魚屋を継ぐはずがまさかの日本記録で人生一変した土橋正幸

土橋正幸(東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】魚屋の長靴登板の伝説を残して東映フライヤーズのテストに合格した浅草千束町の「魚秀」の跡取り、土橋正幸は、入団第1年は朝から日が暮れるまでバッティングピッチャー。2年目の1956年に一軍登板4試合、防御率10・29。9回投げさせてもらったとして10・29点取られたことになる。3年目の夏、それまで「1、2年は好きにしていいよ」と言っていた父親が怒った。

「野球を辞めて家に帰ってこい! 店を継げ。月に4万円もらったってどうしようもない。魚屋をやったほうがずうーといい!」「わかったよ」。が、公式戦を終わってみると近鉄に2勝、西鉄、大映、阪急に1勝、5勝を挙げていた。この5勝のうち4勝は試合の終盤、山本八郎、毒島章一、ジャック・ラドラ、スタンレー・橋本…の打線が試合をひっくり返して、土橋に勝ち星がころがり込んだのである。この4勝が“いけなかった”。勝った気がしない。土橋はホントの勝ち投手の味を味わいたかった。

「オヤジ、店に帰るけどあと1年待ってくれよ」

58年5月31日、浅草は朝から「お富士さん」の植木市で賑わっていた。土橋は駒沢球場の先発のマウンドに向かっていた。東映西鉄6回戦。土橋は「強大王国」西鉄打線と戦うのだ。「鉄腕」稲尾和久と投げ合うのだ。

プレーボール。だれがどう見てもこのときもう勝負あった…である。土橋はしかし1回二死から大下弘を三振に討ち取った。低目低目にストレートが走った。それから関口清治、田中久寿男、三振。シュートボールを投げ込む。稲尾和久、和田博美、滝内弥瑞生、高倉昭幸、仰木彬、中西太、連続9奪三振。試合が終わると1試合16奪三振の日本記録を樹立していた。セ・リーグの金田正一、江夏豊、外木場義郎よりもはやく奪三振の“大将”になっていた。この記録はのちに奪三振17で、阪急の足立光宏、近鉄の野茂英雄に更新されるのだが、球団からお祝いが贈られた。金銀の水引きが立派だった。試合は3対0。

家から知らせが来た。「大変だッ。お祝いのお客さんが次から次だ」。土橋は捕手安藤順三(多治見工業)、2年目の投手末松英二(福岡工業)を誘って実家に赴いた。お祝いに来てくれたご近所の方々に挨拶するのが忙しくて、呑めなかった。これでは安藤と末松に悪い。父親にわけを話して銀座へ行ったが、銀座はどうも落ち着かない。「やっぱり渋谷がいいや。渋谷でゆっくりしようぜ」

道玄坂の途中から少し入った百軒店へ行った。百軒店は昔はしっとりとした店ばかりで帝大(東大)野球部の選手がクラシック音楽を聴きにくる、レコードとコーヒーの店もあった。学徒出陣の前のことである。奥にはハイカラな、ちいさなスケートリンク。慶応大学のアイスホッケーの名選手、のちにスケート連盟の経理をきちんと整える銘苅健二が滑走していた。戦後、百軒店は派手になっていったが、それでも三人は落ち着いた。土橋は、球団からお祝いをもらったのを思い出した。

「3万円は固いぞ」

=敬称略=

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