SHEENA & THE ROKKETS - 揺籃期のバンドと併走したロフトとの蜜月、今なおバンドをやり続ける原動力

当時の仲間が“鮎川誠&ミラクルメン”と勝手に命名

鮎川:僕が新宿ロフトで初めてライブをやったのはサンハウスで、1977年の12月1日にやったはずだと昨日ふと思い出してね。

──過去のスケジュールを遡ると、1977年12月3日に新宿ロフトで『ドライブサンハウスライブ』と題したライブをやった記録が残っていますね。

鮎川:ああ、1日じゃなくて3日?

──はい。それ以前にもサンハウスは1976年の2月28日、4月25日、8月13日の3回にわたって荻窪ロフトでライブをしていたようです。

鮎川:僕らは1974年くらいからレコーディングやら何やらで東京へ行くようになって、こっちのエージェントが手伝ってくれて三ノ輪モンドとかでライブをやったね。新大久保の商店街にあった縦長のライブハウスでもやった気がする。荻窪ロフトもその流れでやりよったけど、「ここがあの荻窪ロフトか!」みたいな感じではなかった。1976年の8月にサンハウスでライブをやったときは、ジャケット撮影をしたマックス高橋(高橋昌嗣)さんというカメラマンのご夫妻が聴きに来たんやけど、スピーカーの前にいた奥さんがあまりの爆音で鼓膜に深刻なダメージを受けられてね。実際のライブよりもそんなエピソードのほうが覚えてる。

──3rdアルバム『ドライヴ・サンハウス』の発売日であり、解散を決定したと言われる1978年3月25日に新宿ロフトでサンハウスとして最後のライブをやっているんですよね。

鮎川:うーん、そうやったっけ? (資料を見ながら)1977年12月3日が最後のライブやった気がするな。こんときにそれまでのオリジナル・メンバーが抜けて、ドラムが川嶋(一秀)、ベースが浅田(孟)という後のロケッツのメンバーに変わったんやけど、1978年の3月25日はロフトに行ってないと思う。何かの間違い、幻かもね(笑)。1978、9年頃の新宿ロフトにはロケッツとしてよく出てたし、フリクションやミラーズが出ると聞けば覗きにも行ってたね。

──東京ロッカーズの面々とも交流があったんですね。

鮎川:アケトっちゅうバンドが昔あって、そのメンバーを通じて東京の友達がすぐできて、ミラーズのヒゴ(ヒロシ)君にアンプの貸し借りとかで世話になったりね。東京へ来て淡島通り沿いの代沢十字路の先にアパートを借りたので、フリクションが下北沢ロフトに出ると聞けば会いに行ったり、S-KENの田中(唯士)さんとも交流があった。

──シーナ&ロケッツとしては、1978年8月12日に“アユカワマコト(元サンハウス)+ミラクルマン”名義で新宿ロフトに初出演していますね。

鮎川:うん、覚えてるよ。サンハウスが解散して、僕たちは1978年の4月に初めて上京したんだけど、サンハウスのときからマネージャーやった柏木省三っちゅう男がいろいろと手伝ってくれた。最初はローリング・ストーンズがデビュー・シングルにしたチャック・ベリーの「COME ON」をリメイクしてレコーディングするアイディアがあるっちゅうことで、「COME ON」なら寝言でも唄えるぜってことですぐ録音してね。と同時に、僕が書いた博多時代の未発表作品、カセットで唄うとった曲を柏木が出版社に売り込んでくれたり。その流れで伊藤佳伊子さんという歌手のために「アイ・ラブ・サウロ」って曲を書き下ろした。サウロロフスっちゅう恐竜の骨をロシアの科学アカデミーから持ち込んでサウロ・ブームを起こそうって企画を柏木が見つけてきて、見え見えのキャンペーンソングをゴダイゴと一緒にレコーディングして。その録音の合間に「オマエガホシイ」や「ボニーとクライドのバラード」といった自分らの曲を作ってた。その年の4月、6月と二度東京へ行っちゃ帰りを繰り返して、8月にレコーディングするスケジュールでまた上京して。そのときにライブもやろうってことになった。それで柏木が勝手に付けたバンド名が鮎川誠&ミラクルメン(笑)。

