「村上春樹を読む」(24) ハンブルクのこと  『ノルウェイの森』とは何か・その2

ボーイング747がハンブルク空港に着陸する場面で始まる「ノルウェイの森(上)」(講談社文庫)

 村上春樹の3年ぶりの新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が発売から7日目で100万部という驚異的な速さで売れています。発売元の文芸春秋によると「文芸書としては最速の100万部達成」だそうです。

 まだ同作の名などが発表されず、久しぶりの「長編」が刊行されるという予告だけの段階の時、「短い小説を書こうと思って書き出したのだけど、書いているうちに自然に長いものになっていきました。『僕』の場合そういうことってあまりなくて、そういえば『ノルウェイの森』以来かな」という村上春樹のメッセージが寄せられていましたので、先月のこのコラム「村上春樹を読む」では「新しい作品の何らかの部分が『ノルウェイの森』と関係があるのかもしれません」と、書いておりました。

 そんな予想というか…、漠然たる思いというか…、そのようなものでしたが、結果的にいくつかは当たっている部分もあったかと思います(もちろん外れていた部分もたくさんあると思いますが)。

 『ノルウェイの森』(1987年)と少し共通したところがあるなと思う部分は、まず作品のスタイルです。村上春樹の長編作品は、そのほとんどが反リアリズム小説です。例えば『1Q84』(2009―2010年)を考えてみれば分かりますが、これは月が2つ出ている世界の物語です。

 でも長編では唯一の例外として『ノルウェイの森』だけがリアリズムの小説でした。この場合の「リアリズム小説」という意味は、作品の内容が現実に起きたとしても、我々が生きている世界の在り方と矛盾しないという意味です。そして今度の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もリアリズム小説なのです。

 しかも『ノルウェイの森』では「僕」という一人称の文体でしたが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は三人称の文体なのに、とても自然に書かれていて、読み終わって少し時間がたってから、そういえば「三人称の小説だった」と気づくほどでした。

 もう1つは前回このコラムでも詳しく書きましたが、『ノルウェイの森』はビートルズの音楽の曲名から名付けられたタイトルです。そして、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も、リストの「巡礼の年」という曲が含まれた題名で、その曲が作中で大きな役割を果たしています。

 そんなところがこの新作と『ノルウェイの森』が少し似ているところかなと思いました。

 さて新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を一読して、この作品は今までの村上春樹作品と少し異なるように書かれているのではないかと思いました。その理由を端的に言うと、謎解きのような部分があまりないのです。

 村上春樹作品を読むと、そこに書かれている以上に、もう1つ2つ、その他に何かが書かれているような気がしてきます。それゆえにたくさんの「謎解き本」が生まれてくるのだと思います。私のこのコラム「村上春樹を読む」も、きっとその類いのものでしょう。

 確かに、この本の中に「君は幽霊でも見ているような顔をしている」などという言葉が記されています。これは『ノルウェイの森』の主人公「僕」が、直子の療養する京都のサナトリウム阿美寮から帰ってきて、東京の大学へ顔を出すと、直子とは対照的に開放的な女性である「緑」から「幽霊でも見てきたような顔してるわよ」と言われる部分に対応した言葉でしょう。このようにこれまでの村上春樹作品を読んできた人たちへのサービスというか、そういう読者を楽しませるような言葉が幾つか記されています。

 また、新作では主人公以外の登場人物たちの名前に色がついて、それはどんな意味かな…とも確かに思います。でも、それらの部分も、別に謎のようなものではありません。謎だとしても、複雑な謎として記されているわけでもないように、私には感じられます。

 むしろこの作品は、そんな謎解きなんかはあまり考える必要もなく、ただただ『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品を読んでいけばいいというシンプルな小説になっていると思います。この新作長編を読むのに、他の村上春樹作品に関する知識などは、あまり必要ではない作品になっていると思います。

 まるで好きな映画監督、好きな俳優による新作映画を楽しむように、その物語の流れに従って、読んでいけばいいような小説なのだと思います。

 そして作品の終盤に、とてもいい場面があって、そこの場面では音楽が重要な役割を果たしています。これは私ではなく、知人の意見ですが、まるで映画のようにバックグラウンド音楽とともに、その場面があるようになっています。私も、この考えに賛成です。

