ゴミの島・豊島 繁栄の“裏の顔”を伝えた報道の数々 RSK山陽放送(1990年〜) [ 調査報道アーカイブス No.37 ]

◆“ゴミが降る島”で、とにかく今だ、早く撮っておけ!

「豊島」と書いて「としま」と読むのは、池袋を抱える東京都豊島区のこと。「てしま」と読ませたら、瀬戸内海・小豆島の東方に浮かぶ島(香川県土庄町)を指す。「豊島美術館」などのある「アートの島」として知られるが、一時は東京からのゴミが集積する「ゴミの島」としても注目を集めていた。不法投棄された産業廃棄物の山、山、山…。最終的には100万トン近いゴミが都会から運び込まれていたのだ。

過去最大級の産廃不法投棄事件を全国に知らしめ、処理を促したのはRSK山陽放送(岡山県)の調査報道だった。

「豊島・島の学校 豊かな島と海を次の世代へ」によると、不法投棄が始まったのは1970年代後半からだったという。フェリーを転用した“ゴミ船”が島の玄関口・家浦港に到着するたび、産廃を満載したダンプカーが続々と下船し、島中を走り回る。処理現場では、廃油や紙製汚物、解体残骸などが放置され、野焼きも行われた。兵庫県警は1990年11月に業者を摘発し、不法投棄は止んだが、膨大な産廃は残されたままになってしまった。

残された産廃の撤去を求める島民に対し、及び腰の香川県は責任回避を続ける。結局、公害調停が成立したのは2000年、最後の産廃撤去は2019年だった。「バブル景気」の裏側で起きていた途方もない不法投棄は、その処理にも途方もない年月を要したのだ。

RSK山陽放送の曽根英二記者らが取材を始めたのは、兵庫県警による事件摘発の半年前からだった。この放送局はTBS系列。当時、TBSの「NEWS23」キャスターだった筑紫哲也氏(故人)に「ゴミの島がある」と話したところ、ぜひ全国ネットで放送しようという運びになったのだという。取材当初の様子を曽根氏は「Jornalism」(2021年3月号)でこう書いている。

 90年5月17日、初めてカメラクルーを出す。筑紫さんに愚痴ってから10日ほどでの出動、とにかく「いま」を撮っておかないと。私は別件で動けず、高松から同僚記者に行ってもらった。 豊島の南東部の海べりの山が切り崩され、横づけした船のクレーンが動き、産廃陸揚げの真っ最中の映像が海上から撮れた。「豊かな島」が壊されていた。

 6月6日、業者が取材に応じた。美しい豊島の南沖に1隻の船。接岸するとスルスルとオイルフェンスを伸ばした。ゴミの海上への拡散を防ぐためだ。巨大なバケットが産廃をつかみ上げ、アームを振って岸壁に投げ降ろした。ここは「ゴミが降る島」だ。

 2階に運転席があるようなダンプカーがボロ切れやテープを引きずって産廃の山を登り、谷底めがけて投棄する。

「どこから?」
「横浜」
「どれくらいかかりました?」

 乗組員が指2本を立てた。横浜鈴懸埠頭から2日かかっていた。船には巨大なホースとろうとがついていて、海砂利採取船だと分かる。「カラ船よりは」と、帰りをゴミ船にしていた。
 切り崩した土砂は建設中だった関西国際空港の埋め立て用に売られ、代わりに「建築廃材」という名の産廃が運ばれ、埋め戻す。小豆島の港湾業者ゆえに香川県の許可が取れたと本人は言う。「大手ディベロッパーが250億から300億円かけてホテルを建ててくれれば」と、「一石三鳥」と言わんばかりだった。

1990年のニュース映像=山陽放送制作(TBS NewsのYouTube公式チャンネルから)