──由来はおそらく、エルヴィス・コステロの「MIRACLE MAN」ですよね。

鮎川:そう、『MY AIM IS TRUE』に入っとる曲。僕らは何がミラクルメンか、そんな名前付けてないぜって感じでね。それでロックとシーナの本名である悦子を掛け合わせて、ロック+エツコ=ロケッツにした。鮎川のばあちゃんが“シナ”っちゅう名前やったり、ラモーンズの「SHEENA IS A PUNK ROCKER」って曲もあったし、自分たちではシーナ&ロケッツと呼んでもらいたいっちゅう思いがぼんやりあったけれども、僕らのアイディアをまだ柏木には伝えてなくてね。その前に柏木が先走ってブッキングした感じやね(笑)。

──新宿ロフトでの初ライブは確か、川嶋さんや浅田さんと一緒ではなかったんですよね?

鮎川:後にRCサクセションに入る新井田耕造(ds)、阿部まさし(g)、矢野ガン太(b)っちゅうミスタースリムカンパニーの面々を紹介されて、彼らと一緒にやった。エルボンレコードから出した『#1』に入れた「400円のロック」や「ブルースの気分」、「夢見るボロ人形」もそのときにやったね。まだ「LEMON TEA」はやってなかったかな。1枚目に入れた「LEMON TEA」以外の曲はだいたいその日にやった。

運命を変えたコステロの前座経験、高橋幸宏との再会

──1979年に入ってからのロケッツは月一ペースで新宿ロフトに出演していますね。

鮎川:ライブをやりたくて上京しとるし、1日でも時間が惜しくてね。双子の娘たちは実家に預けてきとるし、有難いことにシーナの親父が「子どもたちはわしらが見とっちゃるけ、今のうち思いきりやってきない!」ちゅう感じで背中を押してくれたので、東京に来とるちゅうことは今思いきって音楽をやらんと悔いが残るっちゅう切羽詰まった感じでずっとおったね。そやけん、東京におるあいだに僕とシーナはライブがなくても新宿と下北のロフトや屋根裏まで友達のライブを観に行ったりしてた。

──新宿に比べて下北沢のロフトへ出演した回数は少ないですよね。

鮎川:1979年の最初のほうに出たね(2月2日、3月2日)。前の年の12月にレコーディングを完了して、そのちょっと前にコステロの初来日ツアーで僕らがオープニングアクトに抜擢されてね。ツアー初日の1978年11月23日、シーナの誕生日がシーナ&ロケッツを名乗った初めてのライブやったけど、その6カ所のツアーが当時の僕らにはでかかった。柏木とトムス・キャビンちゅうプロモーターの麻田浩さんが僕らを起用してくれて、それはもうカルチャーショックもいいとこでね。当時のコステロは怒れる若者の旗手、まさにパンクロックスターの象徴みたいな感じで、僕より6つくらい歳下やったけど凄い認めとった。サンハウスの終わり頃にはジョナサン・リッチマンやコステロ、ミンク・デヴィルといったニューヨークのCBGB常連バンドに凄い影響を受けてたしね。

──コステロの来日公演は、ロケッツがYMO人脈と邂逅する契機でもありましたね。

鮎川:(高橋)幸宏が一ツ橋の日本教育会館のライブを観に来て、3列目くらいにおるのをステージから見つけてね。久保田麻琴とサンディーが一緒にいて、ライブ中にこっちに聞こえるくらい大きい声で「あ、鮎川君だ!」って指差されてやりにくいなあと思った(笑)。でも終わってから幸宏が楽屋に訪ねてきて、凄く激励してくれてね。「細野(晴臣)さんもきっと君たちのことを気に入ってくれるはずだからぜひ紹介したい」って言われて、後日すぐに連絡が来た。YMOがその年の暮れに六本木のピット・インでいわゆる業界お披露目ライブをやるというので、ゲストで出てくれないかと呼ばれて。確か12月20日と22日、2回あったのかな。サディスティック・ミカ・バンドのミカさんと、ビートルズの『ホワイト・アルバム』でアシスタント・プロデューサーを務めたクリス・トーマスさんが狭いピット・インのフロアにいたりして。あの日、幸宏がコステロのライブを観に来てなかったら僕らがアルファレコードに移籍することもなかっただろうし、その意味でも幸宏はキューピッドやった。幸宏とはサンハウスのときにミカ・バンドと九州で2、3回共演して知りおうとったけれども、向こうはすでに大物やったからね。そんな幸宏が気さくにコステロの来日ツアーの楽屋へ顔を出してくれたことで、僕らの運命が大きく変わった。あの出会いがなかったら僕らは柏木と一緒に迷路にハマって終わっとったと思うよ(笑)。

