「村上春樹を読む」(40) 村上春樹の四国学 物語の聖なる場所

『海辺のカフカ(上)』(新潮文庫)

 先日、徳島県立文学書道館というところで「村上春樹と四国」との演題で話をいたしました。その冒頭、四国・徳島に招かれたから、このような題をつけたわけではないことを述べ、「四国」は村上春樹作品の聖地のひとつであり、「村上春樹の四国学」というものが成立する土地であると思っているなどと話したのです。今回のコラム「村上春樹を読む」は、この「村上春樹の四国学」というものについて書いてみたいと思っています。

 村上作品と「四国」というと、すぐ多くの人が頭に描く長編は『海辺のカフカ』(2002年)ではないかと思います。この作品の冒頭部に、15歳の「僕」が、「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」という場面があります。同作は、その「僕」や、もう1組のナカタさんと星野青年が「四国」高松の甲村記念図書館に結集する話です。

 確かに、同作は「村上春樹と四国」を考える時に重要な作品です。それはあとで触れるとして、でもそれ以前にも「四国」が大きな役割を果たしている長編があるのです。

 それは『ねじまき鳥クロニクル』(第1部、第2部1994年。第3部1995年)です。まず『ねじまき鳥クロニクル』と「四国」の関係から紹介してみたいと思います。

 『ねじまき鳥クロニクル』という大作はとても簡単に言うと、「僕」の前から突然行方不明となった妻を取り戻す物語です。「僕」の妻は、彼女の兄から、ひどい目にあっていて、それで行方不明となっているのですが、「僕」が、闇の中で妻の兄と戦い、妻を取り戻すのです。

 その3巻本の第1部の冒頭部に「僕」の家の近くの路地に面して空き家があることが述べられています。その家の元の持ち主は「宮脇さん」という名前でした。ファミリー・レストランを経営していたが、ある日、夜逃げのようにしていなくなってしまったのです。

 その空き家には深い井戸があって、「僕」は縄梯子を使って井戸の底に降りていくと、その底は土で、空井戸になっていました。

 「僕」はこの井戸を通過して壁抜けのように別の世界に出て、その異界の世界で、妻の兄と戦い、最後に妻のクミコを取り戻すのです。ですから宮脇さんの家だった、その空き家の「井戸」は物語上、非常に重要な場所となっています。

 そして第3部の冒頭部分で、その宮脇さん一家が、高松市内の旅館で一家心中した事実が明かされるのです。次女は絞殺され、宮脇さん夫妻は首を吊って自殺、長女は行方不明とのことです。

 この宮脇さん一家が「高松」で一家心中するのは、偶然ではありません。全国展開している「宮脇書店」という書店がありますが、その本社は「高松」にありますし、「高松」には「宮脇」という名前が多いそうですので、もしかしたら宮脇さんは自分の故郷に帰って、一家心中した可能性もあると思います。または宮脇さんにとって、自分のルーツと繋がりのある土地が「高松」だったという可能性もあるでしょう。

 でも、そのような推測ではなく、「僕」と「高松」との関係がかなりはっきりと記されているところが、同作の第2部にあります。

 「僕」が妻を取り戻す前に、失踪中の妻クミコから「僕」のところに手紙がくる場面です。その妻からの手紙の消印はかすれていて、はっきりとは読みとれないのですが、そこには「『高』という字はなんとか判読できた。『高松』と読めなくもなかった」と書かれているのです。

 「香川県の高松?」と「僕」は思います。「クミコは僕の知っているかぎりでは、高松に知り合いなんか一人もいないはずだった。僕らは結婚してから高松に行ったことはなかったし、クミコがそこに行ったことがあるという話は一度も聞いたことがなかった。高松という地名が僕らの会話に登場したこともなかった。それは高松ではないかもしれない」と村上春樹は記しています。

