「村上春樹を読む」(21) 鵲(かささぎ)の渡せる橋に 村上春樹作品とカラス・その2

織姫としての「ふかえり」が記されていると思われる『1Q84』BOOK3

 村上春樹の長編『1Q84』に『空気さなぎ』という作中小説が出てきます。それは「ふかえり」という17歳の美少女が、ある新人文学賞に応募して賞を受けるという作品です。

 『1Q84』はBOOK1、2では女主人公・青豆の話と、男主人公・天吾の話が交互に進んでいく物語ですが、その『空気さなぎ』は、まず天吾の話のほうに出てきます。

 天吾は小説家を目指している青年ですが、天吾が最初に登場する『1Q84』BOOK1の第2章は小松という編集者から、新人文学賞の応募作である『空気さなぎ』のリライトを天吾が依頼される場面から始まっています。

 天吾は小松から回ってくる新人文学賞の候補を決める前の「下読み」という仕事をやっているのですが、『空気さなぎ』という作品についてこんなふうに話しています。

 「何年か仕事として、山ほど応募原稿を読んできました。まあ読んだというよりは、読み飛ばしたという方が近いですが」「とにかくそれだけの数の作品に目を通してきて、仮にも手応えらしきものを感じたのはこの『空気さなぎ』が初めてです。読み終えて、もう一度あたまから読み返したいという気持ちになったのもこれが初めてです」

 それに対して、小松も「たしかにおっしゃるとおりだ。最後まで読んだよ。自分でも驚いたことに。新人賞の応募作を俺が最後まで読み通すなんて、まずないことだ。おまけに部分的に読み返しまでした。こうなるともう惑星直列みたいなもんだ」と応えるのです。

 ならば『空気さなぎ』は、そんなに上手い作品かというと、そうではないのです。

 小松は「いや、でも、おそろしく下手だね。てにをはもなってないし、何が言いたいのか意味がよくわからない文章だってある」と言います。天吾も「たしかに文章は荒削りだし、言葉の選び方も稚拙です。だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています」と同意しています。

 でも2人とも『空気さなぎ』に人を引き込む何かを感じていて、この作品を天吾がリライトして、新人文学賞を受賞させようとするのです。そうやって『空気さなぎ』は見事に新人文学賞を受賞。ふかえりは記者会見までするようになります。

 さて、この『空気さなぎ』は、少し変わった題名の小説ですね。今回のコラム「村上春樹を読む」では、このちょっと変わった名の『空気さなぎ』とは何かについて考えてみたいと思います。それに関連して「ふかえり」という美少女作家とは何者なのかということも考えてみたいのです。

 その『空気さなぎ』と「ふかえり」に迫る糸口として、『1Q84』にしばしば登場する「カラス」との関係から進んでいきたいと思います。なぜ、カラスが同作に繰り返し出てくるのか。その問題をまず考えてみたいのです。

 前回も紹介しましたが、天吾が死の床にいる父親の看護のために海沿いの療養所にいる場面が、『1Q84』BOOK3の中にあります。その療養所で、天吾が朝、病室に入っていって、カーテンをあけ、窓を大きく開けると「くちばしの大きなカラスが一羽、水銀灯の上にとまって、あたりを用心深く見回しながら、さてこれから何をしようかと思案していた」ように見えたりしています。

 普段、天吾は高円寺のアパートに住んでいるのですが、看護のために天吾が留守をしている部屋には、その後、知り合いになった「ふかえり」がいます。天吾がふかえりに電話をすると、その天吾の部屋にも「カラスがやってくる」と言うのです。同じカラスが毎日「いちどじゃなくなんどかやってくる」と、ふかえりが話します。ふかえりは、そのカラスと話をして、毎日を過ごしていると言うのです。

 『1Q84』という大長編は、すごく簡単に言うと、10歳の小学生時代にたった1度だけ、手を握り合った天吾と青豆という男女が、互いを忘れることなく求めて、20年後に再会し、結ばれるという物語です。

 そのもう1人の主人公・青豆のところにもカラスがやってきます。女殺し屋である青豆はカルト集団「さきがけ」のリーダーの男を殺害後、高円寺の南口のマンションに隠れ潜んでいるのですが、このマンションにも「大きなカラスが出し抜けにベランダにやってきて、手すりにとまり、よく通る声で何度か短く鳴いた。青豆とカラスはしばらくのあいだ、ガラス窓越しにお互いの様子を観察していた」というのです。

 ふかえりも、青豆も、これらの場面では「高円寺の南口」に住んでいるわけですから、やってくるカラスは同じカラスの可能性もあります。

 まだまだカラスは『1Q84』の中に登場してくるのですが、それはまた紹介するとして、これらのカラスとは何かということから、『空気さなぎ』とは何か、「ふかえり」とは何者なのかということに迫ってみたいのです。