──エイプリル・フール〜はっぴいえんど〜キャラメル・ママ/ティン・パン・アレーと渡り歩いてきた細野さんがアルファ在籍時代のロケッツの作品をプロデュースするという、畑違いの両者ががっぷり四つに組むのが面白かったですね。

鮎川:確かに畑は違ったけど、始まりはビーチ・ボーイズやったりストーンズやったりビートルズやったり、昭和20年代生まれのもんたちは1964年のブリティッシュ・インヴェイジョンにみんな頭をやられとるからね。幸宏やらも唄えばジョージ・ハリスンみたいな節回しやし。細野さんとはリハーサルの前に紀伊國屋ホールで会ったのかな。行ったときにはもうYMOのコンサートは終わっとったけど楽屋で初めてご挨拶して、「おお、細い!」とか言われて(笑)。少しは僕のことを知っててくれたのが嬉しかった。細野さんは日本のフォーク/ロックの重鎮で凄く尊敬しとる人やったし、「サンハウス、知ってます」と言われて、わあ嬉しかねえ…と思いよったら「ピット・インのゲストでどうでしょう?」ちゅう話になって。その話を引き受けて、赤坂のスタジオへリハーサルに行ったんよ。買い物袋にフェンダーのテレキャスターを突っ込んで(笑)。そこでYMOのメンバーとも打ち解けて、ライブでは途中に入って3曲くらいカバーを一緒にやるのはどうかって話になって。僕が提案したのはチャック・ベリーの「COME ON」とストーンズの「(I CAN'T GET NO)SATISFACTION」の2曲で、YMOからはビートルズの「DAY TRIPPER」ならやれるっちゅうことになった。「SATISFACTION」はコステロの前座のときにディーヴォのスタイルを意識して演奏してたのを幸宏が覚えててくれて、YMOのアレンジにはもってこいやけっちゅうことで。「COME ON」は細野さんのシンセベースが入った感じでね。「DAY TRIPPER」は後に『SOLID STATE SURVIVOR』に収録されるけど、実はその「DAY TRIPPER」こそ僕がギターを持って初めてステージに立って演奏した曲で。

──中洲のダンスホールでハコバンする以前に組んでいたバンドがあったんですね。

鮎川:うん。ビートルズが日本に来た1966年、武道館でライブをやったときはチャック・ベリーの「ROCK AND ROLL MUSIC」から始まって、「SHE'S A WOMAN」や「BABY'S IN BLACK」なんかが披露されて、いい所で「DAY TRIPPER」をやる。あれに頭をやられてしもうとったから、久留米の石橋文化センターちゅう所でやる夏祭りのために初めて誘われて組んだバンドで「DAY TRIPPER」をやれるっちボーカルの名前も知らん奴から言われて、ギターは上手く弾けんけど曲はもう完璧に知っとるからっちゅうんで半ば自分を売り込んだ感じで一緒に演奏して、そのまま自然にメンバーになったのが一番最初のバンド体験やった。それがザ・スランパーズっちゅうバンドで、『サマービート66』っちゅう夏祭りで。それも去年、久留米の若いロックバンドの仲間とそのバンドを54年振りに復活させたの。今年も二度目の復活ライブをやる予定やったけど、コロナの影響でできなくてね。でもまた復活しようと策略しとるけど。

新宿ロフトで共演したRCサクセション、プラスチックスらとの交流

──ぜひまた復活させていただきたいですね。ロフトの話に戻りますが、1979年2月25日にはプラスチックスと、同年7月5日にはショットガン、7月19日にはRCサクセションとそれぞれ対バンしています。いずれも覚えていらっしゃいますか。

