「村上春樹を読む」(34) 死と魂の世界「猫の町」 T・S・エリオット番外編2

天吾がふかえりに『猫の町』の話をする『1Q84』BOOK2前編(新潮文庫).jpg

 村上春樹の『1Q84』BOOK2(2009年)の中盤に、美少女作家・ふかえりに天吾が『猫の町』の話をしてあげる場面があります。それは千葉県の千倉にある海沿いの療養所に入院している父親を見舞い行くために乗った特急列車の中で読んだ「猫が支配している町の話」を書いた短編小説です。

 東京・高円寺の天吾のアパートに隠れている、ふかえりが「ホンをよむかおはなしをしてくれる」と天吾に言い、天吾が「本は手元にないけど、『猫の町』の話でよければ、話してあげられる」と答えます。

 なぜ天吾の手元に本がないかというと、療養所の父親の部屋に本を忘れてきてしまったからです。前回も紹介しましたが、天吾は特急列車の中で2度、この『猫の町』を読み、父親の前で1度朗読し、今度はふかえりの前で、そらんじていた物語を語るのです。特急列車の中で読んだことから、数えていくと、ふかえりに語るのは、4回目ということになり、村上春樹の「4」(死)という数へのこだわりがよくあらわれた場面ですが、もう1つ、とても村上春樹らしいなと思うことがあります。

 村上春樹という作家は、デビュー以来、文字で書かれた文学よりは、文字というものを離れた“語り”によって表現される物語というものに関心を抱いている作家です。

 例えば『1Q84』でも、ふかえりは『空気さなぎ』というベストセラー小説の作者ですが、ディスレクシア(読字障害)を持っていて、本は文字で読まずに、声を通して理解してきた人という、かなり変わった設定になっています。ですから『空気さなぎ』も「ふかえりはただ物語を語り、別な女の子がそれを文章にした。成立過程としては『古事記』とか『平家物語』といった口承文学と同じだ」とも村上春樹は書いているのです。

 そこで、計4回の『猫の町』の“読み”の場を考えてみると、最初の2回は天吾による文字を通しての黙読です。次に、死の床にある父親の前で読んであげる場面は朗読です。そしてふかえりの対しては「ホンをよむ」のではなく「おはなしをしてくれる」ほうを村上春樹は選択しています。つまり天吾の暗唱による語りであり、これは天吾による口承文学と言っていいものだと思います。

 このように『猫の町』に関する“読み”の在り方は黙読から朗読、さらに暗記による語り(口承文学)というように、村上春樹文学の中で価値レベルが上がってきているのです。

 さて、その『猫の町』について、天吾が語ると、聴き終わったふかえりが「あなたはネコのまちにいった」と天吾を咎めるように言います。「そしてデンシャにのってもどってきた」「そのオハライはした」と尋ねます。「お祓い?」と天吾が思い「いや、まだしていないと思う」と答えると、ふかえりが「それをしなくてはいけない」「ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはない」と言うのです。

 そして、天をまっぷたつに裂くように雷鳴が激しく轟くと、ふかえりは「こちらに来てわたしをだいて」「わたしたちふたりでいっしょにネコのまちにいかなくてはならない」と言うのです。

 この「猫の町」は『1Q84』の中で、かなり重層的に書かれていて、1つはもちろん天吾が読んだ小説『猫の町』ですが、もう1つは、父親が療養している千葉県千倉の町が「猫の町」と呼ばれています。入院している父親をしばらく看るために天吾は千倉に出かけ、比較的安い旅館を探して滞在し、父親の療養所に通うのですが、「そのようにして海辺の『猫の町』での天吾の日々が始まった」とも書かれているのです。

