ジョージ・ハリスンによる名曲誕生物語:ザ・ビートルズ「Here Comes The Sun」

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ジョージ・ハリスンは1963年以来、ザ・ビートルズのアルバムの曲作りに貢献していたが、長い間レノンとマッカートニーの陰に隠れていた。しかし彼による楽曲は、1969年頃には高いレベルに達し、『Abbey Road』に収録された「Something」と「Here Comes The Sun」の2曲は、アルバム中で抜きん出ている。1969年、作曲についてジョージはこう語っている。

「僕はレノンでもなければ、マッカートニーでもなかった。僕は僕だった。そして僕が曲を書くようになった唯一の理由は、“ああ、彼等に曲が書けるなら、僕にだって曲が書けるだろう”って思ったからさ」

しかしジョンとポールが次々と曲を書いていたことを考えると、ジョージがビートルズのレコード中に自分の曲の場所を確保するのは、決して容易ではなかったに違いない。

<動画:The Beatles – Here Comes The Sun (2019 Mix)> 

溜まっていた曲

1968年10月に『The Beatles (White Album)』が最後の仕上げに入っていた時、ジョージはジャッキー・ロマックスのアルバム『Is This What You Want?』のプロデュースの続きを行なう為に、ロサンゼルスへ向かっていた。一連のセッションでジョージは、アメリカの粒よりのセッション・ミュージシャン達から成る集団を率いながら、非常に才能溢れた人々を先導する機会を楽しんだようだ。

セッション終了後、ジョージはニューヨーク州北部のウッドストックへ行き、ビートルズの一員として仕事を再開させる為にイギリスへ戻る前に、ボブ・ディランと感謝祭を過ごし、ザ・バンドと遊び歩いた。

ザ・ビートルズが1969年1月2日にトゥイッケナム・フィルム・スタジオ【訳注:現・トゥイッケナム・スタジオ】で再び顔を合わせた頃、ジョージは「All Things Must Pass」と「Isn’t It A Pity」など手持ちの曲が溜まっていた(後者は1966年の『Revolver』セッション時のもの)。トゥイッケナム初日の朝、ジョンとジョージは手持ちの最新曲をプレイし合った。

しかしジョージがジョンのナンバー「Don’t Let Me Down」で彼をサポートすべく熱心に参戦した一方、ジョージが自らの曲「Let It Down」でジョンを引き込もうとしたところ、ジョンはそのコード構成に苦労し、代わりにチャック・ベリーの古いメロディーをプレイしてみせた。このテーマは「Get Back」セッションを通して繰り返された。

ジョージのフラストレーション

自分の新作にバンドメンバーを引き込めずにいた最年少のジョージは、フラストレーションを溜めていった。ある時ジョージは、溜まった曲を全て使い、ソロ・レコードを作ろうと思っているとジョンに伝えたところ、ジョンはこの思い切った冒険を強く勧めた。

翌週の金曜日の1月10日、我慢の限界に達したジョージはバンドの脱退を宣言。アメリカで有意義な経験をしたジョージは、トゥイッケナム・セッションがあまりにも行き過ぎていると感じており、後に『Anthology』でこう振り返っている。

「僕は1968年の最後の数カ月間、ジャッキー・ロマックスのアルバムをプロデュースし、ウッドストックでボブ・ディランとザ・バンドとぶらぶらし、最高の時間を過ごした。僕にとって、ザ・ビートルズとトゥイッケナムへ戻って不満に満ちた冬を過ごすのは、不健康で不幸なことだった。それでも僕は、とても楽観的に考えていたのを覚えている。まあ新年だし、僕達は新しいアプローチでアルバムに取り組んでいるわけだしと僕は思っていた。最初の数日間は大丈夫だったと思うけど、前回スタジオ入りした時とまるで同じ状況で、再び辛い日々になることが間もなくはっきりと分かったんだ」

1月21日にセッションがアップル・スタジオに移った時、ジョージは再びバンドに戻ったが、その後グループがスタジオ・ビル屋上で開催したライヴ・ショウ(伝説の“ルーフトップ・コンサート”)で、自分の曲を入れるよう強く求めるようなことはもうしなかった。

「Here Comes The Sun」の誕生

4月、ジョージはアップルのミーティングを欠席し、代わりに20マイル南のサリー州イゥハーストにある友人エリック・クラプトンの家に向かうことにした。「Here Comes The Sun」の種が蒔かれたのは、クラプトンと庭で寛いでいたその時だった。ジョージは『ジョージ・ハリスン自伝: I・ME・MINE』の中でこう振り返っている。

