「村上春樹を読む」 (23) 北欧神話の森 『ノルウェイの森』とは何か・その1

村上春樹「ノルウェイの森(下)」(講談社文庫)

 『1Q84』以来の村上春樹の長編が4月12日に刊行されます。タイトルは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』です。村上作品にしては、ちょっと変わった題名ですね。このコラム「村上春樹を読む」では村上作品の装丁や作中にあらわれる「ピンク」や「赤」や「緑」、そして「青」という色に注目して、何回か書いたこともありますので、「色彩を持たない」という言葉を含む題名の作品には、非常に心が動きます。

 まだ作品名などが発表されず、久しぶりの「長編」が刊行されるという予告だけの2月の広告には「短い小説を書こうと思って書き出したのだけど、書いているうちに自然に長いものになっていきました。「僕」の場合そういうことってあまりなくて、そういえば『ノルウェイの森』以来かな」との村上春樹のメッセージが寄せられていました。

 わざわざ『ノルウェイの森』(1987年)の名前が挙げられているのですから、新しい作品の何らかの部分が『ノルウェイの森』と関係があるのかもしれません。ともかく『1Q84』BOOK3以来、3年ぶりの長編です。楽しみにして読みましょう。

 さて、今回のコラム「村上春樹を読む」では、この『ノルウェイの森』とは何かということを考えたいと思っていました。そんなところへ、新作についての、このような言葉に出合い、ちょっと驚いています。『ノルウェイの森』刊行時にインタビューしたこともありましたので、ベストセラーとなる以前から、同作をめぐっていろいろ考えてきました。

 特に『ノルウェイの森』の「赤」と「緑」の装丁には同作の重要なメッセージが表現されているのではないかと思い、そのことは刊行当時の記事でも、私の考えを書きましたし、この「村上春樹を読む」の中でも、同様のことを書いております。興味のある方はこのコラムのバックナンバーを読むか、また昨年刊行した『空想読解 なるほど、村上春樹』や『村上春樹を読みつくす』などの本をお読みください。

 さて、ここで考えたいのは『ノルウェイの森』のタイトルのことです。日本だけでも現在、単行本、文庫本の上下巻を合わせると1100万部を超えるという驚異的なベストセラーである『ノルウェイの森』の題名とは何かということを考えてみたいのです。

 そうです。この『ノルウェイの森』は、ビートルズの曲名です。なぜその曲の名が、小説の題名に付けられたのでしょう。読んでいくと、この長編小説にビートルズの「ノルウェイの森」が好きな「直子」という女性が出てくるからだということがわかります。でもそれなら、たくさんあるビートルズの曲の中から、直子の好きな曲として、なぜ「ノルウェイの森」が選ばれたのでしょう。問いの形をそのように置き換えてもいいかと思います。なぜ「ノルウェイの森」なのでしょうか。

 ビートルズの「ノルウェイの森」というタイトルは「ノルウェイの森」ではなくて、「ノルウェイ製の家具」のことで「ノルウェイの森」というのは誤訳であるということが、村上春樹の本がベストセラーとなるのにともなって、話題となりました。さらに、その誤訳が村上作品の『ノルウェイの森』との関係でも記されたりもしました。まるで村上春樹の『ノルウェイの森』というタイトルまでが間違っているかのような話までありました。

 これはちょっと理解に苦しむことですが、村上春樹には関係のないことですね。だって、仮にもし誤訳だとしても、日本での曲名が『ノルウェイの森』なのですから。

 この訳に関しては、当事者であり、1964年ビートルズ来日の際の担当ディレクターの高嶋弘之さんがインタビューを受けて、その経過を語っています。「歌詞を自分の知ってる単語で適当に訳すんですよ。それから歌を聴いて、自分でひらめいたところでメインのタイトルをつける。後で振り返ってみてね、一番最悪だったのは、『ノルウェーの森』ですよ。あれ『ノルウェー製家具』ですよ。そんなもん知るかってことですよ。パッと聞いたら『ノルウェーの森』って、浮かんだんですよ」と、その経過を語っています。この発言はインターネット上でも読めますから、興味のある人は読まれたらいいと思います。