 そんな具合に小説『猫の町』と父親が療養する「猫の町」は重なりあっているのですが、一方で、またその2つは別な方向を示すものとして『1Q84』の中に存在しています。

 例えば、小説『猫の町』の主人公は町に閉じ込められたまま、帰りの列車もなく、元の世界に戻ることができないのですが、『1Q84』の天吾のほうは、千倉の「猫の町」から「デンシャにのってもどってきた」のです。どうして天吾は「猫の町」から元の世界に戻ってくることができたのでしょう。その点について考えてみたいと思います。

 まず、この「猫の町」とは何かから考えてみましょう。

 父親の療養所からの帰り、館山からの上りの特急列車に乗った天吾が、小説『猫の町』が入った文庫本の続きを読もうとすると、父親の部屋にその本を置いてきたことに気づきます。天吾はため息をつきますが、「あるいはそれでよかったのかもしれないと思い直した」「『猫の町』は、天吾の手元よりは父親の部屋に置かれるべき物語だった」と村上春樹は記しています。その父親は死の床にある人です。つまり、この「猫の町」を死の世界、死に近い霊魂の世界、魂の世界と考えていいのではないかと思います。

 死の世界ですから、そこに行った者は、お祓いをしなくてはならないのでしょう。でも死の世界に行って再び元の世界に帰ってくること、つまりあの世とこの世の往還は簡単なことではないのです。そこには危険なものがたくさん潜んでいますし、小説『猫の町』の主人公のように、列車が「彼を元の世界に連れ戻すために、その駅に停車することはもう永遠にない」という事態となり、「猫の町」から脱出することができなくなってしまうかもしれないのです。

 「彼は自分が失われてしまっていることを知った。ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった」と小説『猫の町』の最後に書かれています。

 天吾はその『猫の町』を2度読み、「失われるべき場所」という言葉に興味を覚えます。

 そして本を閉じて、天吾が車窓から外に見える臨海工業地帯を眺めると、製油工場の炎、巨大なガスタンク、長距離砲のような格好をしたずんぐりと巨大な煙突、道路を走る大型トラックとタンクローリーの列などが見えます。それは「猫の町」とはかけ離れた情景です。でも「しかしそのような光景にはそれなりの幻想的なものがあった。そこは都市の生活を地下で支える冥界のような場所なのだ」と村上春樹は書いています。

 「猫の町」とは「かけ離れた情景」だが、しかし「それなりの幻想的なものがあった」光景とは、少し微妙な書き方ですが、この臨海工業地帯の場所は『1Q84』の中での「猫の町」という冥界への入口の門ように位置しているのかもしれません。

 なぜなら、天吾が千倉の「猫の町」から帰る列車の中で、小説『猫の町』が入った文庫本を忘れたことに気がつくと、まもなくして車窓にまた臨海工業地帯が見えてきます。それも今度は夜の臨海工業地帯の光景です。そこでは「多くの工場は夜になっても操業を続けていた。煙突の林が夜の闇の中にそびえ、まるで蛇が長い舌を突き出すように赤く火を吐いていた」と村上春樹は書いています。

 小説『猫の町』を読んで「猫の町」千倉に向かう時の「冥界のような場所」。父親に『猫の町』を朗読した後、「猫の町」千倉から出てきた時に見た「蛇が長い舌を突き出すように赤く火を吐いていた」風景。それは、この臨海工業地帯が、死の世界への入口・出口であることを示し、さらにその冥界の危険性を示しているのではないかと思えるのです。

 次に、村上春樹の作品の主人公たちは、なぜこの「猫の町」のような危険な場所に入っていくのでしょうか。そのことを考えなくはなりません。

 それを考える際に、ヒントになるような村上春樹へのインタビューがあるので紹介したいと思います。それは『海辺のカフカ』が刊行された後に、私と文芸評論家の湯川豊さんが聞き手となって行ったロングインタビューです。これが、村上春樹へのインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(2010年)に収録されているので、そこから紹介してみましょう。

