継承へ「すさまじい信念」 被爆者代表・岡さんの足跡 親交あった佐藤さんの証言

「平和への誓い」の原稿を手に「岡さんは自分の役割を果たすため精いっぱい生きた」と語る佐藤さん=とぎつカナリーホール(写真左)、平和祈念式典終了後、取材に応じる岡さん=平和公園(写真右)

 8月9日の平和祈念式典で、過去最高齢の被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げ、今月4日に93歳で亡くなった岡信子さん。約4年前から親交があった元小学校長で、とぎつカナリーホール(長崎県西彼時津町)館長の佐藤雄一さん(63)は、岡さんの行動や思いを間近で見聞きしてきた。佐藤さんの証言から、長年被爆体験を語らなかった岡さんが式典で平和を発信するまでの足跡をたどった。
 2018年1月10日。佐藤さんが当時校長を務めていた時津町立時津小を岡さんが訪ねてきた。「寄贈したい」と時津国民学校の救護所などの写真を持参。その救護所は被爆後、岡さんが父親と再会できた場所だった。岡さんは看護学生として新興善国民学校の救護所で活動しつつ、何日も父親を捜し続けていた。
 岡さんの被爆体験を初めて耳にした佐藤さん。被爆講話のように構成が練られたものではなかったが、小さな声で涙ながらに語る姿に強く心を揺さぶられた。言葉一つ一つに、過酷な被爆体験を後世に伝えたいとの思いがにじみ、「すさまじい信念」を感じた。
 退職後の18年4月に館長となった後も、手紙のやりとりなどで交流は続いた。岡さんは時折、ホールを訪ね、大学生に講話したこと、被爆体験記を国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に残したことなど現状を報告し、これからやりたいことも語った。
 そんな中で、平和への誓いに応募したことも聞いた。しかし、「話が下手。声も出ない」「団体にも所属していない」と、いつになく不安そうだった。「岡さんしか発することができない言葉があるでしょう」。佐藤さんはそう言って、そっと背中を押した。
 佐藤さんは直観的に選ばれると思った。「代表に決まった」と本人から電話で報告を受けた時も驚きはなかった。出会った時から、被爆体験を未来に伝えることこそが「この人の役割だ」と感じていた。
 8月9日の大役を務めた後、すぐに「報告に行きたい」と連絡があった。後日、会って話すと、講演の依頼など、全国から反響があったことを、うれしそうに語っていた。「しばらくは自分のために時間を使ってください」。佐藤さんはそう助言したが、まだ立ち止まろうとはしなかった。
 そんな中、9月に岡さんのがんが判明。電話で話した時の言葉はまだ力強く、「気力を持っていれば、きっと大丈夫」と佐藤さんは信じていた。しかし、病魔は想像以上に早く進行していった。岡さんは、式典から3カ月足らずの今月4日に亡くなった。
 「平和への誓い」の原稿は今、佐藤さんの手元にある。「持っていてほしい」。岡さんが入院する直前の9月、直接託された。固辞したが、後押ししてくれたからという思いからか、岡さんの意志は固かった。
 「岡さんは被爆当時の16歳のまま時が止まり、あの夏が76回続いていると思えるほど、最後は自分の時間を使い切り、自分の役割を果たすために精いっぱい生きた」。佐藤さんは「生き残った者の務め」を全うするために最後まで力強く生きた岡さんを悼んだ。

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