 このようなインタビューが存在すること自体が、村上作品の『ノルウェイの森』が、いかに大きな社会的な話題となったか、ということの反映なのでしょう。そして、誤訳説を喧伝する人たちも曲名としては『ノルウェイ製の家具』よりも、『ノルウェイの森』のほうが遥かにいいタイトルであることは認めているのではないでしょうか…。

 また仮に「ノルウェイ製の家具」だとしても、その歌詞の意味することが非常につかみにくいものです。この歌詞には意味の飛躍もあって、その飛躍ぶりが歌の膨らみを生み出しているのかもしれませんが、ともかく「ノルウェイ製の家具」と訳して、意味がぴたりと納得できるものではありません。

 たくさんの米国文学の翻訳者でもある村上春樹自身、「ノルウェイの森」か「ノルウェイ製の家具」かの問題について、ちょっともの申したい気持ちがあったのか、次のようなことをエッセイで書いています。

 「Norwegian Wood」について、正しくはノルウェイ製の家具なんだということが1つの定説のように広まっているようだが、「この見解が100パーセント正しいかというと、これはいささか疑問ではないかと思う」と述べ、アメリカ人やイギリス人に聞いても「あれはノルウェイ製の家具だよ」という人と、「いや、あれはノルウェイの森のことだよ」という人にはっきり二分されることを紹介しています。そして「これはどうも英語と日本語の言語的ギャップというだけの問題でもないようだ」として、「翻訳者のはしくれとして一言いわせてもらえるなら、Norwegian Woodということばの正しい解釈はあくまで〈Norwegian Wood〉であって、それ以外の解釈はみんな多かれ少なかれ間違っているのではないか」と書いています。

 さらにジョージ・ハリソンのマネジメントをしているオフィスに勤めている女性から、「本人から聞いた話」として、教えてもらったこととして、次のようなことも紹介しています。

 「Norwegian Wood」の最初のタイトルは“Knowing She Would”というもので、彼女が性的な関係をOKであることをわかっているという意味の言葉だったのが、そのままではヤバイので、ジョン・レノンが即席で“Knowing She Would”を語呂合わせで「Norwegian Wood」としたらしいというのです。そんなことを村上春樹が書いているのです。

 このエッセイは『村上春樹 雑文集』(2011年)の中に収録されていますが、同書の裏表紙にも、Norwegian Woodは「ノルウェイの森」なのか?とあって、このエッセイ集の中でもかなり重要な位置を占める文章のようです。

 さて、そのエッセイのタイトルは「ノルウェイの木を見て森を見ず」というものでした。つまりこの題に従えば、みんな「木」ばかりを見て、肝心な「森」を見ていないじゃないか、「木」を見ないで「森」を見てほしいと村上春樹は言っているのかもしれません。

 ですから『ノルウェイの森』の「森」を見る視点から、この世界的なベストセラー作品のタイトルの意味するものに迫ってみたいと思います。

 『ノルウェイの森』のタイトルの意味とは何か。そのことへのヒントになるのではないかと思えるようなことが冒頭の文章の中に記されています。

 『ノルウェイの森』の冒頭は37歳の「僕」が乗っているボーイング747がハンブルク空港に着陸すると飛行機の天井のスピーカーからビートルズの「ノルウェイの森」が聞こえてくる場面から始まっています。その曲をきっかけに18年前、直子と歩いた草原の風景を「僕」は思い出していくのです。

 そして、この場面、飛行機が着陸するのが、なぜドイツのハンブルクの空港なのか…ということから、『ノルウェイの森』のタイトルの意味について考えてみたいのです。着陸態勢に入ったボーイング747から見える風景は「十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せて」います。そして「やれやれ、またドイツか、と僕は思った」と村上春樹は記しています。

 この「僕」が到着したハンブルクはエルベ川下流に位置するドイツ最大の港湾都市です。中世以来の自由都市としてハンザ同盟の中心的都市の1つでもありました。6世紀には、すでに港湾都市として存在していて、バイキングの襲来を受けているそうです。

 ハンブルクはベルリンに次ぐドイツ第2の都市ですが、「僕」が「やれやれ、またドイツか」と思うように、この『ノルウェイの森』という作品は、なぜかドイツが頻出する長編小説なのです。

 いくつか例を挙げてみましょう。

 例えば、「僕」が直子のいる京都の阿美寮というサナトリウムから帰ってきて、大学に行くと、直子とは対照的に生命力の塊のような女性「緑」と出会います。「どこ行くの?」と彼女から話しかけられるので、「僕」は「図書館」と答えます。

