ブラック・キャッツの最高峰!ゴーゴーズとの全米ツアーから生まれた「HEAT WAVE」  ブラック・キャッツ 結成40周年

ゴーゴーズ全米ツアー、オープニングアクトにブラック・キャッツを抜擢

80年代初頭『ビューティ・アンド・ザ・ビート』『ヴァケーション』と立て続けに2枚のアルバムをヒットさせたガールズバンド・ゴーゴーズ(The Go-Go's)は、アメリカ出身のバンドでありながら、どこかロンドン経由の匂いを放っていた。それは、シンディ・ローパーがソロデビュー以前、ブルー・エンジェルというロカビリーエッセンスをふんだんに散りばめたバンド出身であったことと酷似している。

シンディが、ルーツミュージックである乾いたロカビリーに未来を見出したようにゴーゴーズのサウンドも50年代の初期衝動であるロックンロールを基盤にパンクを通過させたガールズバンドならではの蓮っ葉で(誉め言葉!)華やかなサウンドを作り出していた。

それは、温故知新型のニューウェイヴの完成形だったように思う。そんな彼女たちのサウンドをマッドネスが後押ししてロンドンを拠点に活動できたというのも頷ける。

ゴーゴーズが『ヴァケーション』をリリースし、人気が絶頂であった1982年の夏、アメリカツアーが敢行された。ロサンゼルスからシアトルまで西海岸を北上していく大規模なツアーだ。このツアーのフロントアクトとして大抜擢されたのが、日本のブラック・キャッツだ。今もなおジャパニーズロカビリーのレジェンドとして多くのファンを持つ彼らは、フィフティーズの聖地、原宿クリームソーダの店員で結成されたバンドであり、当時、ビルボードのトップ10を賑わせているアーティストが日本のバンドを指名するのは異例中の異例だった。

ストリートから生まれたカリスマにビックネームからツアーの依頼

当時、アメリカ… 特に西海岸においても、50年代のオーセンティックな音楽に根差したロカビリーブームがあったのだが、これとは色合いの違う、イギリスのロックンロールリバイバルから派生し、ロンドン~原宿経由で確立されたロカビリーが海を渡りアメリカを横断するというエポックメイキングな出来事だったと思う。

ブラック・キャッツは1981年7月21日にビクター・インビテーションからデビューすると瞬く間に日本全土をロカビリー旋風に巻き込んだ。だが、ツアー、レコーディングという多忙な日々を送るようになっても彼らは、クリームソーダの店頭に立ち続け、何事もなかったかのように客と接していた。ストリートが生んだカリスマたちは、僕らと一番近い場所にいた。

そんな彼らに当時のビックネームからのツアーの依頼。それも、フロントアクトとしては異例のギャラが支払われ、ツアー用のグレイハウンド・バスが用意されたという。ツアーの行程には、野外を含みスタジアム級の大きさのヴェニュー(開催地)もあった。

アメリカ人が熱狂、ブラック・キャッツのパフォーマンスとキャラクター

後に雑誌『GALS LIFE』の増刊として主婦の友社より発売された彼らの写真集『BLACK CATS IN U.S.A』(1983年1月25日発売)を見れば当時の熱狂は手に取るように分かる。

黒髪のグリースを光らせた艶のあるウルトラリーゼントにアメリカンコミックのようなペイントを施した赤い裏地のレッド・ネックと呼ばれる革ジャンを着たブラック・キャッツのメンバー6人。彼らはスタンディング・ドラム、グレッチのホワイトファルコンという見栄の美学を具現化した楽器を武器にステージに一列に並び演奏する。

ロカビリーバンドの象徴でもあるウッドベースの上に飛び乗り、サーカスバンドさながらに動き回る彼らにアメリカ人は熱狂した。当時のアメリカ人が日本人にどのようなイメージを抱いていたかは不明だが、派手なフィフティーズファッションに身を包んだ、今まで見たことのないリーゼントの東洋人。その強烈なキャラクターは、ミッキーマウスやマイティマウスがスクリーンから飛び出した実写版のように映ったのだろう。

ゴーゴーズとブラック・キャッツにある共通点

しかし、広大なアメリカ。この熱狂も場所によっては、思わぬ方向に転じることもあった。彼らの楽曲「悲しきテディ・ボーイ」の中でメロディに乗せ “FUCK YOU” 挑発したことからオーディエンスを激昂させ、ステージに様々な物が投げ込まれるなど、暴動寸前になったことをリーダーでヴォーカルの覚田修氏は後に述懐していた。

それでも動じず、オーディエンスと向き合い圧倒的なパフォーマンスを見せつけたブラック・キャッツは、ゴーゴーズのメンバーとも親交を深め、時にはヴォーカルのベリンダ・カーライルが、オープニングのMCを務めたことがあったという。

それは、ゴーゴーズのメンバーがブラック・キャッツと同じく、結成前には、ブティックの店員だったことも関係しているのかもしれない。どちらのバンドも音楽をファッション、生き方と連動させたスタイルに昇華させていたことが共通していると思う。

ネオロカビリーの最高峰アルバム「HEAT WAVE」

彼らは帰国後、すぐにサードアルバムの制作に取り掛かる。そして、1982年11月5日、このツアーで得たインスピレーションを真空パックし、ネオロカビリーの最高峰と名高いサードアルバム『HEAT WAVE』をリリース。

このサードアルバムは研ぎ澄まされた演奏力と、アコースティック主体の楽器の音色を時代に即しどのように響かせるのかといった試行錯誤の末、最上級の形としてアウトプットできた作品である。さらにロカビリー特有の荒っぽいリズムと渇いたギターのカッティングなど、1950年代に生まれたレベル・ミュージックの細部へのこだわりも怠ることなく確固たるオリジナリティを確立させた。

このアルバムにも収録され、シングルカットされた「I・愛・哀 – waiting for you-」を初めて聴いた時の衝撃を僕は今も忘れない。突然真夜中のラジオから鳴り響いた究極のネオロカビリーは、レコードの回転数を間違えたままオンエアしたのでは? と思えるほど、衝撃的だった。これがロカビリーの魔力だった。聴いてはいけないものを聴いてしまったという感覚。そこにブラック・キャッツの本質があったと思う。それは、十代でブラック・キャッツを聴いたのならば、一生ロカビリーにとらわれ続けるという魔法のようなものだった。

ゴーゴーズとのアメリカツアーを経て、西海岸の渇いた空気をたっぷり吸いこみ完成された究極のネオロカビリーは、彼らがロカビリーを模索した道筋と、かけがえのないメモリーが凝縮されている。

そして、ひと夏のツアーで、ベリンダ・カーライルと恋に落ちたギターの片桐孝氏が「いとしのベリンダ」という楽曲をこのアルバムの中に遺している。

あなたは1982年の夏、何をしていましたか?

僕は海を渡った日本のロカビリーに恋い焦がれ、アメリカを北上するブラック・キャッツのメンバーに思いを馳せていた。そして、この思いが、今の自分の確固たる価値観の礎になっていることは間違いない。

カタリベ: 本田隆

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