鮎川:ショットガンはサンハウスのドラムだった浦田(賢一)のバンドやしね。RCはね、坂田(喜策)君ちゅうマネージャーがもともと久留米出身のイベンターで、サンハウス時代からよく知ってた。チェリーボーイズっちゅうバンドをマネジメントしてて、サンハウスが京都の円山公園音楽堂でダウン・タウン・ブギウギ・バンドとかと一緒のイベントに出たときにばったり会ったり。その後、僕らが上京した年の夏頃に渋谷のジァン・ジァンへRCを観に行ったときに坂田君と再会して、そこで「今はRCをやってます」とバンドを紹介してもらったんやけど、チャボ(仲井戸麗市)はまだいない過渡期だった。ちょうど(忌野)清志郎がフォークからロックに変わっていくような時期で。それと同じ頃にRCが下北ロフトでやってたから観に行って、そのときの清志郎が奇をてらう感じで、頭にゴムバンドを100個くらい巻いて奈良の大仏様みたいに摘んだヘアにしてて。それを見たシーナが「それはやめといたほうがいいよ」って言っとったね(笑)。そんときにはもうチャボも入って、バンドとしてスタートラインに立ってたけどね。ちょうどその日だったか別の日だったか、ブリンズリー・シュワルツっちゅうイギリスのザ・バンドみたいな名門バンドのメンバーが、グラハム・パーカー&ザ・ルーモアというバンドで来日してて、中野サンプラザへ僕らが観に行ってて。グラハム・パーカーはスターっぽくちょっと威張っとったけど(笑)、ルーモアのメンバーはパブロックの人やけ凄い気さくでフレンドリーで、彼らが東京のロックシーンのことを気にかけよったけ、それで確か僕が誘ったのかな。下北のロフトでRCが今日ライブをやってるち小耳に挟んどったからみんなで行こう行こうちなってね、確かグラハム・パーカーも来て。そいで来ただけじゃなく、ちょうどRCもステージが全部終わって、なんか1曲やりたいねっちゅう話になってみんなステージに上がって、RCの楽器を借りて一緒に演奏したんよ。そのときにやった「STICK TO ME」っちゅう当時一押しの曲の格好良さと言ったらもう、鳥肌もんやったね。適当にやるじゃなくてアレンジも完璧に為された状態で、それを他人の楽器でいきなりリハもなくバチッとキメるわけ。あれは凄いもんやった。僕が混ざって入る余地なんてなかったし、これがプロかと思ったね。店に合わせず、自分らのバンドサイズでバチン!とやる感じがあって。

──そんな歴史的セッションが下北沢ロフトで繰り広げられていたとは…。

鮎川:あと、ルーモアのメンバーに「僕らは『COME ON』をレコーディングのレパートリーにしとる」ちゅうたら凄い気に入ってくれて、その流れで福岡へ一緒に行ってね。サンハウスが拠点にしとった“ぱわあはうす”ちゅうロック喫茶でジャムセッションをしたりして、それがコステロの前座をやる1カ月前だったのかな。ちょうど僕らが『涙のハイウェイ』でデビューする頃やったと思う。1978年の10月25日。そやけその前後に僕たちは東京にもいるし、福岡にもいる感じでね。当時はエルボンレコードとフォノグラムのプロモーション・チームが動いてて、有線放送の拠点を挨拶して回った。1回でも余計にかかりますようにちゅうて、「『涙のハイウェイ』よろしくお願いします!」とシングル盤を置いて。その福岡の有線放送を回る予定とグラハム・パーカー&ルーモアの福岡でのライブの予定がたまたま重なったんだね。そういうロックの夢みたいな出来事がデビュー前後にぼんぼん起こり出してた。

──ロケッツが終演後のロフトで他のバンドとセッションすることはなかったんですか。

鮎川:ほとんどなかったね。一緒にセッションできるほど音楽の共通項がなかったし、そもそもおこがましいし。僕らはローリング・ストーンズが好きやから言われれば何でも弾けるけど、こっちから「ストーンズのあの曲やろうぜ」とかはあの時代は言えんかった。それぞれのフィールドもあったし、音楽的に好き嫌いもいろいろあったしね。

