「村上春樹を読む」(50)「物語」をめぐって 『職業としての小説家』

 

 『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)

 プロ野球のヤクルト・スワローズが14年ぶりにセ・リーグを制覇、それに続いて、クライマックスシリーズ・ファイナルステージで読売ジャイアンツを下して、日本シリーズへ出ることを決めました。ヤクルト・ファンの村上春樹は、さぞ喜んでいることでしょう。

 初版の大半を、大手書店の紀伊国屋書店が出版社の「スイッチ・パブリッシング」から直接購入、他の書店にも配本するという異例の流通で話題となっている長編エッセイ『職業としての小説家』(2015年)にも、その14年前のことが出てきます。

 それは村上春樹が『海辺のカフカ』を書いていたころだそうです。ハワイのカウアイ島のノースショアで、4月初めに書き始めて、10月に書き終えたとのこと。その時はヤクルトの優勝と長編小説の第1稿の完成が重なり、ほくほくと喜んでいたとのことです。

 『職業としての小説家』で、このことが書かれている直前には、小説を書き出したら、調子がよくても悪くても、ずっと机に向かって、1日10枚の原稿をきっちりと書くという村上春樹流の長編の書き方が記されています。それによると「朝早く起きてコーヒーを温め、四時間か五時間、机に向かいます。一日十枚原稿を書けば、一か月で三百枚書けます。単純計算すれば、半年で千八百枚が書けることになります。具体的な例を挙げれば、『海辺のカフカ』の第一稿が千八百枚」だったそうです。

 そして、さらにアイザック・ディネーセンの「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」という言葉が紹介されています。ディネーセンは村上春樹が好きな作家の一人なのでしょう。『1Q84』のBOOK3(2010年)には、ディネーセンの『アフリカの日々』を大村という看護婦に読んであげる場面が出てきますね。そのディネーセンも毎日、休まず書き続ける小説家らしく、そのディネーセンの「希望もなく、絶望もなく」というのは実に言い得て妙です、と村上春樹は語っています。

 このようにして、休まず、一定のリズムで、書き上げた第1稿を、さらに何度も何度も書き直して完成稿にしていく過程が『職業としての小説家』の中では、実に詳しく書かれています。具体的にどうやって完成原稿にまで至るのかは、ぜひ同書を読んでください。

 また、村上春樹ファンには有名なエピソードですが、1978年4月に神宮球場へセ・リーグの開幕戦を見に行って、1回の裏にヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが二塁打を放ち、その瞬間、何の脈略も、何の根拠もなく「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思ったという、村上春樹にとって啓示のような体験も記されています。

 そうやって、村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』を書き出して(当初の題名は異なります)半年かけて、その第1稿を書き上げたときには、野球シーズンも終わりかけていました。そして、この年、ヤクルト・スワローズは大方の予想を裏切ってリーグ優勝をし、日本シリーズでも阪急ブレーブスを破って、日本一になりました。

 今回の「村上春樹を読む」を書いている時点では、ヤクルト・スワローズの日本シリーズの結果は不明ですが、『風の歌を聴け』を書いていた1978年の優勝といい、『海辺のカフカ』を書いていた2001年の優勝といい、ヤクルトの優勝と村上春樹作品とはいい関係を持っています。ヤクルト・スワローズは、昨年、一昨年と連続最下位で、今年も“大方の予想を裏切ってリーグ優勝”をしたので、今年のヤクルト・スワローズの成績が、村上春樹作品へ、よきことを運ぶことを祈りたいと思います。

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 さてさて、今回のコラム「村上春樹を読む」では、この『職業としての小説家』を読んで、私が受け取った部分について記してみたいと思います。

 この長編エッセイで、1番、私に届いたものは、やはり「物語」というものをめぐっての村上春樹の語りでした。

 「小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを『物語』というかたちに置き換えて、それを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の『落差』を通して、その落差のダイナミズムを梃子(てこ)のように利用して、何かを語ろうとするわけです」と同書の第1章「小説家は寛容な人種なのか」にあり、そして、終盤の第10章「誰のために書くのか?」には、次のように語られているのです。