 「人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです」と、そのインタビューの中で、村上春樹は自分の小説世界を家にたとえて語っていました。つまり一階はみんなが集まってごはんを食べたり、テレビを見たり、話したりするところ。二階は個室や寝室で、一人になって本を読んだり、音楽を聴いたりするところ。そして地下室には特別ないろんなものが置いてあります。日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、ぼんやりしているところです。

 でも「その地下室の下にはまた別な地下室があるというのが僕の意見なんです」と村上春樹は言います。その地下室は非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいます。でも何かの拍子にフッと中に入ると、そこに暗がりがあるんですというのが村上春樹の意見でした。

 「その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです」と語っていました。

 でも地下二階の地下室の「その暗闇の深さというものは、慣れてくると、ある程度自分でも制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど」と村上春樹は語っていました。つまりこの地下二階の地下室に入っていくには危険性(リスク)があるのですが、その特殊な扉を開けて地下二階の地下室に入り、深い暗闇の中にある自分の過去や魂の世界を見て記述し、またちゃんと現実のほうに復帰してくるのが、作家というものだということを村上春樹は語っているのです。

 村上春樹は自分の小説世界を自己解説しない稀有な作家ですが、このインタビューは自分の小説世界と人間の魂の世界との関係について語った珍しい内容となっていると思います。私が関係したインタビューですが、これほど村上春樹が自分の文学世界について語ったことは珍しいと思っていますので、興味がある人はぜひ読んでください。

 さて、ここで紹介したような村上春樹の考えに従えば、小説『猫の町』の主人公は「あっちに行っちゃったまま」の人であり「現実に復帰できない」人ですね。それとは違って、『1Q84』の天吾は「あっち」の世界である「猫の町」に行って、「でも、そこからまた帰ってくる」人です。つまり『1Q84』では、この「猫の町」が地下二階の地下室となっているわけです。

 その地下二階の地下室「猫の町」とは、どんなところなのでしょうか。次にこのことを考えてみたいと思います。「猫の町」である千倉に滞在中に天吾は小説を書いています。そして、自分が書いている小説について、天吾が次のように考える場面があります。

 「肉体と意識が分離しかけているような特別な感覚があり、どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった。きっと『猫の町』に入り込んだ主人公もそれに似た気分を味わったのだろう。世界の重心がわからないうちによそに移動してしまう。そのようにして主人公は(おそらく)永遠に、町を出る列車に乗ることができなくなる」

 つまり天吾が書いている小説も、地下二階の地下室の闇の中をいく小説なのです。小説を書くという行為は、へたをすると、その世界から戻れなくなるようなリスクがある行為であり、そこまで降りていかないと、ほんとうの小説ではないということが記されているのでしょう。『1Q84』の中の「猫の町」ではこのような「どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった」世界が繰り返し書かれています。

 例えば『1Q84』のBOOK3で、千倉の療養所の安達クミという看護婦と天吾が一夜をともにする場面があります。そこで天吾の小学校の同級生で、この長編のもう1人の主人公・青豆の10歳の少女時代の彼女と会話をするような場面があります。天吾が「君に会いたかった」と青豆に言い、「私もあなたに会いたかった」と少女が答えるのです。

 その時、天吾と安達クミはハシッシを吸った後ですので、「それは安達クミの声にも似ている。現実と想像との境目が見えなくなっている。境目を見極めようとすると、椀が斜めに傾き、脳味噌がとろりと揺れる」と記されています。これも「どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった」場面で、やはり地下二階の地下室での出来事なのでしょう。

 その天吾と一夜を過ごす時の安達クミは、ふかえりにちょっと似ていて、まるで巫女的な予言者のようなことをいくつか話しています。

 前にも少し紹介しましたが、天吾が安達クミに「君は再生した」と言うと、「だって一度死んでしまったから」と安達クミが言っています。さらに安達クミは「死ぬのは苦しい。天吾くんが予想しているよりずっと苦しいんだよ。そしてどこまでも孤独なんだ。こんなに人は孤独になれるのかと感心してしまうくらい孤独なんだ。それは覚えておいた方がいい。でもね天吾くん、結局のところ、いったん死なないことには再生もない」と言います。

