「村上春樹を読む」(17)「今でも耳は切るのかい?」 村上春樹作品と白川静文字学・その1

村上春樹の『アフターダーク』と『スプートニクの恋人』(いずれも文庫本)

 講談社現代新書から『村上春樹を読みつくす』という本を出した際、村上春樹ファンの人たちから感想をいただいたのですが、その中に「一部、著者の深読みが過ぎる部分もあるが…」というような声もありました。知り合いで、その本を読んだ人たちにうかがってみると、白川静さんの漢字学に触れながら、私が『1Q84』の物語世界を読み解いている部分について、同じような感想を持っている人がおりました。

 私は漢字学の第一人者・白川静さんの最晩年の4年間、白川静さんから直接、漢字という文字の成り立ちを教えていただく機会があり、「白川文字学」と呼ばれる、その漢字学の世界、またそこから分かる古代中国の世界について、紹介する本を数冊書いております。その私の個人的な読書体験から、白川静さんの文字学と村上春樹作品を合わせて読み解き、書いているのではないかとの感想のようでした。

 小説作品の読みには「これが正解」というものがありません。各読者がまず自分なりの読み方で読むことが、一番大切なことだと私は思っていますし、このコラム「村上春樹を読む」で記していることも、私の個人的な読みにすぎません。

 ですから、そのような指摘が間違っているわけではありません。また村上春樹は自作についての自己解説を絶対にしない人なので、その作品は読者の前に自由に開かれています。これは素晴らしいことです。読者が自由に自分の感想を述べ合うことができるのです。

 私が、白川文字学と村上春樹作品の関係について記した部分についても、確かに私の個人的な読書体験を通しての妄想の一つにすぎないのですが、でもまったく根拠のない妄想でもありません。今回の「村上春樹を読む」は、その白川静さんの漢字学の一部を紹介しながら、白川文字学が村上春樹作品の物語と関係しているのではないかと、私が考える点について、具体的な例を挙げて、少し述べてみたいと思います。

 まず『アフターダーク』(2004年)から、白川文字学と村上春樹作品との関係を考えてみましょう。同作は主人公マリの姉エリが家で2カ月も眠り続けているので、いたたまれなくなったマリが家を出て、深夜の都会(私には渋谷のように思えます)をさまよう物語です。マリは中国語を学ぶ学生です。そして、この渋谷らしき場所にあるラブホテルで、中国人の娼婦が日本人の客から暴行を受けて、犯人は逃走してしまいます。マリは中国語が話せるために、暴行を受けた中国人娼婦の通訳のようなことをすることになり、物語の世界が展開していくのです。

 中国人娼婦に暴行した男を探して、中国人の組織の男が大型バイクに乗り、ラブホテル周辺にやってきます。そこでラブホテル「アルファヴィル」のマネージャーの「カオル」という女性が、その中国人の男と会話を交わす場面が『アフターダーク』にあります。

 カオルは元女子プロレスの悪役で活躍した経歴の人ですが、29歳の時に引退して、今はそのラブホテルの用心棒的なマネージャーをしています。そのカオルが「アルファヴィル」のモニター画面に写っていた暴行犯の男の写真があるよ、と電話をしたので、中国人の組織の男がバイクに乗って、写真を受け取りに来たのです。

 カオルは、その男に次のように言います。

 「今でも耳は切るのかい?」とカオルが聞くと、中国人組織の男が「命はひとつしかない。耳は二つある」と答えます。

 「そうかもしれないけどさ、ひとつなくなると眼鏡がかけられなくなる」とカオルが言うと、男も「不便だ」と応えて、2人の会話は終わっています。

 このやりとりは、ユーモアセンスもあって、いかにも村上春樹らしい会話でしょう。

 でも、その会話の「今でも耳は切るのかい?」は、少し意味を受け取りがたい部分ではないでしょうか?

