【久保康生コラム】「世代交代」佐々木監督から「大塚を一軍に上げる。お前は・・・」

佐々木監督(左)と握手(東スポWeb)

【久保康生 魔改造の手腕(2)】現役最後の年となった1997年、キャンプ中にルーキーの大塚晶文に声をかけ、助言すると激変してくれました。これが私の指導者としてのルーツです。

大塚はキャンプ中、私の部屋にも訪れるようになり、いいお酒もありましたし、野球談議を重ねたものです。

当時、私がお世話になっていた野球道具メーカー・ゼットさんからシーズン用にグラブを3個支給していただいていました。最も感触が合うものを1個、試合用にと選ぶわけですが、そのほかの2個はキャンプ宿舎の部屋に置いていました。

そしたら、そのグラブを大塚が手に取って「これ、いいっすね」と言うわけですよ。決して「ください」とは言わない(笑い)。そんなに気に入ってくれたのなら1個、あげるよと言うと、そこから本当に大事に使ってくれました。

大塚は1年目の97年から52試合に登板し4勝7セーブ、防御率2・07とセットアッパーとして大活躍しました。彼がマウンドに上がるたび、テレビに私のグラブも映っていました。当時の私の背番号と名前「6 KUBO」が投球動作に入るとよくアップされていましたね。

ずっとグラブを肌身離さず律義に使ってくれてね。とにかく自分の手にフィットすると。自分のフォームとグラブの一体感があるということで気に入って使ってくれていました。

大塚はシーズン当初は二軍でプレーしていましたが、着実に結果を出していきました。私は一軍にいたのですが、大塚が良くなっていることを喜んでいました。

で、5月ごろかな、佐々木監督からうれしい言葉を聞きました。「大塚を一軍に上げるから」。それは良かったと喜んでいたら、監督は続けて「お前は(登録から)外れてくれ」ということでした。

それは仕方がないことです。はい、と返事をして二軍に行く準備をしようと思っていました。

すると、今度は佐々木監督から「登録は外れてくれ。でも、そのままこっちに残ってブルペンで若手投手の指導をしてほしい」と言われたんです。
あくまで現役選手ではありましたが、ここからが指導者としての始まりでした。

私が大塚にアドバイスを送っていることは、当時の佐藤道郎投手コーチから了承をいただいていました。当時の球団代表だった岡本伊佐美さんからも「大塚を頼むぞ」と言われていました。

実はもともと、96年に阪神から近鉄に復帰するとき佐々木監督から「コーチとして近鉄に戻ってこい」と言われていました。しかし、当時の自分はまだ自信があり選手としてなら戻りますと回答させていただきました。

その96年はリリーフで21試合に登板し防御率2・32と結果を残し、97年も現役として認めてもらえ迎えたシーズンでした。

ゆくゆくは指導者として迎え入れるつもりで、佐々木監督は私を近鉄に呼び戻してくれていたわけです。

その後はブルペンを全面的に預けてもらうようになり、若手とともに過ごす時間が増えました。

当時は高村祐(近鉄、楽天など、現ソフトバンク二軍投手コーチ)や小池秀郎(近鉄、中日、楽天)や山崎慎太郎(近鉄、ダイエーなど)ら、勢いのある若手が多かったですね。

97年は小池が大飛躍してくれて15勝で最多勝のタイトルを獲得しました。私はこのシーズン限りで現役を引退することになりましたが、翌98年から近鉄の二軍投手コーチとして正式に指導者としての道を歩むことになりました。

☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。

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