 この死と再生をめぐる安達クミと天吾のやりとりについては、T・S・エリオット『荒地』の着想に大きな影響を与えたジェシー・L・ウェストン女史の『祭祀からロマンスへ』に、聖杯伝説とは「死者」をよみがえらせる「再生神話」であることが記されていることと、もしかしたら関連があるのではないかと私は考えていて(妄想ですが)、前々回のこのコラムで紹介しました。興味がありましたら、その部分をお読みください。

 今回、紹介したいのは、天吾と安達クミの会話の、その続きの部分です。

 天吾も死と再生については、「死のないところに再生はない」と確信するのですが、続いて「しかし人は生きながら死に迫ることがある」という声が聞こえてくるのです。

 これは2人の会話のやりとりの間に挟まれた言葉ですので、普通に読めば、これは安達クミの言葉です。でも記述を見れば、誰の発言とも記されておらず、「しかし人は生きながら死に迫ることがある」との言葉は、もしかしたら著者・村上春樹の声なのかもしれません。天吾もその意味を理解できないまま「生きながら死に迫る」と繰り返すのですが、この「生きながら死に迫る」というのが、地下二階の地下室に入っていって、あっち側の世界、死者や自分の魂の世界に行って、そこからまたちゃんと現実に復帰してくる村上春樹の小説世界というものを端的に述べているのではないかと、私は考えているのです。

 そして「生きながら死に迫る」は「猫の町」千倉の療養所での、天吾の体験そのものでもあるのです。この「生きながら死に迫る」こと、それは死の床にある父親と天吾の対話のことでもあると思います。

 天吾は自分は父親の子ではなく、母親が別な男性と関係してできた子どもではないか…という思いをずっと抱いて生きてきたのです。「猫の町」にいる父親に会いにいき、2週間近くも「猫の町」に滞在したのも、そのことを確かめる目的もありました。「そろそろ二週間になる。でも僕がそうしたのは、あなたの見舞いや看病をすることだけが目的ではなかった。自分がどんなところから生まれてきたのか、どんなところに自分の血が繋がっているのか、それを知っておきたいと思ったということもある」と記されています。

 この天吾と父親との対話の場面が重要なのではないかと思うのは、この『1Q84』という大長編を「猫の町」をめぐる視点から読んでいくと、この父親と天吾の対話の場面で、千葉県の千倉の「猫の町」の療養所で死の床にふす父親に、小説『猫の町』を天吾が朗読してあげるというように、「猫の町」が二重になって描かれているからです。

 その天吾の父親は認知症を患っていますが、天吾が朗読する『猫の町』の話を聞いて、その猫が支配している「町は猫がつくった町なのか。それとも昔の人がつくって、そこに猫が住み着いたのか?」と独り言のように言います。

 天吾は「わからないな」と言い、「でもどうやら、ずっと昔に人間がつくったもののようですね。何らかの理由で人間がいなくなり、そこに猫たちが住み着いたのかもしれない」と加えます。

 父親が肯いて、「空白が生まれれば、何かがやってきて埋めなくてはならない。みんなそうしておるわけだから」と言います。「みんなそうしている?」という天吾の声に、「そのとおり」と父親は断言します。

 「あなたはどんな空白を埋めているんですか?」と天吾が問うと、「あんたにはそれがわからない」と父親が言って、「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」という『1Q84』の中でも、かなり有名となった言葉が父親から発せられます。

 この場面の父親は、認知症で、空っぽの父親という感じではとてもないですね。

 実際、天吾も「父親がこんな奇妙な、暗示的なしゃべり方をしたことは一度もない。彼は常に具体的な、実際的な言葉しか口にしなかった。必要なことだけを短くしゃべる、それが会話というものについての、その男の揺るぎない定義だった」と驚きの目で父親の表情を読もうとします。