 「小説というものは、物語というものは、男女間や世代間の対立や、その他様々なステレオタイプな対立を宥(なだ)め、その切っ先を緩和する機能を有しているものだと、僕は常々考えているからです。それは言うまでもなく、素晴らしい機能です。自分の書く小説がこの世界の中で、たとえ少しでもいいからそういうポジティブな役割を担ってくれることを、僕はひそかに願っているのです」

 ここで「小説というものは、物語というものは」と村上春樹が書いていることに注目したいと思います。つまり村上春樹にとっては「小説」=「物語」なのです。

 この『職業としての小説家』の最後には、2013年に京都で行った河合隼雄さんについての講演が、収録されていますが、その中に「『物語』という言葉は近年よく口にされるようになりました」と村上春樹が述べるところがあります。

 村上春樹が書き始めたころ、「物語」という言葉は、とても冷遇されていました。「物語」なんかをまだ信じているのか、というような言説もしばしばありました。

 紹介した第10章「誰のために書くのか?」の「物語」の「ポジティブな役割」について述べた後に、続いて「僕は批評的には、長年にわたってけっこう厳しい立場に置かれ続けてきました」と書かれていて、この孤独な闘いぶりは『職業としての小説家』の全体を貫く、トーンでもあります。そしてこの「物語」というものが不当に冷遇されていた時代から、「物語」に一貫してこだわり、その「物語」というものが持つ力を、多くの読者に再認識させたのが、村上春樹の小説であると言っても過言ではないでしょう。

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 「物語」へのこだわりという観点から、この『職業としての小説家』という本を読んでいって、私にとって一番面白かったのは、村上春樹のマラソンやトライアスロンなど、フィジカルなトレーニングと「物語」との関係の部分です。

 それについて、以下、書いてみたいと思います。

 「物語」とは自らの意識下、自分の魂の中に下りていくことだと、村上春樹はさまざまな形で述べていますが、この『職業としての小説家』の中では次のように語っています。

 「小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません」

 これに続けて、さらに村上春樹は「大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです」と書いています。

 これは、現在問題となっている横浜市の大型マンションで、基礎工事の際に、建物を支える杙(くい)を強固な地盤まで到達してないままにして手抜き工事をした結果、建物が傾いてしまったマンションのことと重なってもきますね。

 まさに村上春樹も言うように「大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならない」のです。そして「密な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります」とも述べています。

 さらに「作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを―つまり小説にとって必要な養分です―見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つものに転換していきます」とあるのですが、「その暗闇の中には、ときには危険なものごとが満ちて」いることを村上春樹は語っています。

 「そこで生息するものは往々にして、様々な形象をとって人を惑わせようとします。また道標もなく地図もありません。迷路のようになっている箇所もあります。地下の洞窟と同じです。油断していると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。その闇の中では集合的無意識と個人的無意識とが入り交じっています。太古と現代が入り交じっています。僕らはそれを腑分けすることなく持ち帰るわけですが、ある場合にはそのパッケージは危険な結果を生みかねません」

 つまり小説家というものは、心の闇の深く深くに下降していかなくてはならない、それが大きな物語であればあるほど、より深いところまで降りていかなくてはないのです。でも、その深い心の闇の世界は、危険に満ちていて、へたをすると地上にもどれなくなってしまうほどの危険性があると村上春樹は言うのです。

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 では小説家は、その危険に満ちた心の闇の底から、どうやって「意識の上部領域」に無事に戻ってくることができるのでしょうか。

 そして、もしそこに、確実な脱出ルートがあったり、正しい脱出方法があったりするのでしたら、それは危険でもなんでもなくなってしまいます。でも、小説家は、その危険に満ちた心の闇の領域に降りていって、無事、開かれた世界、意識の上部領域に戻ってこなくてはならないのです。ここに、簡単には説明できない、相反する問題が横たわっていることが、みなさんにもわかっていただけるかと思います。

 その危険に満ちた心の闇の領域に降りて、無事戻って来られる力は、どんなことと結びつけられて、『職業としての小説家』の中で語られているのか。そのことを、村上春樹はどう考えているのか、こんなことに興味を抱いて、この『職業としての小説家』という本を読んでいました。