 これは「カク耳(かくじ)」と呼ばれる行為です。「カク」の文字がネット上では表記できなくて残念ですが、「馘」という文字の「首」の部分が「耳」となった漢字です。つまり「耳」偏に「或」を合わせた文字です。

 「取」という文字は、見て分かるように「耳」と「又」を合わせた文字です。この「又」の形は、甲骨文字など3000年前の文字ならば、誰でも分かる形なのですが、「手」を表す形をしています。「耳」に、その「手」を加えた「取」という文字は、白川静さんの漢字学によれば「死者の耳を、手で切り取っている」文字なのです。

 戦争の際に討ち取った敵の遺体を一つ一つ運ぶのはたいへんな労力なので、敵の遺体の左耳を切り取り、その数で戦功を数えたのです。その行為が「カク耳」です。「馘首(かくしゅ)」という言葉は「首を切る」ことですが、耳を切ることを「カク耳」と言います。

 凱旋の際には、先祖の霊を祭る廟に「カク耳」した「耳」を献じたそうです。戦場で多くの耳を取る人がいたのでしょう。「取」は後にすべてのものを「とる」意味になりました。

 白川静さんが住んでいた京都、また村上春樹の生地でもある京都に耳塚がありますが、これも「カク耳」の跡です。豊臣秀吉の朝鮮侵略の時に、武将たちが戦功の証拠として持ち帰った耳を集めた塚です。非戦闘員の耳まで切っていたようで、江戸時代に来日した朝鮮通信使たちが、江戸へ向かう途中、この耳塚を見て、たいへん心を痛めたという話もあります。

 「今でも耳は切るのかい?」というカオルの言葉は、この「カク耳」についての質問です。中国人組織の男の「命はひとつしかない。耳は二つある」という答えも、左耳だけを切り取る「カク耳」を前提にした答えです。左耳だけを切るのは、両方の耳を切り取ったら、討ち取った敵の人数が倍になってしまうからです。両方の耳は切り取らないのです。そういう文化を前提にした会話なのです。

 ちなみに「最」という文字にも「取」の字形が含まれていますが、この「最」の「曰」の部分は、頭巾や袋のことです。この「最」の古代の文字では袋(頭巾)のようなものが「取」の字形を覆っています。きっと戦場で「耳」をたくさん取りすぎて袋に入れて持っていたのでしょう。最も多くの耳を集めた、その者を「最」と言いました。あまり良い言葉ではないですが、「最高殊勲戦士」が「最」のもともとの意味です。

 ですから、この『アフターダーク』の「今でも耳は切るのかい?」というカオルの言葉は、命はひとつしかないけど、「今でも戦争をするのかい?」という意味にも受け取ることができる言葉です。

 さて、その「取」が、ただ「カク耳」のことを表しているだけでしたら、それは村上春樹の中にある、古代中国文化への知識が表出されているだけで、取り立てて、この「村上春樹を読む」で取りあげる必要もないと思います。

 でも、ラブホテルで中国人娼婦に暴行した男の名前は「白川」というのです。白川静さんは偉大な学者であるとともに、たいへんな人格者でもありました。ですから「白川」が悪人の名前につけられているのはおかしいと思う人もいるかもしれません。しかし、村上春樹という作家は、そのように敢えて価値を反転させて記したり、名付けたりすることがある作家だと、私は思っています。このことが村上春樹作品を単純に読み解くことを阻んでいますし、計量的にはかることも阻んでいる点なのだと、考えております。

 ですから「白川」が中国人娼婦にひどい暴行を加えたからといって、では「白川静さん」と無関係であるとは言えないと思うのです。

 その犯人の男(白川)は「この近辺の会社で働いているサラリーマンらしい。夜中に仕事をすることが多くて、前にもここに女を呼んだことがあるみたいだ。おたくの常連かもな」とカオルが、白川の顔写真を中国人の男に渡しながら話しています。実際、『アフターダーク』での白川は同僚たちが帰ってしまった後のオフィスで「彼の机のある部分だけを、蛍光灯の光が天上から照らしている」中、1人だけ残って仕事をしています。

 1人、仕事場に残って、仕事をすることは、文字学者としての白川静さんもそうでした。

 高橋和巳が、その死の直前の1971年3月に刊行した『わが解体』の中で、大学紛争時代の立命館大学で、夜遅くまで研究を続ける白川静さんについて書いた部分があります。少し長いですが、そのところを引用してみます。