 話を簡単にするために、今回のコラムの方向性を示しておきますと、このカラスの頻出、ふかえりという少女の存在、さらに『空気さなぎ』という小説は、いずれも七夕伝説・七夕神話と関係しているのではないかと、私は考えています。それについて、以下具体的に述べてみましょう。

          ☆

 「鵲(かささぎ)の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」

 「百人一首」にもある大伴家持作という歌に、そんな有名な歌があります。これは七夕神話を受けて詠われた歌です。

 この歌の「鵲の渡せる橋」は天の川を渡る橋のことです。中国の七夕伝説では、織姫と彦星を七夕の日に逢わせるため、鵲が翼を連ねて橋を作って天の川を渡しました。「霜」は天の川にあるたくさんの星が霜のように見えることです。

 「冬の夜空の白く冴え渡る天の川、鵲が翼を連ねて渡したという橋の上に置いた霜のように星々が白く見えるのを見ると、夜も更けたのだなあ」

 という意味の歌です。

 この歌の「橋」には、宮中を天上の世界と考えて、その宮中への御階(みはし)とする解釈もあります。その解釈からすると、「橋に置く霜」の部分は宮中の階段の欄干などに霜がついているさまを歌っているとも受け取れます。

 このような説に従えば、つまり天を仰いで天の川を見た作者が、七夕伝説の鵲の橋を思い、そこから地上の、宮中への階段に霜がついているのを眺めると、その清冽な寒さに身が引き締まるような気持ちがするという歌になります。

 そして「霜」のほうには、有名な張継の詩「楓橋夜泊」の「月落ち烏啼いて霜天に満つ」との関係も指摘されていますし、家持作と思われてきたこの歌が、実際は家持の歌ではなかったというのが定説になってもいるようです。

 それはともかく、この「鵲の渡せる橋」という言葉が七夕伝説から発想されていることは間違いありません。そのことをまず理解してください。

 『1Q84』は村上春樹の大長編『ねじまき鳥クロニクル』と深い関係を持っている作品です。それは『ねじまき鳥クロニクル』の小説の時代が「1984年」を主に舞台としていて、それを受けたようなタイトルとして『1Q84』があり、この『1Q84』という物語が『ねじまき鳥クロニクル』と同じ時代である1984年から、少しだけズレた時間を舞台としているからです。

 その『ねじまき鳥クロニクル』の第1部は「泥棒かささぎ編」と名づけられております。そして「かささぎ」は「スズメ目カラス科」の鳥なのです。カラスよりは少し小さいですが、肩の羽根と腹の面とが白色であるほかは黒色で金属的な光沢がある鳥です。

 紹介したように鵲は七夕神話では、牽牛・織女を隔てている川を渡らせる橋の役目を担った鳥。『1Q84』のたくさんのカラスの登場は、『ねじまき鳥クロニクル』の「かささぎ」(鵲)と対応しているのではないかなと、私は考えています。つまり「天吾」「ふかえり」「青豆」のところへカラスがやってくるのは、鵲と同じように「天吾」と「青豆」の2人を逢わせるべく、両者を隔てる天の川に橋を架けるためにやってきているのであろうと、私は思っているのです。

 日本人はこの七夕のことが大好きで、大伴家持が選者として加わったといわれる『万葉集』にも非常にたくさんの歌が収められています。

 「我が背子(せこ)にうら恋ひ居れば天の川夜舟漕ぐなる楫(かぢ)の音聞こゆ」

 (いとしい夫(せ)の君に早く逢いたいと待ち焦がれていると、時あたかも、天の川から、夜舟を漕いでやって来る櫓の音が聞こえる)

 「天の川川の音清し彦星の秋漕ぐ舟の波のさわきか」

 (天の川の川音がすがすがしく聞こえてくる。あれは、彦星が、この秋の宵に川を漕ぎ渡る舟、その舟のかき立てる波のざわめきであろうか)

 「いにしへゆ織りてし服(はた)をこの夕(ゆふへ)衣に縫ひて君待つ我れを」

 (ずっと以前から織り続けてきた織物、その織物を、この七夕の宵には着物に縫いあげて、あの方のお越しをお待ちしている私なのです)

 などなど『万葉集』巻第十にとても多くの七夕歌が残されているのです。

 このように日本人が大好きな七夕伝説ですが、でもこれは日本の固有のものではなくて、中国から渡来したものです。そして、中国では「織姫が七夕に河を渡ろうとするとき、鵲に命じて橋にならせる」という話でした。

