【プロレス蔵出し写真館】40歳で早世…テリー・ゴディがガチで大暴れした「戦慄の記者会見」

報道陣に向かって机を投げつけるゴディ(84年10月、東武高輪H、東スポWeb)

2001年(平成13年)7月16日、〝人間魚雷〟テリー・ゴディが米テネシー州チャタヌーガの自宅で心不全により死去した。まだ40歳という若さだった。

同年8月26日に全日本プロレスの後楽園ホール大会で、名コンビだったかつてのタッグパートナー、スティーブ・ウィリアムスが遺影を持ち追悼の10カウントゴングが鳴らされた。

全日本の常連外国人レスラーで、3冠ヘビー級王者にまで上りつめたゴディだが、全日本での後半は心臓病に苦しめられ、欠場を繰り返すようになり、引退がささやかれるようになった。

3冠王者時代の90年7月26日、群馬・伊勢崎大会の試合後、都内に戻り深夜まで飲酒していたゴディは、突然バッタリと倒れ意識不明になった。新橋の慈恵医大病院に救急車で運び込まれたが、一時は心臓も停止し、死を宣告される状態に陥ってしまった。担当医師も見放し、駆けつけた全日本の関係者も天を仰いだが、幸いにもゴディは翌日、意識を取り戻した。

ジャイアント馬場は「もうゴディのレスラー生命は終わりだろう」と語っていたのだが、ゴディは奇跡的にカムバックを果たした。

しかし、3年後の93年8月19日に成田空港に到着直後、緊急入院してシリーズを欠場した。機内で体調不良となり、そのまま救急車で成田市内の病院へ搬送されたのだった。翌94年に一度、全日本マットにカムバックしたゴディだが、かつての迫力はなくなっていた。

ゴディの強烈な思い出のひとつとして今でも強烈な印象に残っているのは、今から37年前の84年(昭和59年)10月4日、東京・品川の東武高輪ホテルで行われた会見だ。

ゴディは翌5日に開幕するシリーズにマイケル・ヘイズ、マネージャーも兼ねるバディ・ロバーツとともに〝自由の鳥軍団〟ザ・ファビュラス・フリーバーズとして来日。成田空港からホテルに直行してきた3人はビール、ウイスキーを飲みながら会見を行った。

「ツルタ? 奴はペーパーチャンピオンだ」「カブキなんか粉々にしてやる」。ジャンボ鶴田、ザ・グレート・カブキに向け威勢のいいメッセージを発し、ひとしきり定番の質疑応答が終わった。

ある記者が「好きなお酒はなんですか?」と質問した。ゴディは「ジャックダニエルのジンジャーエール割りだ」と答えると、一人のカメラマンが何気なく「ふふん」と笑った。悪気はなかったのだが、鼻で笑ったと感じたのだろうか、酔っ払ったゴディの気に障ったようだ。

「今、笑ったやつはだれだ!?」ゴディが急に怒り出すとテーブルのビール瓶、グラスをなぎ払い、机を叩き、ついたてを蹴破った。ゴディの大暴れにヘイズはあ然としていたが、上半身裸になり、なおも暴れるゴディに触発されたのか机を蹴とばした。

ゴディは、ほうほうのていで会見場から逃げ出す報道陣に向って机を投げつけた(写真)。

会見が終わり、少しして「ここはどこ?」とゴディに聞かれた専門誌の記者が、「東京」と答えると「えっ、東京?」。心底、驚いていたようだ。

23歳ゴディの、まさに酒が災いした、パフォーマンスではない〝ガチ〟暴れの狂乱会見だった(敬称略)。

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