──『#1』のレコ発が『LP発表会 大セッションパーティー』と題されたライブでしたが(1979年2月25日、新宿ロフト)、山本翔さん、プラスチックスというゲストの顔ぶれに当時の交友関係が窺えますね。プラスチックスとは、ロケッツとRCサクセションの3組で『POP'N ROLL 300%』という武道館公演を翌年成功させていますし(1980年8月23日)。

鮎川:プラスチックスとはすぐに友達になったね。(佐藤)チカがスタイリストやったり、トシ(中西俊夫)は元祖DJの一人やったし、佐久間(正英)君は四人囃子をやっててプラスチックスで唯一のミュージシャンやったり、彼が四人囃子の頃からサンハウスはすれ違ったり会ったりしてたしね。それですぐ仲良くなれた。当時、表参道に原宿セントラルアパートっちゅうのがあって、その1階にあったレオンちゅう喫茶店へ行けばカメラマンの鋤田(正義)さんやら糸井重里、佐久間君たちの仲間…立花ハジメとかもよくいた。細野さんやらも来たりするし、いろんな人たちとそこで会うことが多かった。レオンにちょっと寄ってコーヒーを飲んで帰ろうちゅうてシーナと行くと誰がいる彼がいる、こんにちはちゅう感じでね。僕たちはたまたまバンドをやりよったけれども、レオンに集まる人たちはみんな広い意味で音楽仲間みたいな感じやったね、業種やアプローチは違えども。僕らは人前で演奏してわくわくしとるけど、みんな元はラジオからロックンロールを聴いて興奮した同じ音楽ファンだった。僕らはレコードを聴くより自分たちでバンドをやったほうが楽しいことに気づいてバンドを始めただけで、音楽が好きでロックが好きでっちゅうのはみんな同じやった。

デビュー前後はロフトがすべての基準だった

──シーナさんもそうやってただのリスナーでいるよりも自分で唄うようになったんですよね。

鮎川:そう。まさに「アタシが唄うちゃろか」よね。それまでボーカルもバンドもやったことなかったし、一緒にバンドをやろうなんちゅうことは夢にも思ってなかったけど。実家にいたシーナが北九州から東京のスタジオについてきて、そのとき唄ってた女性シンガーを見て「アタシのほうが上手いみたい」と言い出して。そのままシーナが唄うことになった。

──ロフトで鮎川誠&ミラクルメンのボーカルとして人前で唄ったのがシーナさんにとって最初のライブ体験だったわけですよね?

鮎川:うん、ステージに立ったのはロフトが最初。

──しかも、シーナさんが1番のうちに全部の歌詞を唄ってしまって、2番以降がインストになった曲もあったとか(笑)。

鮎川:そんなとっ散らかったこともあったね。2番、3番がなくなったので「インスト!」とか言うて(笑)。

──お客さんが3人しかいないライブもロフトではやったそうですね。

鮎川:それは1978年12月(9日)にやった荻窪ロフト。寒くて雨は降りよるし、シーナは夏のサンダル履いたまま荻窪商店街をびしょ濡れで歩く羽目になったりね。その日は僕とシーナしか東京でのレコーディングに残ってなくて、川嶋と浅田は先に福岡に帰ってたから「ホントにライブやるの?」ちゅうて。で、柏木のコネで鈴木“ウータン”正夫ちゅう当時引っ張りだこやったドラマーやら、凄いベースの名手やらトラのミュージシャンを急遽呼んでもらってね。3時間前くらいに集まって、曲を全部覚えてもらって。お互いの共通項であるカバーをやるちゅうよりも「トレイントレイン」とか「400円のロック」といった当時レコーディングしてた曲をメインにやった。しかも3人しかいないお客さんの中の2人は僕の友達だったので、実質的にお客さんは1人。それが僕らにとって初めての荻窪ロフト。

──こうしてあの時代を振り返ると、ロケッツにとってもロフトにとっても揺籃期だったのを感じますね。

鮎川:あの頃はロフトがすべての基準やった。ロフトに出てるバンド、ロフトのサウンドが自分たちの基準。当時僕らも同じような音楽が好きやったけど、つまりパンクやニュー・ウェイヴよね。でもその前に僕がやってたサンハウスはブルース・バンドやったし、ロキシー・ミュージックやらデヴィッド・ボウイやらグラム・ロックの影響も受けたり、その後のニュー・ウェイヴやパンクの影響も受けた。当時のロフトはそのメッカやったよね。それは東京ロッカーズの人たちの功績が大きいと思うけど、僕らもそういう同じような音楽が好きな仲間に認められたいっち思いよった。