曽根氏は、かつて筆者(高田)らが主催していた「調査報道セミナー」に来てくれたことがある。この催しは、優れた調査報道を手掛けた人たちを招き、公開の場で取材の方法や裏話、数々のエピソードなどを語ってもらおうという試みで、2012年春から2016年まで東京と京都で年2回ほど開催していた。曽根氏の登壇は、その初回である。


◆「映像は嘘をつかない。絵は口ほどにものを言う」

RSK山陽放送の記者だった曽根氏は、JNNの中東特派員だった4年間を除き、ずっと「地方」の現場にいた。調査報道セミナーで語ったのは、定年退職の2年後。その時点でも「現場に居続けたい」という思いが強く、会場にはこんなことを記したペーパーを会場で配布した。

フラストレーション気味だ。それは、現場に立っていないこと、一隅を照らせないこと、体に染み込んだテレビ表現の場にいないこと、「テレビマンじゃないね」ということになる。大震災の東北に何度か入ったが、「あれが一本松か」と後をなぞるだけの空疎感が拭えない。

テレビの現場に居続けた。いつも「私は?」というのがあったように思う。

中東の4年間以外、地方をベースにしてきた。過疎、高齢化、嫁不足、そこにいる記者として叫びたくなる。「俺たちは前座じゃないぞ」と。理不尽を見る。たとえば「全国最悪の産廃の不法投棄と住民の草の根の闘い」の香川県豊島。こんなことが起きている。「豊かの島」と書く豊島、括弧つきの「豊かな島国・ニッポン」の象徴に見えた。

調べていくと、最初、捨てられたごみの中で設計図を見つけた。「豊島区」の住所が記載されている。曽根氏はそこに「現場に神宿る」を見た。同じ文字でありながら、産廃を出す側と受ける側、中央と地方の歪んだ関係を見たのである。

『NEWS23』の最初の豊島特集にして全国に発信すると、大反響を呼んだ。孤立無援だと感じていた島民たちは、大いに勇気づけられたという。以後、原状回復を求める動きは大きなうねりとなり、特集番組は2020年までに15本を数えた。

曽根氏のペーパーはこう続く。

無謬性の厚かましさで住民の側を向こうとしない行政。「人を幸せにしないこの国のかたち」が見える。県の安全宣言が出れば、独自調査で磯の生き物の重金属汚染を報じた。豊島の現場で見つかった「髑髏マークに横文字」のドラム缶を追ってイタリアへもー。廃棄物処理法の骨抜きの真相。マウスを使ったダイオキシン実験なども報じた。

「こんなにも闘った島があるだろうか」と思わせる身を切る闘いを島民は展開していく。「欲しいから(住民は)金が…」と知事。不遜である。テレビ的であることに徹すればおのずと、密着、独自の疑問を探って行くことになる。映像は嘘をつかない。絵は口ほどに物を言いである。調査報道といえるのかもしれない。

曽根氏らのクルーによる豊島関連の取材は総計で600日を超えた。多い年は約60日。1年間の6分の1を豊島ものに費やすという徹底ぶりだ。「NEWS23」用とは別に9本のドキュメンタリー番組も作ったという。

曽根氏が調査報道セミナーで語ったのは、東京電力・福島第一原発の事故から1年の時期だった。席上、曽根氏は原発事故にも触れながら漫然と取材に当たることの無責任さを戒め、こう言っている。現在にも十分に通じる内容だ。

「報道が社会を変える」と思っている。即時性や生レポートが得意技のテレビであるが、仕掛けることなく、発表原稿を流しているだけなら、また、事件や事象の背景をえぐることのないテレビなら世の中の信頼を失うだろう。調査報道は基本のはず。「日本特有の『共謀の文化』が起した福島の原発事故」とアメリカの新聞は報じた。では、テレビは? 事故後の報道はどうなのか?

(フロントラインプレス・高田昌幸)

■参考URL
単行本「ゴミが降る島」(曽根英二著)
【現場から、】平成の記憶、不法投棄と闘い続ける小さな島(YouTube TBS Nwes公式チャンネル)

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