 最初は記号のように、読者の前に登場してきた複数の登場人物が、読むうちにどんどんリアルな存在となり、最後は生きた人物として、読む者の中に存在しているということが小説を読む醍醐味ですが、そのことが何気ないことのように達成されていて、これはすごいことだなと思いました。

 また、同作は東日本大震災後に書かれた村上春樹の最初の長編ですが、直接、そのようなものが書かれているわけではありません。でも大震災の後を生きる人たちに向けて書かれている作品だなと、私に受け取れるところがありました。さらにいろいろな箴言が書き込まれていて、箴言小説の味わいもあります。

 以上のように私は、この新作をとても面白く読みましたが、でもまだ発売から2週間ほどですから、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を未読の人もきっと多いと思います。その段階で、作品を詳しく紹介して書くことは、本を読む楽しみを奪ってしまいます。

 しばらくしたら『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について、このコラムで書くことを約束して、今回は作品の中身には触れないでおきたいと思います。ただ少しの予測を記しておけば、さらにたくさん、この作品は読まれるのではないかと、私は思っています。

 さて、今回も『ノルウェイの森』という作品について、少し書いておきたいことがあるのです。

 この『ノルウェイの森』の冒頭は37歳の「僕」が乗っているボーイング747がハンブルク空港に着陸すると飛行機の天井のスピーカーから、ビートルズの「ノルウェイの森」が聞こえてくる場面から始まっています。

 前回は、作中に「ドイツ」のことが頻出する作品であることを紹介しました。それに続いて、今回は、この飛行機が着陸する所が、なぜドイツのハンブルクなのか…ということを考えてみたいのです。それには複数の理由が考えられます。

 まず『ノルウェイの森』はビートルズの曲名から付けられた小説のタイトルですが、そのビートルズがデビューした場所がハンブルクでした。

 1960年にリバプールでコーヒー・バーを経営していたアラン・ウィリアムスという人物が金もうけをもくろみ、リバプールのロックンロール・バンドをドイツの港町、ハンブルクに送ることを考えて、ビートルズに声をかけるのです。

 19歳のジョン・レノンも、18歳のポール・マッカートニーも、17歳のジョージ・ハリスンも「プロのバンドになるためのビッグチャンスが来た」と思って、大学や仕事をやめたり、大学進学を投げ出して、ハンブルクに向かいます。

 バンド名はそれまで、「シルバー・ビートルズ」というものでしたが、このハンブルク巡業を機に「ビートルズ」という名前になったのです。

 つまり、このハンブルクは「ビートルズ」誕生の地でした。それゆえに『ノルウェイの森』の「僕」が乗ったボーイング747がハンブルク空港に着陸する場所として選ばれているのでしょう。『ノルウェイの森』とハンブルクの関係は、まずそのようにあると思います。

 もっともビートルズたちは、飛行機ではなく、リバプールからロンドンに向かい、フェリーでドーバー海峡を渡り、オランダ経由で陸路、ドイツ・ハンブルクに向かったようですが。

 そしてもう1つ、「僕」がハンブルクに向かう理由に、『ノルウェイの森』の作中、「僕」がずっと読んでいるドイツの作家、トーマス・マンの『魔の山』の影響があると思います。

 例えば「僕」が先輩の永沢さんと女の子を漁りに街に出るのですが、この日はついていません。仕方なく、永沢さんと別れた「僕」が1人でオールナイトの映画館に入り、その後、終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら本を読んでいると、2人組の女の子に話しかけられる場面があります。「僕」が、その時、一心不乱に読んでいた本が『魔の山』です。

 さらに「僕」が京都のサナトリウム「阿美寮」に直子を訪ねた時にも、この『魔の山』を読んでいて、それを知った直子の同室のレイコさんに「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とあきれたように言われます。「僕」も「まあ言われてみればそのとおりだった」と思います。

 それは『魔の山』という長編小説は主人公のハンス・カストルプ青年が、アルプス山中にある結核療養のためのサナトリウムに行くという物語だからです。そこは日常から隔離された「病と死の世界」です。レイコさんの発言は、サナトリウムである阿美寮に、何もわざわざ、そんな本を持ってこなくてもいいでしょ、という意味です。