 「立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後十一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明りが気になって仕方がない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変るという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。

 たった一人の偉丈夫の存在が、その大学の、いや少くともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる」

 そのように高橋和巳はS教授(白川静さん)のことを書いています。この高橋が立命館大学の講師として採用される時に、4人の候補者の中から高橋を選抜したのが白川静さんでした。高橋の書いた「六朝期の文学論」がとても優れていたので、白川静さんが高橋を選んだのだそうです。そんな関係もあっての『わが解体』の文章なのかもしれません。

 そして『アフターダーク』には、マリと知り合いとなる「高橋」という青年が登場します。つまり「白川」と「高橋」なのです。「白川」と「高橋」となると、つい私は、夜、煌々と蛍光灯がともる下で、漢字学、さらに中国文学や日本の万葉集の研究を続けた白川静さんのことを考えしまうのです。まだ世間的には、それほど有名人ではなかった白川静さんのことを、大学内の「抗争の思想的次元を上におしあげる」偉大な存在として、最大級の賛辞を持って書き記した高橋和巳のことを思ってしまうのです。

 でもこれだけでは、まだやはり私の妄想と言われても仕方がないかもしれません。

 そこで『アフターダーク』の中で村上春樹が、この「白川」という男と中国人の関係を意識的に記述していると思われる場面があるので、その部分を紹介しましょう。

 「白川」は午前4時ぐらいまで、仕事をしてタクシーで「哲学堂」にある自宅に帰ります。白川の乗ったタクシーはしばらく進んだところで赤信号で停車します。するとその隣に、例のバイクに乗った中国人の男が停車するのです。「タクシーのとなりで、中国人の男の乗った黒いホンダのバイクがやはり信号待ちをしている。二人のあいだはわずか一メートルほどの距離しかない。しかしバイクの男は、まっすぐ前を見ており、白川には気づかない。白川はシートの中に深く沈み込んで、目を閉じている」と記されているのです。この時、「白川」は漢字の母国・中国の男と、わずか1メートルほどの至近距離にいる人として描かれています。

 さらに、この「白川」が、まだ1人で仕事場にいる時に自宅の妻から電話がかかってくるのですが、妻は「夜食に何を食べたのか」をききます。すると「白川」は「ああ、中華料理。いつも同じだよ」と答えています。村上春樹の中華料理嫌いは有名ですし、このコラム「村上春樹を読む」でも、そのことを紹介したことがあります。“中華料理をいつも食べている白川”という人物は、私には“中国の文字をいつも研究している白川静”とも受け取れてしかたがないのです。

 『アフターダーク』における以上のようなことが、私が考える村上春樹作品と白川静さんの文字学との関係の第一歩ですが、実はそれよりも前の作品『スプートニクの恋人』(1999年)にも、白川文字学についてのことを述べているのではないかと感じられる部分があるので、そのことも紹介しましょう。

 「昔の中国の都市には、高い城壁がはりめぐらされていて、城壁にはいくつかの大きな立派な門があった」ということを、この長編の語り手である「ぼく」が「すみれ」に言う場面があります。「すみれ」は職業的作家になることを決意して、苦闘している女性ですが、その「すみれ」に「ぼく」は恋をしているという設定で物語が始まっています。

 「門は重要な意味を持つものとして考えられていた。人が出たり入ったりする扉というだけではなく、そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ」と「ぼく」は語ります。さらに「昔の中国の人たちがどうやって街の門を作ったか知ってる?」と「ぼく」がたずねると、「知らない」とすみれが言います。

 「人々は荷馬車を引いて古戦場に行き、そこに散らばったり埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして町の入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を探剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ」と、「ぼく」は語ります。