 そんな、私が抱いた問題に対して、村上春樹は、それはフィジカルな強さ、つまり走ることとつながっていると述べているのです。

 「そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。どの程度必要なのか、数値では示せませんが、少なくとも強くないよりは、強い方がずっといいはずです。そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって『必要なだけ』の強さのことです」と村上春樹は述べています。

 さらに「僕は小説を日々書き続けることを通じて、そのことを少しずつ実感し、理解してきました。心はできるだけ強靱でなくてはならないし、長い期間にわたってその心の強靱さを維持するためには、その容れ物である体力を増強し、管理維持することが不可欠になります」と語っています。

 もちろん、その心の強靱さは、実生活のレベルにおける実際的な強さのことではなく、「小説家」としての強さですが、自分の意識下の重く分厚い暗闇に入って、その「物語」を書くには、当然、継続的な作業を可能にするだけの持続力が必要になります。

 その持続力を身につけるためにはどうすればいいのか……について、村上春樹は「それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです――基礎体力を身につけること、逞しいしぶといフィジカルな力を獲得すること、自分の身体を味方につけること」だと述べているのです。

 世間の多くの人びとは、作家は机の前に座って、字を書くぐらいだから、体力なんて関係ないだろう。パソコンのキーボードを叩くだけの力があれば十分ではないかと考えているようですが、それは違うと村上春樹は言うのです。

 「実際に自分でやってみれば、おそらくおわかりになると思うのですが、毎日五時間か六時間、机の上のコンピュータ・スクリーンの前に(もちろん蜜柑箱の上の四百字詰原稿用紙の前だって、ちっともかまわないわけですが)一人きりで、座って、意識を集中し、物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要です」

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 面白いですね。でも、「基礎体力を身につけること、逞しいしぶといフィジカルな力を獲得すること、自分の身体を味方につけること」をしておけば、必ず、自分の心の闇の危険な世界を無事にくぐり抜けて、安全に「意識の上部領域」に戻ってくることができるとしたら、その心の闇の世界は、危険でもなんでもなくなってしまいます。つまりこの地点で、村上春樹は論理的な方法を語っているのではないのです。

 自分は「逞しいしぶといフィジカルな力を獲得すること」で、なんとか、その危険な闇の世界を通りぬけて、開かれた世界に戻ってきたということを語っているのでしょう。それ以外には、自分のやってきたことで、その危険を通り抜けることができる力は考えられない。でもそのようにしてきたら危険な闇の世界を通りぬけて、開かれた世界に戻ってくることができたということを述べているのです。

 そんな自分の経験から、心の暗闇の中で、危険なものをよく見て、その危険性と十分に闘って、なお「意識の上部領域」に無事に戻ってこられるには「逞しいしぶといフィジカルな力を獲得すること」が大切で、自分はずっとそのようにやってきたし、そのことを信じているので、自分はこれからもそのようにやっていくし、もしよかったら、みなさんも、自分なりのスタイルで「基礎体力を身につけること、逞しいしぶといフィジカルな力を獲得する」ということをやられたらどうですか……ということを語っているわけです。

 ここに、論理の上からは、ある跳躍があると思います。でも本人の信念、経験からしたらずっと地続きで、ずっとつながっている確信があると思います。つまりここで村上春樹は論理的には語り得ないことを語っているのです。このことをとても面白いと思いました。

 論理的な思考が好きな人には、ここに、ひとつの切断と飛躍を見るでしょう。でも人間の思いや心の働きを受け取る人には、ここに村上春樹の一貫した連続性が感じられるのでしょう。

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 村上春樹に『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007年)という長編エッセイがありますが、その本の中に2005年8月14日、米国ハワイ州カウアイ島で書いたと思われる「人はどのようにして走る小説家になるか」という章があります。

 そこでは『羊をめぐる冒険』について「この作品が小説家としての実質的な出発点だったと僕自身は考えている」と村上春樹は書いています。「店を経営しながら『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』みたいな感覚的な作品を書き続けていたら、早晩行き詰まって、何も書けなくなっていたかもしれない」と記しています。