 『ねじまき鳥クロニクル』の第1部、第2部が刊行された1994年の段階では、この文章によれば、クミコの手紙が投函された地は「それは高松ではないかもしれない」と思える余地があります。ただし、文庫本でわずか4行の間に「高松」という言葉が、6カ所も記されています。これは尋常な表記ではありませんね。

 でも、ともかく、その1年後に『ねじまき鳥クロニクル』の第3部が刊行されて、その冒頭部に、あの空井戸のある家の元の所有者である宮脇さん一家が「高松」で一家心中しているという事実を知ってみると、その妻からの手紙は「高松」の消印のものと読むしかないような気がしてきます。

 さらに、登場人物たちが「高松」に結集する『海辺のカフカ』(2002年)を読んだ後で、この『ねじまき鳥クロニクル』第2部のクミコからの手紙を読むと、もう絶対に、それは「高松」の消印だと読むのではないでしょうか。そう思えるのです。

 『ねじまき鳥クロニクル』は「高松」で一家心中した宮脇家のものだった家の空井戸を通り、「僕」が異界に抜け出て、ホテルの暗闇の中で、妻の兄・綿谷ノボルと戦い、野球のバットで綿谷ノボルを打ち砕き、妻を自分のもとに取り戻す物語です。その通路である井戸は「四国・高松」とつながりがあるのです。

 では、他の作品ではどうでしょうか。

 村上春樹には、まず短編集を刊行し、その次に“短めの長編”を出し、それに続いて“長めの長編”を発表するという場合が結構あります。その傾向からすると『海辺のカフカ』(2002年)は“長めの長編”に相当する作品。その前の“短めの長編”は『スプートニクの恋人』(1999年)です。

 『スプートニクの恋人』には、主人公の「ぼく」が、ギリシャの島で行方不明となってしまった「すみれ」というガールフレンドを捜しにいく話が中心にあります。「すみれ」は、まるで幽霊のように、忽然として消えてしまうのですが、教員である「ぼく」が「すみれ」を捜すために、暫く東京を留守にする理由について、自分が勤務している学校の同僚の女性と、次のように会話する場面があります。

 僕が学校を休むと言うと、「それで、どこに行くの?」と同僚の女性は問います。それに対して、僕は「四国」と答えています。

 他にもまだ「四国」が出てくる作品があります。村上春樹作品で、日本で最も読者が多いのは、やはり『ノルウェイの森』(1987年)でしょう。このベストセラー作品にも「四国」が出てきます。同作には、京都のサナトリウムの森の中で自死してしまう「死」の象徴のような「直子」という女性が出てきますが、サナトリウムで、その「直子」と同室の「レイコさん」という女性がいます。その「レイコさん」の結婚相手の実家は四国の田舎の旧家であると書かれています。

 さらに最新の短編集『女のいない男たち』(2014年)の中からひとつ紹介してみましょう。この短編集の中に「木野」という作品があります。「木野」は主人公の名前ですし、彼が経営するバーの名前でもあります。「木野」は、東京の根津美術館の裏手の路地にあります。若い雌の野良猫がバーに来るようになって、店は軌道に乗り始めますが、ある時から、その猫が姿を消し、店のまわりに蛇が繰り返し出るようになります。

 木野は人の助言を受けて、店をたたみ、遠くに行くことにします。

 どこに行くかというと、まず「高速バスに乗って高松に行った。四国を一周して、そのあと九州に渡るつもりだった」と書かれています。「高松駅の近くのビジネス・ホテルに泊まり、そこで三日を過ごした」とも記されています。

 ここにも「高松」と「四国」が出てきて、村上春樹の物語の中で「高松」「四国」が特別な意味を持っていることがわかるかと思います。

 さて、そこで、その「高松」が舞台となった『海辺のカフカ』と「四国」「高松」との関係について、考えてみましょう。

 前記したように、この物語は、15歳の少年の「僕」の話と、ナカタさん・星野青年コンビの話が交互に進んでいくという村上春樹が得意とする形になっています。その「僕」の話とナカタさん・星野青年組の話との両方に登場するものが、幾つかあります。ひとつは讃岐うどんです。もうひとつは上田秋成の『雨月物語』です。