「アップルが組織のようになっていき、自分達はビジネスマンのような感じで出向き、“あれにサインしろ”とか“これにサインしろ”と言われるようになっていた頃に、“Here Comes The Sun”を書いた。とにかく、イギリスの冬は永遠と続くような感じなんで、春が巡って来る頃には待ってましたという気持ちになる。だからある日、僕はアップルに行くのを止める決意をし、エレック・クラプトンの家に行ったんだ。あのマヌケな会計士達に会わずに済むと思うと最高の気分だった。それでエリックのアコースティック・ギター片手に彼の庭を歩き廻りながら、“Here Comes The Sun”を書いた」

ジョージはサルディニアで休暇中に曲を完成させ、アビイ・ロードで曲に取り掛かり始めた7月7日(リンゴの29回目の誕生日)の、僅か2週間前に帰国した。

「Here Comes The Sun」は、ジョージがバンドに提示した最後の曲だったが、ジョンはスコットランドで自動車事故に遭い入院していた為、このレコーディングには参加しなかった。曲は幾つかのものから影響を受けていた。ジョージはこう語っている。

「ちょっと“If I Needed Someone”に似ていた。ほら、全体に流れる基本のリフが、バーズの“Bells Of Rhymney”っぽいだろう。とにかく僕はそう解釈している。かなりの年代物だね」

より古い影響を感じていたジョンは、1969年にこうコメントしている。

「僕はちょっとバディ・ホリーを思い出した。この曲は彼の進化そのものだ。彼は色々なタイプの曲を書いていて、いったんドアが開くと、水門が開くんだ」

ジョージのインド音楽に対する愛もまた影響を与え、それは特に各コーラスの最後に登場するインストゥルメンタル・パッセージの複雑な拍子に著明だ。リンゴはマーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の中でこう振り返っている。

「彼が、“なあ、自分で作った曲の中に、7拍子半みたいなのがあるんだ”と言ってきた。それで僕は“おお、それで?”と思った。もう、アラビア語で話し掛けられているような感じだった。言っている意味、分かるだろう? 僕はそれを自分の身体でやる方法を、それも毎回拍子通りに上手くやれる方法を見出さなければならなかった。インド音楽にありがちな難しさだね」

最後の仕上げ

ジョージが7フレットにカポを取り付けたアコースティック・ギター、ポールがベース、そしてリンゴがドラムスをプレイした、7月7日のセッションの13回目テイク(またはゲン担ぎで12.5テイク目と公表されている【訳注:不吉な数字“13”を避けるべく…】)が最終的に採用された。

これにジョージのリード・ヴォーカル及びジョージとポールのバッキング・ヴォーカルと共に、リンゴのドラムのフィル・インやジョージのギター・パートや、複雑な手拍子のリズムが数日間で加えられ、計6週間ほど掛け、幾つかのオーバーダブが施された。

また9人編成ストリング・セクションで再びレコーディングされる前にハーモニウムが足された。その一方で8人の木管楽器奏者による演奏は、ジョージがスタジオに持ち込んだ扱い難い新しい楽器の為に大幅に削除された。その楽器、ロバート・モーグのシンセサイザーは、1967年のモントレー国際ポップ音楽祭で披露されて以来、ポップ界に通じた人々の間で人気が高まっており、1968年、LAでジャッキー・ロマックスとのレコーディング時にこの楽器と出会ったジョージは、その後一台オーダーしていた。ジョージはこう語る。

「モーグ氏がちょうど発明したばかりで、僕はどうしても一台作って貰いたいと思った。何百ものジャック・プラグとふたつのキーボードがある、とてつもないものだった。しかし手に入れることと、上手く操作することはまるで別の話だった。取扱説明書などなかったし、たとえあったとしても、数千ページになっていただろう。モーグ氏だって、あれで音楽を奏でる方法を知らなかったんじゃないかな。とにかく技術的に大変だった。例えば“Here Comes The Sun”を聴くと分かるが、良いものをもたらしてはくれるが、全ては凄く未熟な感じのサウンドだ」

そうして残るは曲のミキシングのみだったが、この段階で最後の仕上げとして、曲のピッチを1/4ほど上げる為に、テープを僅かに早くプレイした。これはレコードに合わせてプレイしようと試みたことのある人なら、きっと気づいているだろう。

Written By Paul McGuinness

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