 『ノルウェイの森』のドイツとの関係、特に『魔の山』と山上の阿美寮との関係を最初に指摘したのは文芸評論家の加藤典洋さんの「『まさか』と『やれやれ』」(1988年)という評論だったと思いますが、その『魔の山』の第一章の書き出し、ハンス・カストルプ青年が森に囲まれたサナトリウムに向かう場面は「ひとりの単純な青年が、夏の盛りに、故郷ハムブルクをたって、グラウビュンデン州ダヴォス・プラッツへ向った」(高橋義孝訳)という文章で始まっています。つまり主人公ハンス・カストルプの出身地がハンブルクなのです。

 ハンス・カストルプが訪ねた国際サナトリウム「ベルクホーフ」は森に囲まれた療養所で、そこに長い間いた学生が「森の中で首をくくった」という話も出てきますので、『魔の山』のサナトリウムが、やはり森の中で首をくくって直子が死ぬ阿美寮と対応した関係にあるのかと思います。

 その『魔の山』の主人公がハンブルク出身なので、物語の前半ではかなりハンブルクのことが詳しく紹介されています。そして『ノルウェイの森』のほうも、このハンブルクにちょっとこだわった作品になっているのです。

 『ノルウェイの森』の下巻のほうの冒頭は「第六章(承前)」となっていて、そこでは阿美寮でのことについて、次のように書き出されています。

 「夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つきも昨日そのままで、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泌について話していた白衣の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと話をしていた。僕らは大豆のハンバーグ・ステーキというのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされていた」

 ここで、「僕」たちが食べている、このハンバーグ・ステーキというものは、ドイツ・ハンブルクの港湾労働者が考案したために、その名があるという、ひき肉料理ですが、下巻冒頭に出てくる、このハンバーグ・ステーキが、『ノルウェイの森』の上巻冒頭で、「僕」が乗ったボーイング747がハンブルク空港に着陸することへの対応としてあるのです。

 『魔の山』という作品は、サナトリウムの人たちが食事をしながら、さまざまなことを議論する小説ですし、白い診察着姿のベーレンス顧問官(サナトリウムの院長)という人物が出てきますので、もしかしたら、そんなことも意識されているのかもしれません。

 NONAJUNさんの「BUNGAKU@モダン日本」というブログに、このボーイング747のハンブルク空港への着陸と、阿美寮でのハンバーグ・ステーキとの関係やビートルズ誕生の地であることなどが記されているのですが、その他にも『ノルウェイの森』は「なぜハンブルクなのか」ということについて、いろいろな指摘が書かれています。

 阿美寮で「僕」が直子やレイコさんと大豆のハンバーグ・ステーキを食べていると、そこに加わった白衣の男が話す「ビスマルクやナポレオン」はヨーロッパが過去に体験した悲惨な戦争の記憶と結びつく名前であることなど、『ノルウェイの森』の中に秘められた「戦争の歴史」について指摘してあるのです。そのことが、とても印象的なブログです。

 『ノルウェイの森』の冒頭、着陸態勢に入ったボーイング747から見える風景は「十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せて」いたことが記されています。そして「やれやれ、またドイツか、と僕は思った」のです。

 NONAJUNさんは、この上巻冒頭で描かれている「BMW」が「ナチスドイツが遂行した戦争に加担して、戦闘機のエンジンや軍事用の車輌を作ったメーカーであることも気になってきます」と書いています。

 このコラム「村上春樹を読む」の中で「村上春樹作品とカラス」の関係について書いた際に、中国文学者で、東大教授の藤井省三さんの論考『「レキシントンの幽霊」におけるアジア戦争の記憶』を紹介しました。

 この評論は短編「レキシントンの幽霊」に出てくる地名などがすべて日米戦争、および米国の対アジア戦争の記憶につながるものであることを具体的に述べたものですが、その時、作品の主人公「僕」が知り合いであるレキシントンのケイシーの家に行く時に乗っている車が「フォルクスワーゲン」でしたし、そのケイシーの家の前に停まっている車が「BMW」でした。その両方がドイツの自動車なので、これはおそらく第2次世界大戦を意識したことではないか思われるということを、私も記しました。ですから、NONAJUNさんの「BMW」についての指摘も、唐突なものとは思えないのです。