 そして天吾は「わかりました。とにかくあなたは何かの空白を埋めている」と言い、さらに「じゃあ、あなたが残した空白をかわりに埋めるのは誰なんでしょう」と問います。

 すると父親は「あんただ」と簡潔に言い、そして人差し指を上げて天吾をまっすぐ、力強く指さして、「そんなこときまっているじゃないか。誰かのつくった空白をこの私が埋めてきた。そのかわりに私がつくった空白をあんたが埋めていく。回り持ちのようなものだ」と言うのです。

 私は、この場面、なかなか好きです。

 『1Q84』では、女殺し屋である青豆とカルト集団の「リーダー」という男の対決の場面が話題になりました。青豆がリーダーに筋肉ストレッチをしていると、リーダーが「フレーザーの『金枝篇』を読んだことは?」と聞いてくる有名な場面がありますが、その直前にはリーダーが青豆に「右手を下ろしてごらん」と言い、青豆が右手を下ろそうとしても、空中に凍りついたように、動かすことができないという場面があります。さらにその後にはリーダーがホテルの部屋にある置き時計を念力のようなもので、手も触れずに持ち上げてみせるマジック的な場面があります。

 でも、天吾の父親が人差し指を上げて天吾をまっすぐ、力強く指さして「そんなこときまっているじゃないか。誰かのつくった空白をこの私が埋めてきた。そのかわりに私がつくった空白をあんたが埋めていく」という場面も、青豆とリーダーの対決に対応するかのような、強い印象を残します。ほんの一瞬だけ、天吾の父親が、リーダー的なキャラクターに変貌しているかのような場面でしょうか…。

 空白を回り持ちのように埋めていくと父親から聞いて、「猫たちが無人になった町を埋めたみたいに」と天吾が応えると、「そう、町のように失われるんだ」と父親は言います。さらに「あんたを産んだ女はもうどこにもいない」と天吾の母親について語るのです。

 「どこにもいない。町のように失われる。つまりそれは、死んでしまったということなのですか?」「それでは、僕の父親は誰なんですか?」と問う天吾に「ただの空白だ。あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私はその空白を埋めた」と父親は答えます。

 「空白と交わった?」「そしてあなたが僕を育てた。そういうことですね?」と天吾が確認のような問いを発すると、また、あの名言「説明しなくてはそれがわからんというのは、どれだけ説明してもわからんということだ」を天吾の父親は繰り返すのです。

 天吾は、「猫の町」で死の床にある父親とのこのようなやりとりを通して、変化し、成長してゆくのです。まず最初に、天吾の変化を指摘するのはふかえりです。ふかえりが天吾に「あなたはかわった」と言います。天吾が「僕はどんな風に変わったんだろう」と言うと、ふかえりは「ネコのまちにいけばわかる」と言うのです。

 そして、父親が昏睡状態になった時に、天吾は再び千倉の「猫の町」に行くのですが、その「猫の町」の療養所を訪れ、今度は眠り続ける父親に天吾は自分の思いを話します。

 それはこんな話です。天吾は高校時代は柔道部の中心選手でしたが、柔道に心からのめり込んだことはありませんでした。大学では数学を学び、それなりに成績もよかったのですが、三年、四年となるにつれて、数学に対する情熱のようなものは急速に失われていきました。そして女性たちにも不自由することはありませんでしたが、自分に心を惹かれる女性に、天吾が心を強く惹かれることはなかったのです。

 「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手になら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」という言葉も天吾は、父親に向けて話しています。

 でもふかえりが話したように、実はそんな天吾が変わっていたのです。

 「今のところまだうまくいっているとは言えないけど、僕はできればものを書いて生活していきたいと思っている。他人のリライトなんかじゃなく、自分の書きたいものを自分の書きたいように書くことでね。文章を書くことは、とくに小説を書くことは、僕の性格に合っていると思う。やりたいことがあるということはいいものだよ」と父親に語るのです。女性についても青豆のことを思い、「彼女の行方を捜してみようという気になった。自分が彼女を必要としていることにようやく気がついたんだ」と話します。

