100年前の東京の休日を体験。庶民、文豪、大スターが愛した名店3選

東京、100年前の"最先端"

およそ100年前。明治末期から大正昭和初期にかけて、日本では新聞やラジオが普及しはじめ、一般の人々が世界のニュースや知識に触れるようになりました。巷では、西洋文化を取り入れたファッションや建築が流行。街は賑やかになっていきます。

東京には和洋折衷のロマンチックな建物が建ち並び、エレガントな洋装で街を歩く人が増えました。かわいらしいショートヘアの"モダンガール"、丸眼鏡をかけてダービーハットをかぶった"モダンボーイ"と呼ばれるスタイルが流行したのもこの頃です。

華やかな時代、外国のグルメや喫茶も注目されはじめます。高級フルーツやパン、洋食、コーヒーなど、それまで日本になかった料理・喫茶の店が次々とオープンしました。

海を渡ってやってきたコーヒーを味わいながら「カフェーパウリスタ」で感じる文化の香り

日本でもっとも歴史ある喫茶店のひとつが、銀座の「カフェーパウリスタ」です。

初代社長の水野龍(みずの りょう)氏は日本からブラジルへ移民を送ることを計画した人物として知られます。人口増加による食糧不足、日露戦争(1904~1905年)の帰還兵の失業が社会問題になっていたためです。

水野は当初、食料の豊富なブラジルなら移民たちは豊かに暮らせるはずだと考えていました。しかしブラジルへ渡った日本人移民のほとんどは、コーヒー農園で苛酷な労働に従事し、貧しい生活を送ることになります。水野自身も移民事業で大きな赤字を抱えました。

水野の移民事業への救済対策として、ブラジル・サンパウロ州政府はコーヒー豆の無償供与を約束。日本におけるブラジルコーヒーの普及事業を水野に委託しました。

そうして1911年、水野は銀在六丁目にカフェーパウリスタを開店したのです。

コーヒー普及のための工夫

コーヒーがまだ珍しかった時代、カフェーパウリスタはコーヒーと喫茶文化の普及に尽力しました。

鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」というキャッチフレーズを掲げ、燕尾服を着た紳士と美少年たちを雇い、銀座の大通りでコーヒーの試飲券を配布。女子校出身の女性に上流階級の家庭を訪問させ、コーヒーの飲み方を教える普及活動も行いました。

店のスタイルも一風変わったものにしました。当時、喫茶店の給仕はほとんど女性でしたが、カフェーパウリスタはその常識を打ち破り、美少年を採用。海軍士官風の制服を着せてコーヒーを運ばせました。

センセーショナルな宣伝活動に加え、1杯5銭という手頃な価格(現在の900円相当)で、店は朝から晩までたくさんの客で賑わったといいます。多い日には1日4000杯以上のコーヒーが売れました。

オープン当時、店は日比谷公園と帝国ホテルの近くにありました。近隣には新聞社や外国の商館が多く、学生や知識人たちが集まり、コーヒーを飲みながら語り合う場所になりました。

学校帰りに銀座で遊ぶことの多かった慶應大学の学生たちの間では、"銀座でブラジルコーヒーを飲む"という意味の言葉「銀ブラ」が広まりました。

理論物理学者のアルベルト・アインシュタイン、文豪・芥川龍之介ジョン・レノンと妻、オノ・ヨーコなど、著名人も多く訪れました。

芥川龍之介は、新聞社の記者と店でよく打ち合わせをしていたそうです。

農薬不使用栽培!生態系を守る森のコーヒー

カフェーパウリスタでは、生産国のコーヒー農場を実際に訪れ、生豆の品質と農場オーナーの経営理念を確かめているそう。

農場オーナーと信頼関係を確立してから、豆を日本に輸入する方法をとっています。豆の焙煎と鮮度管理は日本の自社工場で行います。

店では数種類の豆を扱っていますが、イチオシはブラジルの農場で農薬不使用栽培された「森のコーヒー」です。馥郁とした香り、濃厚で後味はさっぱり、適度な酸味があります。