 そうやって『羊をめぐる冒険』以降、村上春樹は専業小説家となっていくのですが、「専業小説家になったばかりの僕がまず直面した深刻な問題は、体調の維持だった」とあって、「本格的に日々走るようになったのは、『羊をめぐる冒険』を書き上げたあと、少ししてからだと思う。専業小説家としてやっていこうと心を決めたのと前後しているかもしれない」とも加えています。

 『羊をめぐる冒険』について「持てる力をありったけ注ぎ込んで書いた。持っていない力まで総動員したような気さえする。『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』よりずっと長く、外郭も大きく、物語性の強い作品だ」と、「物語性」について書いていることも注目されます。つまり村上春樹は『羊をめぐる冒険』で、自分の「物語作家」としての才能を発見したわけです。その後はずっと「物語」を長編では書いてきたのです。だから『羊をめぐる冒険』は「この作品が小説家としての実質的な出発点」なのです。

 そして『走ることについて語るときに僕の語ること』で、これらのことを記す章のタイトルが「人はどのようにして走る小説家になるか」と名づけられているのですから、「走ること」と「専業小説家になる」ことは、密接に関係していることはあきらかです。この両者の関係について、さらに詳しく、丁寧に、自分の内なる思いを語っているのが、『職業としての小説家』だと、私は思います。

 村上龍の長編小説『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで「これはすごい」と思い 、中上健次のいくつかの長編小説を読んで、「深く感心」したが、それらはその作家にしか書けないもので、「僕にしか書けないものを書いていかなくては」ならないと思って、『羊をめぐる冒険』に取りかかったとのことです。

 「今ある文体をできるだけ重くすることなく、その『気持ちよさ』を損なうことなく(言い換えればいわゆる『純文学』装置に取り込まれることなく)、小説自体を深く重いものにしていきたい―それが僕の基本的な構想でした」と村上春樹は述べています。

 さらに「そのためには物語という枠組みを積極的に導入しなくてはなりません。僕の場合、それはとてもはっきりしていました。そして物語を中心に据えれば、どうしても長丁場の仕事になってきます。今までのように『本職』の余暇に片手間でできることではありません。ですからこの『羊をめぐる冒険』を書き始める前に、僕はそれまで経営していた店を売却し、いわゆる専業作家になりました」と語っています。

 そうやって、後戻りできないように、橋を焼いて、『羊をめぐる冒険』を書き出し、それと同時に村上春樹は、走りだしたのです。

 つまり、村上春樹にとって、走ることは「物語」を書くことなのです。

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 では、村上春樹は、なぜそれほどまでに「物語」にこだわっているのでしょうか。

 いま、我々が生きる世界は、さまざまな矛盾が交錯して、一つの論理や原理で簡単に割り切れるような世界ではありません。いま我々が生きる世界には、他者と自分をつなぐものが、何か、強く求められているのですが、それが簡単には見つけられないという状態だと言ってもいいかと思います。

 そういう世界の状況を前にして、村上春樹の自分と他者との結びつき方には、独特のものがあります。村上春樹の場合、他者と結びつく場合、すぐに、横へ横へと手を伸ばしていくという方法をとりません。むしろ逆に自分の心の闇の奥深く、降りていくのです。

 それは、心の底まで降りていくと、人々がみなつながっている世界があるからです。

 村上春樹は、自分が物語を書いている時に頭に描く「架空の読者」と、自分との関係について、こんなふうに語っています。

 「僕とその人が繋がっているという事実です。どこでどんな具合に繋がっているのか、細かいことまではわかりません。でもずっと下の方の、暗いところで僕の根っことその人の根っこが繋がっているという感触があります。それはあまりに深くて暗いところなので、ちょっとそこまで様子を見に行くということもできません。でも『物語』というシステムを通して、僕らはそれが繋がっていると感じ取ることができます」

 そのように言うのです。

 我々は日常生活の中では、見知らぬ者同士として、ただすれ違うだけです。何も知らずに別れていくだけです。おそらく二度と会うこともないでしょう。

 「でも実際には我々は地中で、日常生活という硬い表層を突き抜けたところで、『小説的に』繋がっています。僕らは共通の物語を心の深いところに持っています。僕が想定するのは、たぶんそういう読者です。僕はそういう読者に少しでも楽しんでもらいたい、何かを感じてもらいたいと希望しながら、日々小説を書いています」