 その『雨月物語』は村上春樹が愛好する物語ですが、『雨月物語』のうち「僕」の話のほうには、「菊花の約(ちぎり)」という作品についてのことが記され、ナカタさん・星野青年組の話のほうには「貧福論」という作品の中の言葉が紹介されています。

 そして、この『雨月物語』冒頭の「白峯(しらみね)」という作品は、西行が讃岐(今の香川県)に向かう話なのです。讃岐で、西行は崇徳院の墓を詣で、崇徳院の亡霊と問答をするのです。ここでも、物語が四国(香川県)と繋がっています。

 「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」と言って、15歳の「僕」が「四国」に向かうことから、『海辺のカフカ』は始まっていくわけですが、その「僕」のほうにも、ナカタさん・星野青年のほうにも出てくる『雨月物語』は単に両方の話に出てくるというのではなくて、その冒頭の作品「白峯(しらみね)」が、西行が讃岐に向かう話として、この『海辺のカフカ』の物語と繋がっているのです。

 もう1つ紹介しましょう。これは、村上作品と四国との関係について考えていた時に、インターネットの村上春樹ファンたちの記述によって教えられたことなのですが、『海辺のカフカ』に高松の甲村記念図書館の女性責任者である「佐伯さん」という人が登場します。「海辺のカフカ」という名前も、その佐伯さんが十九歳の時に作詞作曲して歌い大ヒットしたという曲の名であるとも記されています。

 その「佐伯」とは弘法大師・空海の名前です。空海の名前(幼名)は「佐伯真魚(さえきのまお)」です。空海は宝亀5年(774年)に、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)で、生まれています。

 そして、甲村記念図書館の責任者が空海と同じ「佐伯」と名づけられているのは、決して偶然とは言えないのではないかと思います。ナカタさん・星野青年のコンビのほうの話に「入り口の石」というものが出てくるのですが、この石のことについて、ナカタさんと星野青年が、高松の市立図書館に調べにいく場面があります。

 でも「市立図書館には、高松市近辺の石について専門的に書かれた本は1冊もなかった」ようで、リファレンス担当の司書が「どこかに石についての記述があるかもしれませんから、ご自分で内容をあたってみてください」と言って、『香川県の伝承』や『四国における弘法大師伝説』などの本を一山置いていくのです。それを夕方までかけて読んだ星野青年が「弘法大師には石に関する伝説がいくつかあった。弘法大師が荒れ野の石をどかしたらそこから水がこんこんと湧いてきて、豊かな水田になったというような話だ」と思ったことも記されているのです。

 この場面「市立図書館」と書かれていますし、そこには「高松市近辺の石について専門的に書かれた本は1冊もなかった」とも断定的に記されています。村上春樹の図書館好きは有名ですし、自身の経験を反映した場面なのかなと、つい思ってしまいます。

 「神戸を出発したバスが徳島駅前に停まったとき、時刻は既に夜の8時をまわっていた」と『海辺のカフカ』の下巻の冒頭は、そう書き出されています。

 「さて、ここはもう四国だよ、ナカタさん」と星野青年が言うと、ナカタさんも「はい。とても立派な橋でありました。ナカタはあんな大きな橋を見たのは初めてであります」と応えます。ナカタさんが「あんな大きな橋」というのは、世界最長の吊り橋である明石海峡大橋のことです。

 そうやって、ナカタさん・星野青年の2人は徳島駅から少し離れた旅館に1泊します。そして翌日、ナカタさん・星野青年は徳島駅からJRの特急に乗って高松に向かうのです。

 これは、単に徳島に一泊したわけではないと思います。

 「四国」といえば、四国八十八カ所の霊場をめぐる四国巡礼が有名です。

 四国八十八カ所霊場を開創したのは、弘法大師・空海と伝えられていますが、この弘法大師の跡を巡礼するのが、四国巡礼、四国遍路です。そして、その霊場めぐりは徳島県から始まっているのです。

