIは、洋楽やロック、ニューミュージックにおいては圧倒的な存在感があったもの、アイドルポップスにおいては、完全に他社の後塵を拝していた。ゆえに松田聖子の席が空くというこのタイミングで才能の埋蔵量の膨大な本田美奈子にすべてを賭けるというのも致し方のないことであった。

そのときにお得意である洋楽路線や、70年前後に東芝で成功した奥村チヨ、小川知子などのお色気路線を今風にリファインするという方向で攻めるというのは既定路線だったのかもしれない。

この路線は確かに当初はレコードセールスという形でひとつの果実を結んだ。

■ 『M'シンドローム』(ファーストアルバム 1985年11月21日発売 23.9万枚 / 最高2位)
■ 「1986年のマリリン」 (5thシングル 1986年2月5日発売 24.9万枚 / 最高3位)
■ 『MINAKO ザ・ヴァージン・コンサート』(ファーストライブアルバム 1986年2月5日発売 13.2万枚 / 最高3位)

本田美奈子プロジェクトはこの成果をエビデンスに邁進、ステージアクションはより過激によりセクシーに、楽曲はより本格派を目指して豪華海外アーティストとのコラボの実現へと突き進む。

しかしその実、本田美奈子プロジェクトが熱量を増せば増すほど、ファンは冷めていった。

残念ながら、この85年冬から86年春にかけてがレコードセールスにおいての本田美奈子の頂点である。

振り返って思う。あの時、アイドルとして、シンガーとしての本田美奈子の魅力をもっとシンプルに伝えることができなかったのだろうかと。しかし、そんな単純なことができなかったのが80年代後半というバブルの時代の空気であった。仕方ないことだったのだとあらためて思う。

アイドルシンガーに終止符、同時に開かれた次の運命の扉

バブルの終焉は、ある日突然訪れる。

11989年7月11日、中森明菜が自らのひじの内側に刃物を当てた瞬間、アイドルポップスのバブルは終焉する。80年代の頂点に座する3人のアイドルがこのスキャンダルに巻き込まれ失墜し、それと同時進行するかのごとく、各テレビ局の花形の歌番組が次々と放送終了した。

この時期多くのアイドルがアイドルとしての役割を強制終了させられたのと同様に、本田美奈子もまた1990年7月4日発売のシングル「SHANGRI-LA」をもって、アイドルシンガーとしての歴史に終止符を打つことになる。

しかし、それと同時に彼女の目の前には次の運命の扉が開かれた。1990年7月2日、日本版『ミス・サイゴン』公演発表。

この『ミス・サイゴン』を契機に本田美奈子はほんとうの意味でシンガーとなるのであるが、それはまた別の話である。

カタリベ: まこりん

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