 これは白川静さんの文字学でいうと、「京」と「就」という文字に表れている古代中国の思想です。私には、そのように思えます。

 「京」はアーチ状の門の形で、上に望楼などが設けてある門をそのまま文字にした象形文字です。これを軍営や都城の入り口に建てたもので「京観(けいかん)」と言います。

 古代中国で、この「京観」を作る時、戦場での敵の遺棄死体を集めて、それを塗り込んで築きました。のちの凱旋門にあたるものです。そのようにすると、強い呪力があると考えられていたのです。紹介したように、「門」は人が出たり入ったりする扉というだけではなく「そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ」と村上春樹は書いていますが、白川静さんも、その「京はもと聖域の門をいう字であった」と述べています。そのような門を表している象形文字が「京」という漢字です。

 その「京」が完成する時に、生け贄の「犬」が埋められたり、殺された「犬」の血が門にかけられました。その殺された「犬」の血が「京」にかけられているのが、「就」という文字です。

 「就」の右側の字形が、生け贄の「犬」です。その殺された「犬」の血がかけられることによって、凱旋門「京」が完成、成就するので「就」の文字ができたのです。

 「ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる」と「ぼく」は「すみれ」に言います。

 さらに「小説を書くのもそれに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作ってもそれだけでは生きた小説にならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」と言うのです。これは村上春樹が自分の物語論を語っている部分でしょう。

 「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ?」。そのように、すみれが言うと、ぼくはうなずきます。でもすみれが「できたら動物は殺したくないな」と言うと、ぼくは「もちろん比喩的な意味でだよ」「ほんとに犬を殺すわけじゃない」と言うのです。 

 この場面は『スプートニクの恋人』という物語全体を述べているような場面でもあると、私は思います。なぜなら同作には数カ所だけゴチック体で記された部分があるのですが、「いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです」という言葉が、その一つですし、「血は流されなくてはならない」というゴチック体での言葉の後に「わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない」という言葉が、すみれの書き残した文章の中に記されてもいるのです。

 この『スプートニクの恋人』の最後は『ノルウェイの森』(1987年)のラストと非常によく似た場面で終わっています。死者である「すみれ」が、まるで霊のようにして「ぼく」のところに電話をかけてきます。「今どこにいる?」と「ぼく」が聞くと、「昔なつかしい古典的な電話ボックスの中よ」と「すみれ」が答えます。

 これは『ノルウェイの森』の最後に「僕」が電話ボックスから「緑」に電話する場面と対応しているところです。『ノルウェイの森』では「あなた、今どこにいるの?」と「緑」から「僕」が尋ねられる場面です。「古典的な電話ボックスの中よ」というのは携帯電話世代からすると、しだいに町から消えつつある「公衆電話ボックス」のようにも読めるかもしれませんが、もちろん『ノルウェイの森』の最後に登場していた「電話ボックス」のことでもあると思います。

 そして、その『スプートニクの恋人』の最後にも「ねえ、わたしはどこかで―どこかわけのわからないところで―何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門をつくるときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できている?」と、今度は「すみれ」が「ぼく」に問うのです。それに「できていると思う」と「ぼく」が答えると「すみれ」は「ここに迎えにきて」と最後に言うのです。

 そして『1Q84』Book1(2009年)の最後にも、「犬」が血なまぐさく殺される場面が出てきます。

 『1Q84』の女主人公の「青豆」に「リーダー」の殺害を依頼する老婦人は、男性から暴行を受けた女性たちを保護する施設・セーフハウスをもっているのですが、その施設の門の近くに「ブン」という名の雌のドイツ・シェパードが番犬として飼われています。

 そのブンは「なぜか生のほうれん草を好んで食べる」という、けったいな犬ですが(ちょっと、ポパイみたいですね)、そのブンがある日、腹の中に強力な爆弾をしかけられて、それが爆発したかのように、ばらばらになって、肉片が四方八方に飛び散って死んでいたのです。

 そして『1Q84』Book2の冒頭も、そんな「血なまぐさい」死に方をしたブンの話から始まっていて、この「犬」の死にショックを受けた「つばさ」という少女がセーフハウスから、いなくなります。そして「リーダー」の殺害という方向に物語が大きく動き出していくのです。つまり『1Q84』のBook1とBook2とを、殺された「犬の血」がつないでいるとも言える物語となっていて、私は、ここにも『スプートニクの恋人』の「ぼく」が言うような「こっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼」のようなものを感じるのです。