 また『ノルウェイの森』の前半に愉快なキャラクターの人物として登場する「突撃隊」も、戦争と関係のある名前ではないかということも書かれてあります。

 「突撃隊」は『ノルウェイの森』の僕が暮らす学生寮の同室の男です。彼は、ある国立大学で地理学を専攻する学生です(この人物はモデルがいるそうです)。

 その寮の一日は荘厳な国旗掲揚で始まります。国旗掲揚は、「僕」が入っている東棟の寮長の役目です。背が高くて目つきの鋭い60歳前後の、その寮長は陸軍中野学校の出身という話で、同作品では「中野学校氏」と呼ばれています。陸軍中野学校は軍事諜報員を養成した学校ですから、これも戦争に関係した記述なのでしょう。

それからハンブルクは、1943年の連合国側による大空襲で何万人もの死者を出した都市であることもブログにあります。

 『アストリット・Kの存在―ビートルズが愛した女―』(小松成美著)という本に、写真家のアストリット・キルヒヘアが、1945年の冬、疎開先から、出身地のハンブルクに戻った時、目にした破壊ぶりが記されています。

 「彼女がそこで見たものは、家を失って浮浪者となった人々と、爆撃によって破壊された街を埋めつくす煉瓦の山、そして、煉瓦をかじかんだ手で一つずつ片づける『瓦礫女』たちの姿だった」とあるのです。

 1943年7月末からのハンブルクの爆撃はイギリス首相のウィンストン・チャーチルが立案したもので、この「ハンブルクの戦い」と呼ばれる空襲は当時の航空戦史上もっとも甚大な被害を出した空襲だそうです。

 そう言えば、『アストリット・Kの存在』によれば、ビートルズのジョン・レノン(ジョン・ウィンストン・レノン)は、1940年10月9日、リバプールがドイツ空軍の集中砲火を浴びている最中、リバプールの産院で産声を上げました。船の給仕の仕事をしていた父親は航海中で不在。母親は自分の姉につき添われて、ジョンを出産しましたが、その母の姉が、この年首相になったウィンストン・チャーチルに敬意を表し、甥にジョン・ウィンストンと名づけたのだそうです。

 もちろん、そんなことまでは『ノルウェイの森』に関係ないでしょうが、戦争の歴史というものはいろいろな形で残っているものだと思います。

 さらに「戦争と言えば、『僕』が乗っている『ボーイング747』も、もともとは軍事用の大型輸送機として開発されたもの」という指摘もNONAJUNさんのブログに記されています。

 『ノルウェイの森』の「僕」が乗った「ボーイング」は日本人と深い関係のある飛行機です。ボーイング社のB―29は、第2次世界大戦の末期、まさに日本各地へ飛来して激しい爆撃を繰り返しました。広島、長崎に原爆を投下した爆撃機でもあります。

 そして連合国側のハンブルクへの連続的な大空襲も、英国政府は後にこれを「ドイツのヒロシマ」と呼んだほどの爆撃だったようです。

 そんな思いを抱きながら、『ノルウェイの森』の冒頭の文章をもう一度読んでください。

 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った」

 この冒頭の一文に、いろいろな戦争に関わることが凝縮して記されているのでしょう。そう読んでみれば、「やれやれ、またドイツか、と僕は思った」という言葉も、少し異なる感触をもって伝わってくるかと思います。

 村上春樹という作家は「歴史」というものに、非常にこだわって書いている人です。1987年に『ノルウェイの森』が刊行された時、その帯には「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーがついていました。

 そんな恋愛小説の中にも、歴史が、戦争の歴史が、そっと込められているのです。そのような思いで読んでみれば、『ノルウェイの森』という驚異的なベストセラー小説も少し違う味わいを伴って迫ってくるかもしれません。

 最後に1つだけ加えておきますと、トーマス・マン『魔の山』には最初に「まえおき」という文章がついていて、そこには第1次世界大戦のことと、この長編の物語のことが記されています。

 そして小説の最後の場面で、第1次世界大戦が勃発、主人公ハンス・カストルプがサナトリウムから出て、参戦していくところで終わっています。それは森に入り、森を抜け、森から姿を現して、突進していくような戦いです。

 そんな『魔の山』を「僕」がずっと読んでいる物語が『ノルウェイの森』なのですから、同作について「歴史」や「戦争」の視点を置いて読んでみることは、あながち特殊な読み方であるとは思えないのです。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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