 天吾が父親の横から、立ち上がり、窓際に行くと、一匹の大きな猫が庭を歩いています。腹の垂れ方からすると、妊娠しているようです。猫は木の根もとで横になり、脚を広げて腹をなめ始めました。ここはやはり「猫の町」なのです。

 すると天吾は「僕の人生は最近になってようやく変化を遂げつつあるみたいだ。そういう気がする」と言うのです。これは、ふかえりの予告通りのことですね。

 「正直に言って、僕は長いあいだお父さんのことを恨みに思っていた」と天吾は話します。そして「天吾はもう一度窓の外に目をやって、猫の姿を見た。猫は自分が見られていることも知らず、無心にそのふくらんだ腹をなめていた。天吾は猫を見ながら話を続けた」とあって、それに続いて、長いあいだ父親を恨みに思っていたことについて「今ではそんなことは思わない。そんな風には考えない。僕は自分に相応しい環境にいて、自分に相応しい父親を持っていたのだと思うよ。嘘じゃなく。ありのままを言えば、僕はつまらない人間だった。値うちのない人間だった。ある意味では僕は、自分で自分を駄目にしてきたんだ。今となってはそれがよくわかる」と言うのです。

 天吾の言葉はさらに続いていますが、これらの言葉を述べる際、紹介したように「天吾は猫を見ながら話を続けた」のです。つまり、この『1Q84』の中で「猫」は死の世界、自分の魂の世界を象徴する動物として描かれているようです。

 天吾はこの「猫の町」、地下二階の地下室、死の世界で自分の魂と対話を重ねる中で、少しずつ成長し変化していたのです。そうやって父親と和解し、自らとも和解したのです。

 ちなみに『1Q84』のもう1人の主人公・青豆のほうの話には「タイガーをあなたの車に」というエッソの虎が何回か登場します。長い物語の最後の最後には、エッソの虎は左側の横顔を青豆のほうに向けて出てきて、「大きな微笑みは自然で温かく、まっすぐ青豆に向けられている」とあります。青豆も「その微笑みを信じよう。それが大事なことだ。彼女は同じように微笑む。とても自然に、優しく」という場面で、『1Q84』は終わっています。もちろん、虎はネコ科の動物ですので、「猫」と「天吾」、「虎」と「青豆」というペアで同作の中に出てきているのかもしれませんね。「猫」は地下二階の地下室にいる動物、「虎」は移動性を象徴する動物として、天吾と青豆を象徴し、2人の主人公をよく生かす動物として、在るのかもしれません。

 そして天吾の父親が亡くなります。その時、安達クミが火葬につき合ってくれます。

 「あなたのお父さんは、何か秘密を抱えてあっち側に行っちゃったのかもしれない」「でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」と安達クミは忠告してくれます。

 葬儀を終えて、天吾は東京・高円寺のアパートに帰り、「そんなことをしたってあなたはどこにも行けない」「それよりも先のことを考えた方がいい」という安達クミの言葉を反芻します。そして、天吾はこんなことを思うのです。

 「でもそうじゃないんだと天吾は思う。それだけじゃないんだ。秘密を知ったところで、それはおれをどこにも連れて行かないかもしれない。それでもやはり、なぜそれが自分をどこにも連れて行かないのか、その理由を知らなくてはならない。その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたらどこかに行くことができるかもしれない」と思うのです。ここが『1Q84』の天吾側の話として、とても重要な場面です。

