「村上春樹を読む」(19)「殺される王」と〈声を聴くもの〉 村上春樹作品と白川静文字学・その3

リーダーと青豆が『金枝篇』を語る『1Q84』BOOK2

 村上春樹の『1Q84』のBOOK3を読んで、やはり一番驚いたのは女主人公「青豆」が生きていたことでしょう。

 『1Q84』はBOOK1、2が2009年に刊行されましたが、青豆が登場してくる最後の場面は、高速道路上で拳銃の銃口を口の中に入れた青豆が愛する天吾のために死ぬことを思い、最後に「天吾くん」と言って、青豆が「そして引き金にあてた指に力を入れた」という一文で終わっていたのです。

 果たして青豆はそのまま死んでしまうのか…。はたまた助かるのか…。

 私の周辺にも翌年刊行された『1Q84』BOOK3を読んで、青豆が生きていたのでほっとした人、もう青豆は生きていないと思っていたのでちょっと不機嫌な人、などなどいろいろいました。

 皆さんがその次に『1Q84』BOOK3で驚いたのは、青豆が妊娠していたことではないでしょうか。私も青豆の妊娠には驚きました。いや、もっと重要な驚きは、青豆に殺害されたリーダーがトップであるカルト集団「さきがけ」の人たちが、その青豆の妊娠を知ったとたんに、青豆の追撃をやめてしまったことです。青豆追撃の方針を突如転換して青豆のお腹の子の確保に向かったことです。

 自分たちのリーダーを殺害した者を追撃しないのです。青豆の逃亡を助けているタマルが、さきがけ側と連絡をとると、さきがけ側は「我々は彼女に害をなすつもりはありません」「青豆さんをこれ以上追及するつもりはありません」と言うのです。

 この急の方針転換。その理由は「彼らは声を聴くものを必要としている」からなのです。

 青豆に対して、タマルも「つまりあんたのお腹の中にいる子供が、その〈声を聴くもの〉ということになるのか?」という疑問を投げかけています。

 なぜ青豆の「お腹の中にいる子供が、その〈声を聴くもの〉」になるのか、その理由については、前回のこのコラム「村上春樹を読む」で詳しく書きましたので、ここでは繰り返しません。未読の人、関心のある人はコラムの前号を読んでください。

 さて、このコラム「村上春樹を読む」では、ここ数回、漢字学の第一人者・白川静さんの文字学と村上春樹作品の繋がりについて記しているのですが、このさきがけ側が青豆追撃をやめた理由、〈声を聴くもの〉というものの存在は、白川静さんの漢字学を学んだものにとって、非常に親しみ深いものです。そのことを紹介しましょう。

 『1Q84』の中で〈声を聴くもの〉が、最初に読者に紹介されるのは、リーダー殺害のために、青豆とリーダーが対決する場面です。

 リーダーが青豆に「フレイザーの『金枝篇』を読んだことは?」と問います。イギリスの人類学者・フレイザーの代表作が『金枝篇』ですが、それについてリーダーは語ります。

 「興味深い本だ。それは様々な事実を我々に教えてくれる。歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて、彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった」

 これに続いて〈声を聴くもの〉のことが出てきます。

 「どうして王は殺されなくてはならなかったか? その時代にあっては王とは、人々の代表として〈声を聴くもの〉であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった」

 『金枝篇』と「殺される王」と言えば、村上春樹が大好きな映画、フランシス・コッポラがヴェトナム戦争を描いた『地獄の黙示録』を思う人もいると思います。

 『地獄の黙示録』に登場するカーツ大佐もカンボジアのジャングルの中に独立王国を築き、王のように君臨していました。そのカーツ大佐殺害の命令を受けたウィラード大尉によって、最後に「王」のようなカーツ大佐が殺されるという映画が『地獄の黙示録』ですが、そのカーツ大佐も『金枝篇』を読みながら、自分を殺しにやってくる人間を待っていました。

 そして『1Q84』のリーダーも自分を殺しに来る者を待つ王のような存在で、自分を殺しにきた青豆に『金枝篇』について語るのです。

 『地獄の黙示録』を見た人には、このリーダーの姿に『地獄の黙示録』でカーツ大佐を演じたマーロン・ブランドのことを思った人もいたようです。その場合、青豆はカーツ大佐を殺しに行くウィラード大尉ですね。

 そのようなことを指摘したうえで、でも私には、青豆に語りかけるリーダーの『金枝篇』についての話にも、白川静さんの考え方に響き合うものを感じるのです。そのことについて紹介しておきたいと思います。

 白川静さんの『中国古代の文化』という本の中に「殺される王」という項があって、そこで、やはりフレイザー『金枝篇』を引用して、古代の王たちが呪術師であり、最後には犠牲として殺される運命にあるものだったことが述べられています。

