土橋正幸が打ち立てたもうひとつの偉大なプロ野球記録

生粋の江戸っ子だった土橋正幸(東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】長靴登板伝説のテスト生出身の土橋正幸は1958年5月31日、駒沢球場での東映西鉄6回戦であれよあれよ…という間に連続9奪三振を含む奪三振16をやってのけた。

江戸っ子なので「ヒ」が言えない。「シでーピッチングだった!」。家からの知らせで実家、浅草の鮮魚店「魚秀」に捕手安藤順三、投手末松英二同伴で赴き、お祝いに来てくれた近所の人々に挨拶。銀座に行ったが賑やかすぎる。渋谷道玄坂の百軒店でやっと落ち着いた。

球団からお祝いをもらったのを思い出した。祝儀袋は大きく立派だった。「3万円は堅いぞ。この店の勘定はこれで大丈夫だ!」。開けてみて笑いころげた。金2000円。呑み始めた。

「新聞が来たら合宿に帰ろうぜ」。出来上がってご機嫌になっていると、6月1日の陽が昇り始めた。

東映西鉄のダブルヘッダーはあっという間に「満員札止め」。代表石原春夫は興行の妙に泪した。勢いにのった東映は第1試合の7回戦を4対1。勝ち投手はビル・西田(カリフォルニア大)。第2試合の8回戦は5対3。勝ち投手は布施勝己(川内高校)だったが、なんと徹夜で呑んだ土橋が途中登板した。顔見世である。ファンは大よろこびであった。

試合が終わると、角の煮込み屋も満席であった。東映は西鉄に3連勝。土橋は一躍、エースの座にのぼった。

この年土橋は21勝16敗、翌59年27勝、61年30勝。それでも「無冠の帝王」だったが、マウンドからパッパッ! と投げ込むピッチングは、江戸前で気持ちがよかった。

それでいてコントロールは抜群である。投球回数2000回以上のピッチャーで9イニング平均の与四球率1位は土橋で1・21。2位は68年東映に入団し、土橋の背番号21を受け継いだ高橋直樹の1・48。3位が57年明治高校から国鉄スワローズに入団した村田元一で1・49。村田はプロ野球第1年に一軍で1試合しか投げていなかったので、2年目の58年は新人王選考対象有資格者だったが、この年15勝を挙げたのに新人王になれなかった。国鉄の監督宇野光雄が「ゲンが投げると女の子がキャーと騒ぐ。騒ぐというのはフォームがキレイだということなんだ」。村田は四谷三丁目の鮨屋で笑っていた。「相手が悪いや」。セ・リーグの新人王は長嶋茂雄だった。

土橋は62年の阪神との激戦の日本シリーズ第5戦、延長11回6対4で勝ち投手。日本一を決める勝負の第7戦、延長12回2対1。シリーズ最高殊勲選手に輝いた。

そのオフ、土橋は忙しかった。アール・ケーラインが4番のデトロイト・タイガースとの日米野球、売り興行の韓国遠征、11月11日、東銀座の東急ホテルでの優勝祝賀会、思い出多い合宿所「無私寮」から引っ越しの準備。結婚するのだ。27歳、新居は浅草。鯛やひらめを仲間に配った。お披露目である。

2013年8月24日、77歳で逝った。現役12年、登板455試合、162勝135敗。奪三振1562。日拓、ヤクルト、日本ハム監督。同じ浅草っ子、荒川博が「さびしいなあー。浅草の灯が消えたよ。とどけてくれたあんこうが、おいしかったなあー」

=敬称略=

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