 「そんなところ行くのをやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」と「緑」が誘うのですが、「さっき食べたよ」と答えます。「僕」は「旅行から帰ってきて少し疲れて」いるのです。そんな「僕」を見て緑は「幽霊でも見てきたような顔をしてるわよ」と言います。

 そして、緑が「ねえワタナベ君、午後の授業あるの?」と聞くのですが、それに「僕」が「ドイツ語と宗教学」と言うのです。さらにドイツ語の方は今日テストがあるので、すっぽかせないと答えるのです。

 でも緑にお酒に誘われて、「ドイツ語の授業が終ると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊國屋の裏手の地下にあるDUG」に行きます。

 その後も2人はDUGに行くので、これをまねて、DUGに行く、現実のカップルたちもいるようですが、このドイツ語の授業をめぐるところは十数行の間に「ドイツ」という言葉が3度も出てくる場面になっています。

 直子がいる京都のサナトリウムに行った時も、直子と同室のレイコさんが出かけると、「僕」は一人残り、ドイツ語の勉強をしています。

 さらに『ノルウェイの森』では、「僕」が住んでいる東京の学生寮で、先輩の永沢さんという男性と親しくなります。彼は「僕」より学年が2つ上で、東大の法学部の学生。2人ともスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビイ」が好きゆえに友達になり、夜には、一緒に女の子を漁りに行くほどの仲になります。

 その永沢さんにはハツミさんという素敵な恋人がいるのに、彼は外交官試験に受かると、ハツミさんを置いて、外国に行ってしまいます。その行く先が、またドイツなのです。

 『ノルウェイの森』には、まだまだドイツが出てきますが、それは後で紹介するとして、このドイツの頻出ぶりは何を伝えようとしているのでしょう。冒頭、「僕」の飛行機が着陸するのがドイツのハンブルク、すると機内放送でビートルズの「ノルウェイの森」が聞こえてきます。京都のサナトリウム阿美寮に直子を訪ねると、同室にはレイコさんという女性もいますが、その2人の部屋で「僕」はドイツ語の勉強をしています。さらに緑が授業をさぼらない?と誘っても、「僕」は「ドイツ語と宗教学」があって「ドイツ語の方は今日テスト」があるので、すっぽかせないと答えています。そして、友人の永沢さんは、ハツミさんを置いたままドイツに行ってしまうのです。

 直子、レイコさん、緑、ハツミさんが、『ノルウェイの森』に登場する魅力的な女性のすべてですが、彼女たちが出てくる場面で、みな「ドイツ」が出てくるのです。ドイツ、ドイツ、ドイツ…なのです。

 そして前にも述べましたが、『ノルウェイの森』と「ドイツ」との関係を考えてみるにあたり、村上春樹のエッセイ「ノルウェイの木を見て森を見ず」の題名から、この問いに接近してみたいのです。

 ここまでの紹介が、あまりに長くなってしまいましたが、『ノルウェイの森』における「ドイツ」の頻出というのは、もしかしたら北欧神話、ゲルマン神話との関係を示しているのではないでしょうか。

 北欧神話はギリシャ神話に匹敵する古ゲルマン人の神話です。フィンランドを除く北欧の民族はドイツ人、イギリス人、オランダ人と同じ民族系統にあります。ですからもちろん「ノルウェイ」と「ドイツ」は同じゲルマン民族の系統で繋がっているのです。

 現在ヨーロッパの北部と西部の大部分に広がっているこの民族群は、古くはスカンジナビアとバルト海西端の周辺の狭い地域に住んでいましたが、それらの人たちの神話を北欧神話と言いますし、ゲルマン神話と言います。

 正確に言うと北欧以外の国々はキリスト教文化の影響を早期に受けて、古い伝承が早くから滅びてしまったので、完全に北欧神話=ゲルマン神話と言うのには留保が必要のようです。でもゲルマン人の中に残る多くの神が共通していて、北欧神話がゲルマン人の神話であることも間違いがないのです。