自家製ケーキやスイーツも人気。

定番のコーヒーゼリーには生クリームを付けて。濃厚なコーヒーの香り、生クリームのなめらかさが味わえます。

日々の暮らしにフルーツを。「新宿高野本店 フルーツパーラー」

日本鉄道新宿駅が完成した1885年、フルーツ専門店「新宿高野」が開業しました。新宿駅の発展にともない新宿高野の認知度も上がりました。
1926年には新宿高野本店にタカノフルーツパーラー新宿本店をオープン。食べ頃のフルーツや仕立てを変えたフルーツを使ったスイーツを提供したことから、店の注目度は一気に上がりました。

オープン当時から今日に至るまでタカノフルーツパーラー新宿本店は、フルーツの産地、品種、食べ頃にこだわってきました。専門のフルーツクチュリエが、デザートの見た目や盛り付けの技術も磨いてきたそう。

シーズナルフルーツの開発では社長とフルーツクチュリエが試食して、首を縦に振らなければメニューとして採用されることはありません。

新宿高野本店 フルーツパーラーで世代を問わず人気なのが、旬のフルーツを使ったパフェです。

同じフルーツでも産地が違えば、パフェとして味わえる時期も違います。特定の産地のフルーツを狙って、遠路はるばるやってくるスイーツマニアもいるほど。写真のスイーツは"晴れの国"と呼ばれる岡山県産の桃のパフェです。

桃味のさっぱりしたゼリーにフロマージュムース、口に入れるとすぐ溶けるグラニテの層。一番上には桃のカットが盛り付けられています。

桃の自然な香りが口の中にどんどん広がり、いろんな食感も楽しめます(夏季限定)。

パフェと並んで人気なのはフルーツサンドウィッチ

バナナ、イチゴ、キウイなど甘くて香りのよいフルーツ、しっかりとあわ立てた自家製ホイップクリームを使っています。

さっぱりと後を引く味で、朝食にもぴったりです。

世代を超えて愛されるレストラン&カフェ Manna新宿中村屋の本格インドカレー

日本ならではのパンといえば、あんぱん、ジャムパン、クリームパン。クリームパンは1901年創業の「新宿中村屋」が創案しました。

創業当時からパンは飛ぶように売れましたが「一休みできる喫茶場所がほしい」というお客さんのニーズに応えて、1927年に「喫茶部」が誕生しました。

喫茶部で提供したのは、当時たいへん珍しかった「純印度式カリー」です。当時、日本で広まっていたカレーといえばヨーロッパ風の、小麦粉でとろみをつけたカレーでした。

純印度式カリー誕生のきっかけは、中村屋の創業者・相馬夫妻とインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースの出会いにあります。日本亡命中のボースを相馬夫妻は匿っていました。

喫茶部をはじめるか迷っていた夫妻に対し、ボースは「祖国インドの味を日本に伝えるため、純印度式カリーを名物料理にした喫茶部にしよう」と提案。喫茶部開店のきっかけを作りました。

そうして誕生した純印度式カリーは、骨つきの鶏肉とスパイスの濃厚な味わい。味に慣れない客もいましたが、口コミが広がり徐々に新宿中村屋を代表するメニューになっていきました。

店では20種類以上のスパイスを独自に調合して、辛さの中にまろやかさのあるカレーを作っています。カレーの甘みは、糖度の高い淡路島産の玉ネギ。

生産者の協力のもと鶏肉は、部位を指定せずに1羽丸ごと買い取っています。こうすることでお客さんは、脂身の少ないさっぱりとしたむね肉と肉汁が多く噛みごたえのあるもも肉を味わえます。

純印度式カリーにはさまざまな薬味が用意されています。三種類のチャツネ(レモン、マンゴー、オニオン)粉チーズ、ラッキョウ、ロシア式キュウリの酢漬けなど。カレーに加えて味の変化を楽しめるようになっています。

あまりに多くの薬味が置いてあるので、お気に入りの1つをおかわりで絞ってほしいと店に頼むお客さんもいるほど。

歴史ある新宿中村屋は、お客さんにとって家族が世代にわたって同じ味を味わった思い出でもあるのです。

老舗の味に触れよう

これらの店の開業からおよそ100年が経ち、日本の食文化は大きく変化しました。

100年前、勇敢にも新しいグルメや喫茶を提供しはじめた今日の老舗は、時代に埋もれないばかりか、伝統を守りながら時代の変化に対応しています。

ぜひこれらの店を訪れて100年の歴史をもつおいしさを味わってみてください。

© 株式会社MATCHA