──ロケッツがロフトを牙城にし続けたことが、モッズやルースターズ、ロッカーズといった同郷の後進バンドに東京での活動の道筋を作ったようにも感じますが。

鮎川:そんなことはないけど、当時の東京にはロフトと屋根裏しかなかったもん。あの時代、ロフトと屋根裏がサンハウスやめんたんぴんみたいなバンドを出してくれとったけど、そういうバンドやらがもはやオールド・ウェイヴなイメージを持たれるくらい、それから数年のあいだにじゃがたらやら何やら新しいバンドがバンバン出てきよった。まさに時代の転換期やったね。

──同郷の後輩バンドが続々と上京してきたのを当時の鮎川さんはどう感じていたんですか。

鮎川:ルースターズは僕と同じ北九州出身で、サンハウス時代から知り合いやったし、もちろんロッカーズの陣内(孝則)も穴井(仁吉)も知り合いで、モッズに至っては浅田が森山(達也)と組んだバンドが前身やけんね。みんな街の知り合いやったし、それぞれ頑張ってバンドをやっとったし、僕はなんも先輩やからとか言うて後輩の面倒を見るとかそんなことはなかった。自分のことで精一杯やし、蹴落とそうなんちゃ思わんけれども(笑)、彼らを引き立てて道を作っちゃるみたいなことを考えたこともなかった。ただ一緒に盛り上がればいいなと思って、1979年に『真空パック』のレコーディングが終わった後、ルースターズとモッズとロッカーズに声かけて博多グリーンビレッジっちゅう所で『ROCKET'S PARTY』ちゅうイベントを僕が3デイズ企画して、それが大盛況やった。福岡の音楽ファンが新しい音楽、元気のいい音を出すバンドちゅうかパンクロックを待ち望んでた時代。80年代に入って彼らも上京して一気に花開いた印象があるね。

出番直前にその日やる曲を決めるのはコステロの教え

──ルースターズには柏木さんもプロデューサーとして関わっていたし、その流れもあって1982年の大晦日には新宿ロフトで花田(裕之)さんをギターに迎えてサンハウス時代のナンバーがプレイされることがあったじゃないですか。柴山(俊之)さん、鮎川さん、川嶋さん、花田さんという布陣で。それが翌年のサンハウス再結成(柴山、鮎川、奈良、浦田)にもつながりましたよね。

鮎川:ああ、あれが1982年か。

──そうです。鮎川さんのソロ・アルバム『クール・ソロ』のレコ発(1982年4月16日)をロフトでやっていただいた年ですね。

鮎川:その大晦日のサンハウスも最初は柴山さんを柏木がブッキングしただけの話で、花田たちがバンドでバックする話やったみたいなのが、柏木やったか柴山さんやったか忘れたけれど、ドラムとベースを川嶋と浅田に頼みたいちゅう話になってね。それやったら僕も出らんか? ってことになって、いいよっちなって。サンハウスの曲やったら全然昨日の続きでやれるから。ライブ自体はとても良かったし、刺激になった。デモンストレーションにもなったし、自分らのアピールにもなったしね。

──それと忘れちゃいけないのは、小滝橋通り沿いにあった新宿ロフトでの最後のライブはシーナ&ロケッツに飾っていただいたことですね(1999年3月16日)。翌日の旧ロフト最後の日がお客さんとバンドマンが一緒くたになったパーティーで、通常のライブブッキングの最後は他でもないロケッツだったという。

