廃線跡?埼玉・川口の鉄道跡地事情 「SL青葉通り」

埼玉県川口市。川口駅を東口に出て、少し歩くと鉄道オタクとしては注目しないわけにはいかない通りの名前を目撃することになる。道の名は、「SL青葉通り」。そんな道をぶらり歩きながら、川口駅近辺の鉄道事情を見ていきたいと思う。

道の入り口から通りを概観する。幅は自動車1車線分であり、途中で一方通行になっている。廃線跡が道路に転用されると大体1車線になることからも、廃線跡と感じるかもしれないが、それにしては奇妙かもしれない。そんな心持の中、道を歩いてみることにしよう。

しばらくすると、汽車顔をした街頭と動輪のモニュメントを見つけた。汽車のナンバーは「D51 1」であり、現在梅小路機関区に保存されているカマだ。車輪のモニュメントもSL用と一目でわかるものであり、現代の車両の車輪とはまた違うテイストを実物でないながらも醸し出している。

ファミリーマートがあるが、店舗名に「SL」が含まれている点が面白い。

設置されているモニュメント。川口の特産品である鋳物づくりだろうか?

もうしばらく歩くと、川口陸橋と交差する。この陸橋は1962年公開の映画「キューポラのある街」にも登場した橋であり、当時からほぼ変わらぬ姿で鎮座している。高架下のところに、紅葉を行くSLのモザイク画が設置されていた。赤い橋梁の上を行く姿はかつての日本で多く見かけられた姿だったことだろう。とはいえここは川口、川と橋梁はあれども美しく紅葉が映える山々に鉄路は隣接していない。

絵に見入るのもさておき、しばらく見回すと道に違和感を覚える。陸橋と道が交差していると述べたが、仮に廃線跡だとすると陸橋の高さと鉄道の車両限界とで高さが合致しない。どう考えても廃線跡と交差している他の道路と比べでもサイズ感が異なる。違和感はこれだけにとどまらない。

沿道の家々の戸口に目をやると、道路側を向いている。昔からあったであろう家も玄関が道側に向いて作られており、やはり先ほどの陸橋の高さと加え廃線跡なのか?という疑問が残る道がこの「SL青葉通り」である。

まぎらわしいよ廃線跡

では、この道は何なのか?なんのことはない、この道は昔からただの道だったのである。1988-1990年の国土地理院地図を確認してみても、特に線路跡が見受けられることはない。それ以前の地図と現在の地図を比較しても、特に道として変わったところを感じることはない。唯一気になる点は、道の北端にあるショッピングモールが、かつては工場だったように見受けられる点である。

◀1988-1990年撮影。(左)
▶全国最新写真。(いずれも国土地理院地図より、一部加工)(右)

そもそもなぜこの道を廃線跡と疑ったのだろうか。それは、かつてここに「サッポロビール埼玉工場」が存在していたからである。1923年に創業したこの工場はサイダーやビール、ジュース類を生産していたものの、工場街から宅地化という川口の地理学的変化に影響され、2003年に閉鎖された。跡地は「リボンシティ」として宅地・商業地開発され、現在では一部に工場の痕跡を残すのみである。そんな工場だが、かつては工場からの出荷などのために専用線が敷設されており、先ほどの航空写真にもその痕跡を見ることができる。なぜSL青葉通りが廃線跡と勘違いされるかというと、この専用線跡としばし混同されるからであり、本来の線路は跡地がわからないほど転用されているからである。

では、本来の廃線跡はどこにあったのか。その跡地も辿ってみることにしよう。

◀ホーム跡を西川口方面に望む。(左)
▶ホーム跡川口方面。柵があるところがスケボー場だ。(右)

専用線のホーム跡である。直線主体であったことを生かし現在では道路に転用されており、かつてのホームのあとは見受けられない。ここから川口駅方向に直線で続いているのが廃線跡となるのだが、ホーム跡を離れるとすぐにスケートボード場に転用され、その先は保線車両置き場として活用されており、さらに川口駅貨物ヤード自体も駐車場に転用されているため、まともな痕跡を見つけることは難しい。当時の写真もネット検索ではあまりヒットせず、鉄道ホビタス「編集長敬白」に入替機であった日車製のスイッチャーの写真、川口市の歴史のような郷土資料やサッポロビールの社内誌に目を細めればワムらしき無蓋車が写り込んでいるばかりだ。

◀川口駅貨物ヤード跡地は駐車場に転用。かつてはつくば万博「サイエンストレイン」の展示にも供された線路跡である。(左)
▶線路柵を見つけた。当時のものだろうか。(右)

現在でも残っている痕跡、というと渡り線があげられる。川口-西川口間にあるこの線路は、川口の貨物ヤードが緩行線(京浜東北線)側にあり、貨物線(東北貨物線)との間に急行線(東北本線)が存在し、貨物列車の平面交差を避けるために高架で建設された。この渡り線はサッポロビール専用だったわけでなく、川口に入る貨物列車は全てこの渡り線を利用し駅へ入っていた。特筆すべき点として、赤羽寄りから貨物ヤードに直接入ることはできず、大宮方面へ向かう列車はいったん折り返しができる蕨まで運転され、蕨で機回しを行い、川口に来ていたという点である。つまり、田端-蕨-川口-大宮という経路であり、逆に田端方面へ向かう貨物は大宮-川口-蕨-田端という経路で運転されていたわけだ。現在でも保線目的の線路として活用されており、工臨のレール卸などがこの線路の西川口方で行われている。

◀渡り線川口方。(左)
▶渡り線西川口方。(右)-

▲2021年2月に行われた大宮操工臨。ちょうどかつての渡り線跡でレールが卸されていた。

そんな川口の廃線跡・専用線事情であるが、以上の通り紹介できない写真が多く、興味を持った方はぜひ自身で書籍を読み漁ってみてほしい。また、工場跡地にはビールの醸造樽であったりマンホールであったりと、かつて工場であった名残を感じることも可能だ。ちょっとした散策にいかがだろうか。川口市民である筆者がお待ちしております。

◀醸造樽が街並みに溶け込む。(左)
▶工場記念マンホール。星印は今も昔もサッポロビールの証だ。(右)

【著者】東洋大学鉄道研究会

東洋大学鉄道研究会は、東洋大学白山キャンパス第一部の公認サークルです。「旅を楽しむこと」ことをメインに活動しており、日帰り旅や年2回の合宿、学園祭での企画展示などを行っています。

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