 村上春樹は、そうやって、他者と繋がるために、自分の心の奥深く降りていって、物語を書いているのです。そして、その深く暗いところをよく見て、それを書くためには、逞しいしぶといフィジカルな力が必要で、だから毎日、走っているのです。

 村上春樹の小説は、現在、壊れ、混乱し、流動する、この世界の再構築、世界の再生のために書かれていると私は考えていますが、それは地中の、日常生活を突き抜けた心の世界での共通の物語を通して、可能になると村上春樹自身は考えているのでしょう。

 きっと、村上春樹は、その「物語」の力を信じているのです。

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 この『職業としての小説家』は、ちょっと変わった構成となっています。前半部の第1回から第6回までは、柴田元幸さんが責任編集の雑誌「MONKEY」に発表されました。第7回から第11回までは、それに続く書き下ろしです。この構成は別に変わったものではありません。私が変わっているというのは、最後の第12回に2013年に京都で行った河合隼雄さんについて講演(雑誌「考える人」二〇一三年夏号に掲載)が、収録されていることです。

 その講演は河合隼雄さんとの出会いから、河合隼雄さんの死による突然の別れまでを語っているものですが、でも決して荘重な語り口で話された講演ではありません。そこには河合隼雄さんの駄洒落まで紹介されています。

小渕総理の時代、河合隼雄さんが「21世紀日本の構想」懇談会の座長をしていた時に、閣議に1度だけ出たことがあって、閣僚みんな揃って待っている時に小渕総理が遅刻してきたのだそうです。小渕総理は丁寧に謝りながら入ってきました。

 それを紹介しながら河合隼雄さんは村上春樹に「けど、総理大臣いうものは偉いもんですなあ。僕は感心したんですが、英語で謝りながら入ってきはるんですわ。アイム・ソーリー、アイム・ソーリーいうて」と話したようです。

 こういう、村上春樹自身が「実にくだらない」「悪い意味でのおやじギャグ」的という河合隼雄さんの駄洒落などが紹介される講演が、この『職業としての小説家』の本の最後になぜ置かれているのでしょうか。

 『職業としての小説家』のあとがきには、この本のことを「僕としては、自分が小説家としてどのような道を、どのような思いをもってこれまで歩んできたかを、できるだけ具体的に、実際的に書き留めておきたいと思っただけだ。とはいえもちろん、小説を書き続けるということは、とりもなおさず自己を表現し続けることであるのだから、書くという作業について語り出せば、どうしても自己というものについて語らないわけにはいかない」と書いてあります。

 そんな本の最終回の章に、河合隼雄さんのおやじギャグのような駄洒落などが紹介されているのです。それについて、ちょっとだけ考えて、今回のコラム「村上春樹を読む」を終わりたいと思います。

 河合隼雄さんと村上春樹との関係は、何を話したかもほとんど覚えていないような、ナンセンスな駄洒落を述べるだけのような会話だったにもかかわらず、「そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという『物理的な実感』だったという気がする」と村上春樹は述べています。

 そして、2人が共有していたものは何かというと、それは「物語」というものだと村上春樹は話しているのです。

 「僕がそういう共感を抱くことができた相手は、それまで河合先生以外には一人もいなかったし、実を言えば今でも一人もいません」と述べて、先に紹介した「『物語』という言葉は近年よく口にされるようになりました」と村上春樹は「物語」について話していくのです。続けて「しかし僕が『物語』という言葉を口にするとき、それをそのまま正確なかたちで―僕が考えるままのかたちで―物理的に総合的に受け止めてくれた人は河合先生以外にはいなかった」と記しているのです。

 この言葉が『職業としての小説家』という自伝的なエッセイの最後に河合隼雄さんについての講演を収録した理由でしょう。その最終章のタイトルは「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」と名づけられています。

 やはり『職業としての小説家』は、村上春樹が「物語作家」としての自分を語った本として、読むのがいいのではないかと、私は考えています。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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