鮎川:ロフト最後の日ね。あれは僕らも出してもらってホントに嬉しかったし、テレビの取材が来て番組にもなったもんね。昔のロフトは人だかりができる眺めが凄い良かった。通常の入口とは別に楽屋の出入口があって、その裏のほうが関係者とかが固まってて逆に人が多いんよね。あそこへ行きよるとファンの人が話しかけてきて「北海道から来たんです」とか言われて、熱いロックの心が道まではみ出とった。当時、ロフトの向かいが大黒屋っちゅうメンズの洋服屋さんで、僕らはその大黒屋の入ったビルの共同トイレで着替えたりしてた。ロフトの楽屋は狭かったけんね。当時はライブができる場所なんてそんなもんやったし、みんな手作りで試行錯誤しとった。福岡もそうで、ライブをやれる場所がそもそもなかった。あの頃はまだ練習スタジオっちゅう概念もないし、そういうんが営業として成立するなんてまだ誰もアイディアがない時代。アンプとドラムが置いてある店があれば「ああ、ここでライブやれるん?」って感じで入り浸って、朝から練習させてもらってね。サンハウスは福岡の“ぱわあはうす”でずっとそんな感じやった。最初は普通の喫茶店やったけれど、店主と盛り上がってライブをやるようになってね。べタンとしたセメントの真四角な小屋にアンプを持ち込んで、そのうちそのアンプを置きっぱなしにして、店の鍵も預かるようになって午前中に練習する。昼の12時から営業やけ、朝の8時か9時に集まって3、4時間ずっと練習。ああいう店があるのがサンハウスには凄い有り難かった。

──いい話ですね。さて、ロケッツの44周年とロフトの45周年を記念した今回の『44回目のバースディLIVE』ですが、いつ以来か分からないほど久々のロフトでのワンマンですね。

鮎川:おそらく、アベフトシが遊びに来てくれたライブ以来やないかな。

──ああ、ありましたね。『ROKKET FACTORY ~The Worst and Rarities of Sheena & The Rokkets in Alfa Years~』のレコ発とロフト30周年を兼ねたライブが(2006年9月24日)。

鮎川:イベントでは『冬の魔物』(2019年12月22日)とかいろいろ出とるけどね。ロフトでのワンマンは久しぶりだから楽しみだし、今でもまだ元気に音が出てるぜっち、僕らがこれまでやってきた曲は良かろうが?! っち見せつけるライブにしたいね。今回はルーシーも唄ってくれるし、僕も奈良も川嶋も今はルーシーの一声で動いてる感じやから。彼女が「あれやって」とか言うと、そんな曲唄うてくれるん? ちうような感じで、僕ら3人から「あれ唄ったら?」とか言うたことは一度もない。そこはもうルーシーの心意気に感謝だね。

──セットリストは事前に用意せず、ライブの直前に決めるのがロケッツの流儀ですよね。

鮎川:セットリストを決めないのは、コステロの前座を経験して学んだことでね。6カ所一緒に回って、その一挙一動を観察してたんやけど格好いいことがいっぱいあった。コステロがトイレに行くとマネージャーの下のロードマネージャーがついてきて、ドアの前を覆い隠すわけ。今こん中にスターがいるっちゅう感じでね。そうやってコステロが凄い大物なんだっちゅうことをスタッフが一丸となって盛り上げようとしとるのが分かったし、日本へ来たこの1回のチャンスを逃さんぞっちゅう気迫みたいなもんがコステロからもスタッフからも伝わってきた。そういう中にコステロが本番直前にその日やる曲を鉛筆で書くのを同じ楽屋で見てね。そのときのインスピレーションで手書きするのを見て、ホントそうやね、予定調和ではロックはできんけねっち共感したし、そのコステロの仕草からロックに懸ける彼の思いが凄い伝わってきた。それ以降、僕らも本番ギリギリまで何をやるかは決めんでおこうってことにした。前の日にある程度決めとっても当日リハーサルしよったら他の曲をやりたくなったり、もっといいアイディアがひらめいたりしたらすぐ試したくなるしね。だから出番直前にその日やる曲を書くっちゅうのはコステロの教えなんよ。実を言うと今は照明の人やら音響の人やら全体の動きもあるけ、ある程度は考えるようになったけど、できればギリギリまで決めたくない。前持って考えたほうが逆に大変だからね。