 例えば、ある系統の王によって治められていた南太平洋の珊瑚島では、その王は同時に大司祭であり、食物を増殖させると信じられていたので、飢饉が来ると民衆は怒って王を殺してしまったそうです。次々に殺害されるので、遂に誰も王の位に即くことを欲しなくなり、その王朝は没落してしまいました。また、朝鮮では作物が実らぬ場合は、王は譴責され、位から退けられたり、殺されたりしたそうです。こうした例が、『金枝篇』の中から紹介されているのです。

 白川静さんによると、古代中国では、王は神に仕える巫祝(聖職者)でした。神と交信・交通ができる者として、権力を形成している巫祝たちの長として存在していたのです。占いで、神と交信して、神の声を聴き、その聴いた神の声を記録するために生まれた道具が、後に漢字と呼ばれる文字です。ですから「王」はまさに〈声を聴くもの〉だったのです。

 『1Q84』で青豆がリーダーのいるホテルの部屋に入る前、リーダーについている者が「あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは、いうなれば聖域のようなところなのです」「これからあなたが目になさるものは、そして手に触れることになるものは、神聖なものです」と言います。

 その「聖域」「神聖」の「聖」という漢字こそが、神の〈声を聴くもの〉という文字なのです。この「聖」の「耳」の右にある「口」は顔にある「くち」ではなくて、前回のコラム「村上春樹を読む」で紹介したように、神様への祈りの言葉である祝詞(のりと)を入れる器「口」(サイ)です。

 「聖」の下の「王」に似た字形は「つま先で立つ人を横から見た姿」です。その神に祈り、つま先立ちで、耳を澄ませて、神のお告げを聴いている人の姿を文字にしたものが「聖」です。つまり、これは神の〈声を聴くもの〉を文字にしたものなのです。

 〈声を聴くもの〉の「聴」にも「耳」がありますが、この「聴」も〈声を聴くもの〉の文字です。その旧字「聽」の左部分は「耳」と、「聖」の下部にもある、つま先で立つ人の姿を合わせた形です。それに、「徳」の旧字の右部分を合わせた文字が「聽」という文字で、この「聴」は神のお告げを聴いて、理解できる聡明な人の「徳」のことを表した漢字です。

 ここで白川静さんの文字学全般について、述べたいわけではないのですが、村上春樹の作品で、白川静さんの文字学と響き合っているように感じられるものについて、もう少し紹介しておきたいのです。

 古代中国でも日照りが続く時には、巫祝たちが雨乞いの祈りをしました。それでも雨が降らないときには、巫祝自身が火で焼かれて、雨乞いの祈りに捧げられました。

 「嘆願」の「嘆」や「飢饉」の「饉」の右側や、「艱難」の「艱」の左側の字形はすべて「日照り」の意味で、それらは両手を縛られ、頭上に神様への祈りの言葉を入れる器「口」(サイ)を載せた巫祝たちが、下から火で焚殺されている姿を文字にしたものです。

 「嘆願」の「嘆」とは「祝詞を唱え、巫祝を焚き、雨を求めて神に嘆き訴えること」であると白川静さんは説明しています。つまり、日照りで雨のないことを「なげく」文字が「嘆」なのです。

 紹介したように古代中国の「王」は〈声を聴くもの〉の長、巫祝長(聖職者長)でしたから、さらに日照りが続けば、雨乞いのために「王」も自らの体を火で焼き、殺されてしまう存在でした。そのような「殺される王」として「王」があったことが、殷の始祖とされる湯(とう)の説話にも残っています。

 「古代の世界において、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。しかしもちろんのそのようなシステムはいつしか廃止され、王が殺されることもなくなり、王位は世俗的で世襲的なものになった。そのようにして人々は声を聴くことをやめた」

 リーダーは、そのように青豆に説明します。青豆が「そしてあなたは王になった」というと、リーダーは「王ではない。〈声を聴くもの〉になったのだ」と答えるのです。

 「古代の世界において、統治することは、神の声を聴くことと同義」ですから、「王ではない。〈声を聴くもの〉になったのだ」とは、世俗的・世襲的な王ではなく、「古代の王になった」という意味の言葉でしょうか。

 「あなたに命を奪ってもらいたいとわたしは思う」「どのような意味合いにおいても、わたしはもうこれ以上この世界に生きていない方がいい。世界のバランスを保つために抹殺されるべき人間なのだ」

 リーダーがそう言います。実に古代の王らしい言葉です。このように、この古代の「殺される王」の持つ力が〈声を聴くもの〉という言葉によって、『1Q84』の中で表されています。私はここにも、白川静さんの文字学が述べている古代中国の「殺される王」の世界と木霊のように響き合う村上春樹作品の世界を感じているのです。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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