 さらに「あなたが僕の実の父親であったにせよ、なかったにせよ、それはもうどちらでもいいことだ、天吾はそこにある暗い穴に向かってそう言った。どちらでもかまわない。どちらにしても、あなたは僕の一部を持ったまま死んでいったし、僕はあなたの一部を持ったままこうして生き残っている。実際の血の繋がりがあろうがなかろうが、その事実が今さら変わることはない。時間は既にそのぶん経過し、世界は前に進んでしまったのだ」と思うのです。

 この時、窓の外にフクロウの鳴き声が聞こえたような気がします。

 「フクロウくんは森の守護神で、物知りだから、夜の智慧を私たちに与えてくれる」という安達クミの言葉が、『1Q84』(BOOK3)の中で、何度か繰り返し記されていますが、その森の守護神の鳴き声が聞こえたということは、地下二階の地下室の「猫の町」の世界を抜け出して、元の世界に戻ってきたということでしょう。

 さてさて、なぜ小説『猫の町』の主人公は「猫の町」に閉じ込められてしまったのに、『1Q84』の天吾は「猫の町」に行って、「そしてデンシャにのって」戻ってくることができるのでしょう。その問題を考えなくてはいけないと思います。

 私は考えでは、1つは天吾が「猫の町」に行って、死の世界で死に瀕する父と対話し、自らの魂の世界と対話して、変わっていき、確実に成長しているからでしょう。

 今回、『1Q84』の天吾と「猫の町」でのことを詳しく紹介したのも、その天吾の成長の過程をちゃんとたどってみたかったからです。

 村上春樹は人間の成長というものを一貫して書き続けている作家です。成長することの大切さをずっと書いているのです。その村上春樹の作品の主人公たちが、そのような死の世界に入っていくのは、人間の成長には、死者との対話、霊魂との対話、自分自身の中のほんとうの魂との対話が欠かせないと考えているからだと思います。

 なぜ死者との対話、自分自身の魂との対話が、自己の成長にとって大切かといえば、我々は日ごろ、日常世界を生きている時には、どこに自分の本当の心があるのか、自分でもなかなか気づくことができないからです。忙しさや社会の中の人間関係とか、もろもろのものが邪魔をして、自分の本当の心がどこにあるのか、よくわからないのです。

 それが、大切な者を失った時、また大切な人を失いそうになった時、人はハッとして、自分の心のほんとうの在りどころが分かるのです。その時、人間は成長しているのです。

 『1Q84』は空に月が2つ出ているという長編小説で、それを難しく、抽象的に論じることも可能かと思いますが、でも村上春樹が常に人間の成長を書く作家であるという点から、これを読んでみれば、自分を育ててくれた父親との別れをきっかけに、天吾が父親との関係、母親との関係をつかみ直して(父親と母親との関係もつかみ直されています)、大きく成長していることがわかります。それが村上春樹が、この大長編を通して描きたかったことの大切な点ではないかと、私は思っているのです。

 「ここは猫の町だ。ここでしか手にすることのできないものがある。彼はそのために電車を乗り継いでこの場所にやってきた。しかしここで手にするすべてのものにはリスクが含まれている。安達クミの示唆を信じるなら、それは致死的な種類のものだ。何か不吉なものがこちらにやってくるのが、指先の疼きでわかる」

 作中、天吾の内的な声が、そのように記されているところがあります。確かにこの「猫の町」は自分にとって大切なものにハッと気づかせてくれる場所ですが、地下二階の地下室の暗闇の世界でのことですので、そこは危険に満ちています。

 それは「肉体と意識が分離しかけているような特別な感覚があり、どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか」をうまく判別できないような世界です。ですからその「猫の町」の閉じられた世界から抜け出せなくなってしまう危険性があるのです。

 「天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」という安達クミに対して、天吾は「でもそうじゃないんだ」と思う人間なのです。

 「それだけじゃないんだ。秘密を知ったところで、それはおれをどこにも連れて行かないかもしれない。それでもやはり、なぜそれが自分をどこにも連れて行かないのか、その理由を知らなくてはならない。その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたらどこかに行くことができるかもしれない」と思う人なのです。