バンドには奇跡を起こす力がある

──どんなセットリストでも臨機応変にプレイする奈良さんと川嶋さんの力量も凄いですよね。

鮎川:うん、もの凄い。何でもできるメンバーと今もこうしてずっと一緒にやれてるし、こんなに幸せなことはない。川嶋はほとんどのレコードでドラムを叩いてるし、奈良は途中10年ほどEXとか松田優作のバンドでも活躍してたけど、サンハウス時代からずっと一緒だから。今も川嶋と奈良とやれてるのはバンドの誇りだね。そして今はルーシーがシーナの歌をあんなに唄える驚きと喜びがある。シーナのお腹の中でずっとシーナの歌を聴いてたのは伊達じゃないし、「こんなにステキな歌をもっとたくさんの人に聴いてほしい」っちルーシーが心から言うんがとても嬉しい。たとえば「『HELP ME』やろう」とかね。あれはシーナのソロ・アルバム(『いつだってビューティフル』)に入ってる立花ハジメが作曲した歌で、サックスが入っとるし、細野さんプロデュースだからテクノサウンドやし、ルーシーはそういう曲をいきなり唄うてみたいと言い出して僕らは驚くけど、それが新鮮だったりもする。彼女はDARKSIDE MIRRORSちゅうバンドをずっとやってたから、バンドのこともよく分かってるしね。とにかくまたロフトでワンマンをやれるのは楽しみだし、夢のようだね。

──こちらこそです。日本で40年以上ノンストップで活動を続けるバンドもそうはいませんし、ロケッツにはまだまだ現役でいていただきたいものですね。

鮎川:ありがとう。バンドが仲良くずっと一緒にやるのは大変やけんね。音楽の好き嫌いも人間の好き嫌いもあるし、酒が入って人格が変わったりとかいろいろあるし(笑)。それも自分らの好きなことで稼がないかんし。それがギリギリやれてるっちゅうのは有難いことだね。

──今もこうしてバンドを続けている原動力は何なのでしょう?

鮎川:他に何やるの? ちう感じ。こんなに楽しいことは他にないし、そこにずっとしがみついとる感じだね。自分がもういいやと手を離せばいつでも簡単に吹き飛ばされてしまうし、そもそも誰に頼まれてやってるわけでもないし、誰かと契約したり約束してやってるわけでもない。ただ自分らがやりたいっち意志だけでここまで来て、次のライブがなければ自然消滅するだけ。でも自分がやるっち言えばまだやれるけんね、有難いことに。

──ロケッツがバンドをやり続けてくれることが僕らにとって勇気になるというか、われわれライブハウスも去年からのコロナ禍で思うようにライブがやれず、悔しい気持ちを何度もしてきました。そこで歩みを止めるのは簡単なことで、何かを続けることの大事さや尊さを身に染みて実感したんです。それはバンドマンでもライブハウスに携わる人間でも同じことだと思うのですが。

鮎川:長く続けてきたからこそ出せる音があるし、今もとにかく僕らが思う最高の音を出したいし、その音を聴いてもらいたい。それに尽きるし、それは僕が『サマービート66』に出たときからずっと変わらない。あの夏祭りに出たときのドキドキと、1人じゃ大したことはできなくても4人が集まってガーン!ちなったときにホントに凄いもんが生まれるあの感覚は絶対に忘れられない。バンドにはそういう奇跡を起こす力があるからね。それをロックの神様がステージの片隅から見ててくれる。そこで大事なんはどれだけ音で勝負できるかで、バンドはそりゃ格好もようないといかんし、頭の中も冴えとかないかんし、仲良しで売ったりお洒落で売ったりいろんな売り方もあろうけど、ロックバンドはいかに音でノックアウトさせるかが大事なんよ。僕らはゾンビーズを聴いてあの独特の音やムードにやられたし、ロキシー・ミュージックもそうやったし、いろんなロックを聴いて素晴らしい音と出会ってきた。デヴィッド・ボウイもいい男やけ惹かれたけど、やっぱりあのボウイのサウンドが素晴らしいからなお格好良く見えたわけで。ストーンズがいまだに魅力的なのは決断力の音をしとるから。ちゃんと弾けるのか? っちハラハラするくらい心配しても、ライブが始まるともうさらわれてしまうもんね。そういう音を僕らもまだこれから出していきたいし、バンドは奇跡を起こす力があるのを今も信じてる。奇跡なんて言うと柏木が付けた“ミラクルメン”ちゅうバンド名を肯定するみたいであれやけどね(笑)。

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