 ナカタさん・星野青年が徳島で「四国」最初の夜を過ごすのは、四国遍路のことを反映しているのではないかと思います。

 例えば、「四国」の第1夜に、星野青年は、徳島の旅館に泊まりながら、自分のこれまでの人生を振り返っています。

 星野青年の気持ちがすさんで荒れていた高校時代、警察の厄介になったときには、決まって「じいちゃん」が迎えに来てくれたのだそうです。「もしじいちゃんがいなかったら、俺はいったいどうなっていただろうなと彼はときどき思う」と村上春樹は書いています。

 「じいちゃんだけは少なくとも彼がそこに生きていることをちゃんと覚えていてくれたし、気にかけてくれていたもんな」と星野青年は思うのです。「にもかかわらず、そのころ彼は一度も祖父に感謝したことはなかった」「祖父は癌(がん)で亡くなった。最後は頭がぼけて、彼の顔を見分けることもできなかった。祖父が亡くなって以来、一度も実家に帰っていない」とも書かれています。

 さらにトラック運転手の星野青年が、ナカタさんに興味を持ったのは、ナカタさんの風貌やしゃべり方が、死んだじいちゃんに似ていたからだったことも記されています。

 自分の姿をもう一度、振り返り、見直すこと。それは四国遍路、そのものの行為と思索のようにも思えます。

 単に「あんな大きな橋を見たのは初めてであります」とナカタさんが、思うだけでしたら、明石海峡大橋を昼間に渡るということでもいいはずです。

 バスが徳島駅前に着いたときには夜の8時すぎでした。村上春樹はナカタさん・星野青年の2人の「四国」の最初の夜を、四国八十八カ所霊場めぐりが始まる徳島で一泊させるために、わざわざ夜の8時すぎに徳島駅に着くバスを選んでいるのではないでしょうか。

 また『女のいない男たち』の「木野」で、不吉なことが続く木野が、店をたたんで、まず「高速バスに乗って高松に行った。四国を一周して、そのあと九州に渡るつもりだった」というのも、四国遍路のことが意識して書かれているのではないかと思います。

 2014年1月に亡くなった高知県出身の直木賞作家、坂東真砂子さんの小説で四国遍路を題材にした『死国』という小説があり、映画化もされました。まさに「四国」は「死国」であって、村上春樹の『海辺のカフカ』の冒頭で「僕」が「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」というのは、四国4県へ行くという意味ではないでしょう。「四国」とは、まさに死者の国、「死国」へ行くということなのでしょう。

 『スプートニクの恋人』で、まるで幽霊のように消えてしまった「すみれ」を捜しにギリシャに向かう「ぼく」が、学校の同僚の女性に「それで、どこに行くの?」と問われて、それに対して、僕は「四国」と答えます。これも単に「ギリシャに行くのを」「四国」と嘘をついているという場面ではなく、たぶんこれから「死の国」へ向かうことの予告でしょう。

 「四国」行きを聞いた同僚も「それは大変ね」と応えています。あの世に消えてしまった「すみれ」を捜すために、冥界のような場所に行くことに対して、同僚の女性は「それは大変ね」と述べているのです。

 その冥界のような、死者の世界、あの世的な世界、異界である「四国」(死国)をめぐり、死者たちとの魂の出会いを通して、成長し、再び生の世界に帰ってくるというのが、村上作品の一貫したテーマです。村上春樹の物語にとって、「四国」はそんな聖なる場所、聖地だと思います。「村上春樹の四国学」というものが、研究されてもいいぐらいの大きな価値を持っている地が「四国」なのだと考えています。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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