長靴で入団テストに合格した魚屋の跡取り・土橋正幸

東映時代の土橋正幸(東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】「アイツは魚屋の長靴を履いてテストを受けに来て長靴のまま投げて合格さ」。先輩たちが「アイツ」というほどに無名だった土橋正幸は長靴登板の伝説をプロ野球史に残している。

1954年秋、東映フライヤーズ合格の町のニュースは5歳年長の同じ浅草っ子、のちの王貞治の師匠、荒川博の耳にすぐに入った。

毎日オリオンズの荒川の実家は馬道の果物商で、浅草寺や浅草寺の少し先の待乳山聖天に信者が供える供物の果物を一手に引き受けている。荒川は「魚屋の自転車は頑丈にできているから駒沢まで漕いで行くのが重かったろうな。いい根性してるよ」。

土橋の生家は浅草の千束町二丁目一八二番地、電話、根岸1309番、大きな鮮魚店「魚秀」。「店の手伝いが忙しくて長靴のままテストを受けに行っちゃったんですよ」と土橋。まさか、長靴のままで投げてはいないが、土橋の口ぐせを借りると「シでぇーもんだった」。土橋は江戸っ子なので「ヒ」が言えない。広島カープは「シロシマ」になる。

「魚秀」のこの跡取りは35年12月5日に誕生。35年というと、関東大震災で焼けた日本橋の魚河岸の築地移転が決まった年である。都立日本橋高校に入学。軟式野球を始める。下町は昔から軟式野球がさかんで、戦後は「菊水球団」が強かった。菊水の大型二塁手“今井のオッチャン”は後楽園球場で巨人の3連戦が始まると毎日、浅草寺にお参りに行き、仲見世のオセンベ屋で1袋500円のザラメセンベイを買って、少年時代浅草が遊び場だった王貞治に差し入れにとどけていた。王はオセンベや大きなアメ玉が大好きだった。

卒業すると土橋は店が休みの日に軟式チーム「雷門サンダース」のシでぇーキャッチャーになった。それから「六区」の「フランス座」でピッチャー。ずぅーと昔、江戸の浅草田んぼは一区から七区に区切られていたと聞く。「一区」は「吉原」、「六区」は映画館や演芸場の町になった。荒川博は六区の小屋の楽屋で芸に打ち込む男たちの姿に学んだ。浪曲の広沢虎造に「遊びにおいで」と、可愛がられた。

土橋は決してウソがない。さっぱりした気性の若者に成長した。

「うちのテストを受けてごらん」。すすめてくれたのはある日、浅草に立ち寄った東映の捕手、米子中学、阪神、毎日の土井垣武。土井垣は一筆求められると「得意泰然 失意悠然」と書く。

「いけますぜ」。球団にすすめたのは浪商、立命館大学、49年東急入団、23勝の快速球投手米川泰夫。土橋の入団1年先輩の毒島章一(桐生高校)が驚嘆する。土橋はくる日もくる日もバッティングピッチャー。「1時間でも2時間でも平気で投げている」

ボールをつかむとドンドン投げ込む。一軍12年で登板455試合だが、ボークは1でしかない。思いきりがいい。毒島は東映の球団事務所が国鉄と東急池上線の発着駅五反田のとなりのビルの2階で、3階がダンスホール「カサブランカ」なのに驚いていたが、土橋は「六区」にいたから驚きもしなかった。 =敬称略=

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