 日本の『万葉集』にも「天の川棚橋(たなはし)渡せ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋渡せ」(天の川に棚橋でも渡しておくれ。別れを惜しむ織姫様がお渡りになれるように、棚橋でも渡しておくれ)という歌があって、これは織女のほうから川を渡っていく歌です。でも例外中の例外の歌です。

 「これは、中国の七夕伝説と同じ発想に立つ歌で、織女の方が天の川を渡って行くことを詠んでいる。牽牛が川を渡って逢いに行く日本的な七夕歌とは大きく違っている」と万葉学者の伊藤博さんも記しています。

 つまり中国では織姫のほうが川を渡るのに対して、なぜか日本では彦星のほうが川を渡って織姫に逢いに行くように転換されているのです。このように七夕神話は中国から渡来して、話が日本的に転換されていった神話ですが、鵲という鳥自体が、もともと日本にいた鳥ではありませんでした。

 『魏志倭人伝』にも「その地には牛・虎・豹・羊・鵲なし」とあって、もともと日本には鵲はいないことが記されていますし、『日本書紀』の「推古天皇」の時代に新羅に遣わせた使者が、帰国して「鵲二羽をたてまつった」ことが書かれているので、最初は新羅からの献上品として日本に入ってきたもののようです。

 つまり見たこともない鳥である「鵲」が牽牛織女のために連なって橋をつくり、2人の逢瀬の仲立ちをするという話が歌に詠み込まれているわけですから、当時の“最新の外来知識”を競うように歌にしたもののようです。

 さてさて、『1Q84』における「ふかえり」は、この七夕神話と深くつながっている女性ではないかと私は考えているのですが、その理由を具体的に挙げてみたいと思います。

 まず「ふかえり」という少女には「織姫」としてのイメージが強くあります。

 例えば、天吾は『空気さなぎ』について、小松と話す際に、今回のコラムでも最初のほうで紹介したように、その弱点として「だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています」と話しています。まったく、その通りで、なぜ『空気まゆ』と命名しなかったのかと思うほど、『空気さなぎ』の物語は、「さなぎ」ではなく、「繭」に近いイメージで書かれています。

 作中小説である『空気さなぎ』の中に出てくる少女がリトル・ピープルから「くうきさなぎ」の作り方を教えてもらう場面がありますが、そこは次のように記されています。

 リトル・ピープルたちは「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていくぞ」と少女に言うのです。

 そして少女にとって「空気の中から糸を取り出すのは、いったん慣れてしまえばそんなにむずかしいことではなかった。少女は手先が器用な方だったから、すぐにその作業を素早くこなせるようになった。よく見ると、空気の中にはいろんな糸が浮かんでいた。見ようとすれば、それは見える」と思うのです。リトル・ピープルたちも「そう、その調子だ。それでいいぞ」と言います。

 「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていく」のが『空気さなぎ』だとすれば、取り出すのが「糸」なのですから、これは明らかに「さなぎ」ではなく「まゆ」です。天吾が「題名からして、さなぎとまゆを混同しています」というのは、このような小説の内容からだと思います。

 そして、空気の中にある「いろんな糸」を取りだして、すみかを作り、それをどんどん大きくしていく、という行為には「織物」の感覚がありますし、それを行う少女には「織姫」のイメージがあるのです。

 このように「ふかえり」が「織姫」なのではないかと、私が考える理由をもう1つ挙げてみましょう。紹介したように、中国の七夕神話を見てみると、川を渡っていくのは織姫のほうなのですが、『1Q84』の「ふかえり」にも水上を渡っていく女性のイメージがはっきりと記されています。

 『1Q84』BOOK3で、牛河という男が物語の視点人物に新たに加わります。つまりBOOK1、2では「天吾」と「青豆」の視点が交互に入れ替わる物語だったのが、BOOK3では「天吾」「青豆」「牛河」の3人の目から見た物語として展開していくのです。その牛河が、カルト集団「さきがけ」のリーダーを殺した青豆を追跡する目的で、天吾のアパートの部屋を監視していると、天吾の部屋にいた「ふかえり」が外に出てきて、牛河が彼女を追跡する場面があります。

 その時の「ふかえり」の歩き方は「歩くという行為にひたすら神経を集中していた。さざ波ひとつない広い湖面を歩いて横断しているみたいな歩き方だ。このような特別な歩き方をすれば、沈むこともなく靴を濡らすこともなく水面を歩くことができる。そういう秘法を会得しているかのようだ」と、牛河は思うのです。