 『スプートニクの恋人』というタイトルは、ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星・スプートニク号からとられています。本文が始まる前の扉のところに、[スプートニク]とあって、1957年10月4日に第1号が打ち上げられ、翌月3日にはライカ犬を乗せたスプートニク2号が成功して、そのライカ犬は「宇宙空間に出た最初の動物となるが、衛星は回収されず、宇宙における生物研究の犠牲となった」とあります。これまで、私が述べてきたことの延長線上に考えてみると、この宇宙研究のために生け贄となった「犬」をのせたスプートニク2号のほうに、大きな比重をおいたタイトルだと言えると思います。

 その『スプートニクの恋人』の中で、失踪した「すみれ」が〈人が撃たれたら、血は流れるものだ〉と書き残していました。

 昔、サム・ペキンパーの監督した『ワイルド・バンチ』が公開されたときに、一人の女性ジャーナリストが記者会見の席で手を挙げて質問しました。「いったいどのような理由で、あれほどの大量の流血の描写が必要なのですか?」と。

 すると出演俳優のアーネスト・ボーグナイン(つい最近亡くなってしまいましたね)が、困惑した顏で「いいですか、レディー、人が撃たれたら血は流れるものなんです」と答えたそうです。「すみれ」の〈人が撃たれたら、血は流れるものだ〉はここからとられた言葉です。続いて「この映画が制作されたのはヴェトナム戦争がまっさかりの時代だった」とあるので、その血が「戦争」や人の「命」の姿をも語っているのでしょう。

       ☆

 さて『スプートニクの恋人』には、次のような「犬」の話も載っています。それを紹介して、今回のコラム「村上春樹を読む」を終わりにしたいと思います。

 『スプートニクの恋人』の「ぼく」は小学校の教師で、自分の教え子の母親と付き合ってもいるのですが、物語の終盤、その教え子がスーパーマーケットで万引きをして警備員に捕まってしまいます。その教え子を引き取りに行っての帰り、その教え子に「ぼく」は「犬」ことを語るのです。自分が小学生の時、犬を飼っていて、その犬が好きで、家族の中で、その犬のことだけはすごく好きだったのに、小学校5年生のときに、家の近くでトラックにはねられて死んでしまったことを、その教え子に話すのです。

 その「犬が死んでからというもの、ぼくは部屋に一人でこもって本ばかり読むようになった」ことが語られ、それからは「一人で考えて、結論を出して、一人で行動した」というふうになったというのです。

 ここでも「犬」の犠牲が、「ぼく」を転換させているのです。でもその「ぼく」の語りは、さらに「ぼく」が大学生時代の友だち(すみれ)と会ってから、「少し違う考え方をするようになった」こと、「ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった」というふうに進んでいくのです。

 そこの「ぼく」の語りは、本のページにしたらかなり短いものなのですが、それをたどってみると、単に「犬」の死によって「ぼく」が変化したのではなくて、すごく好きだった「犬」の死を転換点にして、そこから「ぼく」が成長していったことが話されています。

 そして「ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった」という、その感情について「雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ」と、その「ものすごくさびしい」気持ちの姿を教え子に「ぼく」は伝えるのです。

 「たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうんなんだ。君も一度見てみるといいよ」と「ぼく」が言うのです。

 私はこの文章を繰り返し、何度も読んでいるのですが、そのたびに立ち止まり、私の中にとても深い印象を残します。でも、その文章のよさを的確に述べることができません。こういうところが小説を読む、最大の楽しみですね。

 実は『1Q84』と白川静さんの文字学の関係について、より具体的に記すつもりでした。でもここまででも、かなり長いコラムとなってしまいました。

 村上春樹作品と白川静さんの文字学の関係を追って、とても深い印象を残すが、その意味をうまく伝えることができない、小説を読むことのそんな楽しさにまで通達したことを喜びとして、今回のコラム「村上春樹を読む」はこのあたりで終わりにしたいと思います。

 次回は『1Q84』と白川静さんの文字学の関係ついて、より具体的に記してみたいと思っています。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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