 「その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたらどこかに行くことができるかもしれない」という考え。ここにはオープンな世界への希求、開かれた世界に対する希求のようなものがあります。『1Q84』における安達クミの役割は多義的ですが、でも、ここの「天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい」という考え方には、世界を閉じてしまう、クローズしてしまう面があるかとも思います。

 天吾はオープンな世界を希求する人間だからこそ、元いた世界に戻ってこられる人物なのでしょう。そして安達クミは、一面では、クローズドな考えを持っているから「猫の町」のほうに残っているのかもしれませんね。

 地下二階の地下室への扉を開けて、死者の世界に入り、死者と対話し、自分の魂と対話して成長するという村上春樹の小説は、もちろん『1Q84』だけではありません。

 一例だけを記せば、『ノルウェイの森』(1987年)で直子が自殺した後、「僕」が山陰の海岸を一人、歩いて旅する場面があります。「僕は死者とともに生きた」という言葉通りに、死んだ直子と対話をするのです。すると彼女が「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と言ったりします。

 そして、僕は高校三年のときに初めて寝たガール・フレンドのことをふと思い出すのです。「彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優しさをごくあたり前のものだと思って、殆んど振りかえりもしなかった。彼女は今何をしているんだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った」とあります。

 この時、『ノルウェイの森』の「僕」は死者との対話を通して、成長しているのです。

 その僕が、高校三年のときのガール・フレンドのことを思い出す直前、廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれます。砂浜で僕と漁師は2人で酒を飲みます。すると「俺は十六で母親をなくしたと」とその漁師は語ったりします。食事の心配をした漁師が寿司折や酒を買ってきてくれます。そして別れ際にポケットから四つに折った五千円札を出して、僕のシャツのポケットにつっこみ「これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから」と言うのです。

 結局、「僕」はその若い漁師からもらった五千円札で、東京までの切符を買って、現実の世界に戻ってくるのです。

 『1Q84』で「夜が明けたら天吾くんはここを出て行くんだよ。出口がまだ塞がれないうちに」と言って、「猫の町」から現実の世界へ戻るように警告する若い看護婦・安達クミも漁師の娘でした。

 『ノルウェイの森』と『1Q84』というベストセラー小説で、主人公に現実の世界への帰還を促す人物が漁師と漁師の娘であることは、偶然ではないでしょう。

 『1Q84』で天吾が海辺の「猫の町」で滞在生活を始める時、「朝早く起きて海岸を散歩し、漁港で漁船の出入りを眺め、それから旅館に戻って朝食をとった」とあります。さらに「漁港からは帰港する漁船の単調なエンジンの響きが聞こえてきた。天吾はその音が好きだった」と記されています。

 T・S・エリオットの詩集『荒地』の「火の説教」に「夕暮れどき、船乗りが海から帰るのも」という言葉があり、T・S・エリオットはわざわざ原注の中で「わたしは日暮れに帰港する近海漁業の漁師や平底舟の船頭のことを考えていたのである」と記しています。

 私には、この『1Q84』の「漁港からは帰港する漁船の単調なエンジンの響きが聞こえてきた。天吾はその音が好きだった」という文章は、T・S・エリオットの詩集『荒地』の中の言葉や原注の言葉とも響き合って、届いてくるのです。そして、村上春樹作品の中を貫く、海や漁師への希求は、もしかしたら、T・S・エリオットの詩からの影響かもしれないという思いも私の中に広がっていくのです。

 今回、ほうとうは『スプートニクの恋人』(1999年)の「すみれ」が最後になぜ「ぼく」の世界に帰ってきたのかも考えてみる予定でした。でも、今回もあまりに長いコラムとなってしまいましたので、それは別な機会にしたいと思います。

 なおT・S・エリオット『荒地』の詩句、原注の訳は岩崎宗治訳に従いました。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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