 これは単なるレトリックとして村上春樹が記しているわけではありません。

 スーパーマーケットに入って買い物をして、店から出てきた「ふかえり」を尾行するときも「ふたつの買い物袋はかなり重そうだったが、少女は軽々と両腕にそれを抱え、水たまりを移動するアメンボウみたいにすいすいと道路を歩いていった」と村上春樹は記していて、「ふかえり」について水の上を自在に渡っていく女として、意識的に書いているように思えます。

 ここには中国型の七夕神話の織姫としての「ふかえり」が記されていると私は思います。

 少しだけ個人的なことを記しますと、私の生家は群馬県の織物業者でした。織物業という言葉も土地ではあまり使わず「機屋(はたや)」と自分たちの生業(なりわい)を呼んでいましたが、そういう家に生まれ育ったので、絹や繭や桑というものに興味が向いてしまうのかもしれません。

 折口信夫の『古代研究』の中に「水の女」というものがあって、その中に「たなばたつめ」という項があります。「たなばたつめ」は漢字で記せば「棚機津女」です。「棚機」とは「棚」(横板)のついた織機のこと。「たなばたつめ」は、その織機の中にいる女性で、織女のことです。

 折口によりますと、海辺、または海に通じる川の淵など、また山野では川や池・湖の近くの「水辺」を選んで建てられた建物の中に、神様の嫁となる、村の女から選ばれた処女が住んでいて、来たるべき神のために機(はた)を構えて、布を織っていました。

 「驚くばかり多い万葉の七夕歌」と折口も書いていますが、『万葉集』の七夕の歌の多さは、ほんとうにあきれるほどの数ですが、中国からの新しい外来知識に反応しただけでなく、そのような新知識が入ってくる前に「たなばたつめ」のようなものが日本にあって、それと外来の七夕神話が習合して、あのような大量の七夕歌が生まれたようです。

 確かに「来たるべき神のために機(はた)を構えて、布を織る」行為には「いにしへゆ織りてし服(はた)をこの夕(ゆふへ)衣に縫ひて君待つ我れを」という彦星の訪れを待つ日本型の織女を詠った万葉歌とつながるものがありますね。

 『1Q84』BOOK1の第4章に「ふかえり」と天吾が初めて出合う場面があります。その時、ふかえりが天吾の前で自分の髪を梳きます。

 「ふかえりはまっすぐな黒い髪に手をやり、少しのあいだ指ではさんで梳いていた。素敵な仕草だった。素敵な指だった。細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた。そこには何かしら呪術的なものさえ感じられた」

 そのように村上春樹は書いています。「ふかえり」はたいへんな美少女ですから、そんな仕草をされたら、まだ若い天吾もたまらないですね。

 でも篠田知和基さんの『竜蛇神と機織姫』という本によりますと、「水のほとりに現れる妖精は西洋でも髪を梳く。髪を梳くのは誘惑の仕種であるとともに、機織りや紡績を表す仕種でもある」と記されています。

 髪を梳く「ふかえり」が、そのような「機織りや紡績」の妖精、または神に仕える巫女のような女性であることを村上春樹は告げていたのかもしれません。その仕草に「そこには何かしら呪術的なものさえ感じられた」と書いているわけですから。

 古代社会の中で、繭から糸を紡ぎ、新しい布を織っていくことには、新しい秩序を織り上げていく、儀式的な側面もあったと思います。だからこそ世界中に機織り、織女の神話が残っているのでしよう。ふかえりが髪を梳くとき「細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた」と記されていますが、その言葉に、新しい世界の秩序の再構築への村上春樹の思いを感じるのです。

 神のために新しい布を織る「たなばたつめ」(棚機津女)は選ばれた処女でした。『1Q84』の中で、処女についてのことが繰り返し出てきますが、もしかしたら「たなばたつめ」(棚機津女)の話と関連しているのかもしれません。

 思えば『1Q84』は長い間、逢うことがかなわなかった「天吾」と「青豆」が、願いかなって再会する話です。私たちが知っている同型の神話では、七夕神話が一番なじみ深いものです。ですから七夕神話のことを考えるのは自然な成り行きですが、そのように読み始めるとちゃんと七夕神話が織り込まれた物語となっているのです。そのように私には読めます。

 冒頭紹介した天吾と編集者の小松との会話の中で、「こうなるともう惑星直列みたいなもんだ」と小松が言います。この「惑星直列」という言葉も、「ふかえり」と『空気さなぎ』が、天空の星々をめぐる天の川と七夕伝説につながっていることの予告としての発言であったのかもしれません。

 七夕神話の源流は、中国を越えて、イランあたりにまで求めることができるという研究もあるようです。『1Q84』という大長編は、そのような神話的な広がりの中で読まれるべき物語ではないかと、私は考えています。

 最後に、この回に引用した『万葉集』の歌と解釈は伊藤博さんの研究に従ったことを記しておきたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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