「子どもの生きる力 手助けしたい」 研修医の熊谷さん 白血病克服し小児科医に 中3で発症 闘病支えた主治医に憧れ

「子どもたちの生きる力を手助けしたい」と語る熊谷さん=大村市、長崎医療センター

 いつか同じ道に-。国立病院機構長崎医療センター(大村市)の研修医として働く熊谷知香さん(28)は中高生の頃、白血病を患った。死すら意識したあの日、小児科主治医の言葉に励まされ、医学を志した。病を乗り越え、来春で初期研修を終了。新たな現場で小児科医としての経験を積んでいく。「子どもたちの生きる力を手助けしたい」。朗らかな笑顔で、そう固く決意する。
 異変は突然現れた。諫早市立西諫早中3年の春、首周りが腫れ上がった。病院を転々として、行き着いた長崎大学病院。先に両親が医師に呼ばれ、病室に戻ってきた父親に言われた。「闘わんばいかんね」。母親は顔を伏せて泣いている。白血病だった。
 すぐに抗がん剤治療を始め、間もなく首の腫れは引いた。ある日、回診に来た主治医が何げなく言った。「ところで高校受験はどうするの?」。闘病は始まったばかりで現実的でないように思えたが、主治医は続けた。「病気のせいで将来を変えるなよ」。発症前の志望校は県立諫早高。暗闇に光が差した気がした。
 小児科病棟にある院内学級「たんぽぽ学級」で学習を再開した。入院中の小中学生10人ほどが在籍し、近くの長崎市立山里中、坂本小の教員がサポートする。薬の副作用で激しい頭痛や吐き気などに襲われ、苦しい日々。だが授業内容を書き取ったノートを差し入れてくれる西諫早中の友人や、病室まで教えに来てくれる教員にも支えられた。第1志望校への合格が、生きる目標になった。
 受験間近の2008年12月。諫早に一時帰宅した時、薬の副作用とみられる脳梗塞を発症した。大学病院へと急ぐ車内。次第に右半身が動かなくなり、正常な発声ができなくなった。パニック状態で到着した熊谷さんの目を、主治医はじっと見詰めて言った。
 「絶対に治してやるけんな」
 もう何でもいい。この先生を信じて頑張ろう-。そう思えた。迅速な治療を施され、体の動きや言葉を取り戻す頃には心を決めていた。「私も医療の仕事を目指したい。勇気づける言葉を言える人になりたい」。夢が定まった瞬間だった。
 諫早高に合格したが、入院治療のため1年間休学。抗がん剤治療を続けながら通学し、体調面で苦しい高校生活だったが、勉強できること自体が幸せだった。なぜなら、たんぽぽ学級で一緒に過ごした級友の中には、病が治らず短い生涯を終えた人もいたから。「いつか天国でその子たちと会った時に『頑張ってきたよ』と胸を張って言いたい」。その思いが原動力になった。
 20歳で長崎大医学部に入学。6年間学び、ジャグリング部員として、たんぽぽ学級の“後輩”のためにショーも開いた。現在、研修医2年目。周囲と力の差を感じて落ち込み、家でひとり泣くこともある。それでも、もっと厳しい状況はたくさん経験してきた。「中学時代に頑張った自分が、今も一番の味方」。苦しかった過去を力に変え、前に進む。


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