 この北欧神話には「鉄の森」(イアールンヴィズ)という森が出てきます。この森は原古の森の意味で、人間界と巨人界の境界にあると考えられている森です。巨人界は東方にあるので、この森も人間界の東にあります。北欧神話を集めた『エッダ―古代北欧歌謡集』(谷口幸男訳)冒頭の「巫女の予言」には「東の、イアールンヴィズに一人の老婆がいて」と書かれていますので、森が東にあることは北欧神話の基本のようです。

 そして、この「東の森」のことが、よく村上春樹作品に登場するのです。例えば『ノルウェイの森』の前の長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の単行本には、「世界の終り」の街について、村上春樹自身が描いた地図が付いておりました。この地図に「東の森」という名の森が記されています。そして作中でも「東の森」は重要な位置を占めています。

 「世界の終り」の街は高く長大な壁に囲まれていますが、その街に入る時に、「僕」は自分の「影」を門番に預けなくてはなりません。

 そうやって「世界の終り」の街に入った「僕」が、しばらくして門番小屋まで行くと、「僕の影」は門番の手伝いをして荷車の修理をしています。門番が留守にしている間に「僕の影」と「僕」が話をするのですが、その時、「僕の影」は「まずこの街の地図を作るんだ」と「僕」に言います。「壁のかたち、東の森、川の入口と出口」を詳しく調べて、地図を作って「僕の影」に渡してほしいと言うのです。単行本の巻頭についている地図は、この地図のことでしょう。

 さらに「僕」が図書館の司書の女の子と2人で、この「東の森」の中に入っていくことも同作の重要な場面として出てくるのです。

 また「東の森」は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、さらに前の長編で初期三部作の1つである『羊をめぐる冒険』(1982年)にも描かれています。この作品には「羊男」なるものが登場します。頭から羊の皮をかぶっていて、腕と脚の部分や頭部をフードで覆い、くるくる巻いた角をした「羊男」の姿を村上春樹が描いたイラストが、1ページをまるまる使って掲載されている有名な場面がありますが、このどこかユーモラスな「羊男」が「僕」との話を終えると「足早に草原を東の森に向けて突っ切っていった」と村上春樹は書いています。

 そして、これらの「東の森」は、単なる「東の森」ではなく、北欧神話・ゲルマン神話に通じる「東の森」なのだと、私は考えています。

 なぜなら『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、最初に「世界の終り」の話が出てくる場面で、その街の門番は角笛を吹いて、獣たちを集める儀式をしています。門番の小屋には大小様々の手斧やなたやナイフが並んでいて、門番は暇さえあればそれをいかにも大事そうに砥石で研いでいます。「僕」が「いちばん小さな手斧を選んで手にとり、空中で軽く何度か振って」みたりすると、門番は「その柄も俺が作った。十年もののとねりこの木を削って作るんだ」「東の森に行くと良いとねりこがはえているんだ」と言います。

 この「とねりこの木」は北欧神話・ゲルマン神話の世界樹です。ユグドラシルという名のとねりこの大樹が立っている世界が北欧神話・ゲルマン神話の世界です。その大樹の枝は全ての世界を覆い、3つの根は神々の国、巨人の国、冥界の国の3つの国に伸びています。

 「東の森に行くと良いとねりこがはえているんだ」という言葉はそんな北欧神話・ゲルマン神話に対応して、記された言葉でしょう。

 ちなみに、世界滅亡の戦争の時には世界樹ユグドラシルの下に隠してあった黄金の角笛が吹かれます。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」の街の門番が角笛を吹いて金色に変貌していた獣たちを集めるのも、この神話と関係しているのかもしれません。さらに「世界の終り」という名前にも「世界滅亡の戦争」(神々の黄昏)のことが反映した名づけなのかもしれません。

 またドイツとの関係で言えば、ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが北欧神話・ゲルマン神話を基に作曲した楽劇『ニーベルングの指環』と、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『羊をめぐる冒険』の「東の森」は関係しているのではないかと、私は考えています。

 『ニーベルングの指環』は『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』の4つをつなぎ合わせた神話的な大オペラですが、その『ワルキューレ』の中でジークリンデという女性(神々の長・ヴォータンと人間の女性との間にできた双子の女子。男子のほうはジークムント)がヴォータンの怒りから逃げる場面があります。

 「どちらへ向かったらよいのかしら?」と思うジークリンデは、東に向かって広がっている森に逃げるのです。そこは頼りのない女にとっては恐ろしいところですが、「それでも、ヴォータンの怒りに対しては森がジークリンデを護ってくれる。権威ある神も森を恐れ、あの辺りを敬遠する」(高辻知義訳)からです。

 その『ニーベルングの指環』との関係を示す村上春樹作品としては『羊をめぐる冒険』が、その1つです。同作は「僕」が黒服の男に頼まれて、背中に星の印を持つ栗色の羊を探して北海道まで行く話です。さらに友人の鼠も探しています。でも両方ともなかなか見つかりません。

 「鼠も羊もみつからぬうちに期限の一カ月は過ぎ去ることになるし、そうなればあの黒服の男は僕を彼の『神々の黄昏』の中に確実にひきずりこんでいくだろう」とあります。もちろん『神々の黄昏』は『ニーベルングの指環』の中の『神々の黄昏』でしょう。そこには北欧神話の「ラグナロク」という読みではなく、「ゲッテルデメルング」というドイツ語読みのルビが振ってあります。その『神々の黄昏』は世界の終焉を描くオペラです。

 『羊をめぐる冒険』は1982年、デビューから3年後の作品ですから、村上春樹が非常に早い時期から、ゲルマン神話に基づいたワーグナーの『ニーベルングの指環』や、そのゲルマン神話の原型を示す北欧神話を意識しながら、作品を書き続けていたことが分かると思います。この『羊をめぐる冒険』は、フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』の影響も指摘されている作品です。その『地獄の黙示録』の音楽も『ワルキューレ』の中の「ワルキューレの騎行」が使われていました。『神々の黄昏』が『羊をめぐる冒険』の中に登場することと、関係があるのかもしれませんね。

 さて、村上春樹のエッセイ「ノルウェイの木を見て森を見ず」に戻りましょう。

 村上春樹にとっての「森」は、以上述べてきたような神話的な世界、太古に繋がる世界の中にあります。

 ですから『ノルウェイの森』の「森」を見る時には北方神話・ゲルマン神話と繋がるような「森」のことを思ってみるのもいいと思います。「ノルウェイ」と「ドイツ」は北欧神話・ゲルマン神話の「森」で繋がっていると思うのです。『ノルウェイの森』という小説の題名には、そんな「森」への思いが込められているのではないかと考えているのです。

 古代ローマの歴史家タキトゥス(55頃~120年?)が古代ゲルマン民族について記した『ゲルマーニア』の中に、ゲルマン民族にとっての「森」の意味が記されています。

 それによれば「すべてが、父祖以来そこで行われた占兆や古代からそこに払われた畏敬のゆえに神聖な一つの森に、使節を介して会同し、公の名の下に、ひとりの人身を犠牲に供して、野蛮な祭祀の戦慄すべき秘儀(primordia)を執行する。この森に払われる崇敬はこれだけではない。なんぴとといえども、みずからは神の下における卑小なるもの、みずからはただ神能の偉力に拝跪(はいき)するものとして、鎖に縛られることなしには、そこに足を踏み入れることができないのである。たとえ、過(あやま)って足を辷(すべ)らせたにせよ、彼は助け起こされ、立ち上ることは許されない。ただ土地の上を転がって外に出るのである」(泉井久之助訳)という場所のようです。

 ビートルズの「ノルウェイの森」を好きな直子ですが、彼女は「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて」と「僕」に話しています。

 仮に、古代ゲルマン民族の「森」の中に「直子」を置いてみると、彼女は祭祀に供せられた犠牲のように、「森」の中で死んでいきます。「直子」を失った「僕」も古代の森の中で過って足を辷らせたかのように、「直子」の葬儀に参列した後、東京に帰らず、各地を転々と放浪します。空地や駅や公園、川辺や海岸、墓場のわきで寝袋を敷いて眠るのです。山陰の海岸を1人、転がりながら、ようやく現実世界にもどってくるのです。

 このコラム「村上春樹を読む」は、村上春樹作品を私の空想と妄想で読んでいくものですが、『ノルウェイの森』という作品を、こんな具合に、北欧神話的、ゲルマン神話的な世界の中に1度置いて、読んでみるのも悪くないと思いますよ。

 『ノルウェイの森』と「ドイツ」などについては、まだまだ紹介すべきことがあります。続きは、次回の「村上春樹を読む」にしたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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