「村上春樹を読む」(8)「死者」と「霊魂」の世界への入口 「旭川」と「高松」・その1

左から『ノルウェイの森』(下)、『ダンス・ダンス・ダンス』(上)、『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)

 先日、出張で「旭川」まで行ってきました。旭川は人口35万人、札幌に次ぐ北海道第2の都市です。碁盤の目のように通りがきれいに交差していて、古代の都市の条坊制、また耕作地の条里制に似たようなつくりの街で、なかなか素敵なところでした。

 別に今回は村上春樹の小説の取材のために、「旭川」を訪れたわけではないのですが、その旅の間に、何度か村上春樹のことを思い出しました。それは村上作品の中に「旭川」が繰り返し登場するからなのです。

 「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」。2010年末公開の映画『ノルウェイの森』でも、こんな謎のような言葉が、宣伝映像に使われ、全国の書店で繰り返し流されておりました。今回のコラム「村上春樹を読む」は、その「旭川」が、なぜ村上作品に多く登場するのかという問題について、少し考えてみたいと思います。

 「旭川」の登場で、一番有名な作品は『羊をめぐる冒険』(1982年)と『ノルウェイの森』(1987年)ですが、前記した『ノルウェイの森』のほうの「旭川」から先に紹介してみましょう。

 この長編小説には、ビートルズの「ノルウェイの森」が好きな「直子」という女性が出てきます。直子は森の奥で自殺してしまう人です。また同作には、もう1人、生命力あふれる「緑」という女性が登場します。その対照的な2人の女性の間を主人公の「僕」が揺れ動きながら展開していく物語が『ノルウェイの森』です。

 そして直子のほうは精神を病み、京都のサナトリウム・阿美寮に入っているのですが、この寮で直子は「レイコ」という女性と同室になっています。ですから「僕」が直子の所に会いに行くと、レイコさんとも会い、よく話をするという具合に話が進んでいきます。

 「旭川」のことは、このレイコさんと「僕」の会話の中に出てきます。直子が森の中で死んだ後、レイコさんはサナトリウムを出て、京都から「旭川」に行く途中、東京の「僕」の所に、会いに来ます。

 レイコさんが「旭川」に行くのは、彼女が音大生だった時に仲の良かった友人が「旭川」で音楽教室をやっていて、手伝わないかと誘われていたからです。

 「僕」の家に立ち寄ったレイコさんは、ギターでビートルズの「ノルウェイの森」「イエスタデイ」などを弾き、ボブ・ディラン、ビーチボーイズの曲なども弾いて、51曲目にバッハのフーガを演奏します。そして、その後に2人が関係するのです。

 「僕」よりも、レイコさんは19歳も年上の女性ですが、それは素晴しいセックスだったようで、「僕」は「ねえ、レイコさん」「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴しいのにもったいないという気がしますね」と言います。

 これに対して、レイコさんが言う言葉が「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」です。

 レイコさんが「僕」の家に来て、最初に話す場面あたりでは、「これから先どうするんですか、レイコさんは?」と「僕」が聞きます。するとレイコさんが「旭川に行くのよ。ねえ旭川よ!」と言って、紹介したように音大時代の友達に誘われていることを話すのですが、サナトリウムから「やっと自由の身になって、行き先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」と言います。

 「そんなにひどくないですよ」と「僕」は笑い、「一度行ったことあるけれど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね」とも言っているのですが、これらのレイコさんの発言は旭川関係者には、かなりショッキングな言葉だったようです。

 実際、インターネットなどで旭川在住または旭川の関係者らしい村上春樹ファンの書き込みなどを読んでいますと、このレイコさんの「旭川」に対する「あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところ」と「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」という発言に、かなり傷ついているような感じを受けます。「いくらなんでもちょっとひどくないですか…」という感じです。

 そこで、今回と次回を通して、どういう発想からレイコさんは「人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」とつぶやくのか、なぜ「旭川」は「作りそこねた落とし穴みたいなところ」なのかということについて、考えてみたいと思うのです。結果的に旭川関係の村上春樹ファンのみなさんに、これまでとは少し異なる意味で、それらの言葉が伝わってくるようになればと思っています。

 この「旭川」が登場する最初の長編は『羊をめぐる冒険』です。この長編では行方不明となっている友人の「鼠」を捜して、「十二滝町」という北海道の果てにある町へと、主人公の「僕」が旅をします。

 「僕」は札幌から「旭川」に向かうのですが、目指す「十二滝町」は「旭川」で列車を乗り換えて、塩狩峠を越え、さらに奥へ進んだところにある町です。そこは「これより先には人は住めない」という場所です。

 そこで「僕」は頭からすっぽり羊の皮をかぶった「羊男」と出会います。「羊男」は「十二滝町」のさらに山の上の古い牧場跡に住んでいるのです。そこは雪の季節には人の往来も途絶える場所なのです。

 「羊男」と出会った「僕」が「どうしてここに隠れて住むようになったの?」と質問すると、「羊男」は「戦争に行きたくなかったからさ」と答えています。つまり羊男は戦争忌避者で、それゆえに、これより先には人は住めない土地、人の往来も途絶える場所に隠れ住んでいるのです。

 そこの土地には「鼠」の父親の別荘があって、「僕」が「羊男」と会うのもその別荘です。そして捜していた「鼠」が「羊男」の姿を借りて、「僕」の前にあらわれます。

 さらに真っ暗な闇の中で「僕」は「鼠」と対話をするのですが、「鼠」は既に死んでいることが、鼠自身から明かされます。戦争忌避者である「羊男」にも日露戦争をはじめとする戦争の死者の姿が重なってきます。日露戦争で日本の兵隊たちは羊毛の防寒具を着て戦い、亡くなっているからです。

 その「十二滝町」に向かう「僕」が札幌から「旭川」へ行く早朝の列車の中でビールを飲みながら箱入りの分厚い『十二滝町の歴史』を読みふける場面が『羊をめぐる冒険』にあります。それは明治13年(1880年)から昭和45年(1970年)までの90年間の歴史です。その間に日本人はたくさんの戦争を経験し、多くの人が亡くなりました。

 このように『羊をめぐる冒険』という長編は主人公「僕」の友人「鼠」を捜す旅が、戦争の多かった日本の近代史を探る旅にも繋がっていくように書かれているのです。

 その旅の終着点「十二滝町」は、これより先には人は住めない土地です。さらに山の上の古い牧場跡は、人の往来も途絶える場所。つまり、そこは「死者の世界」「霊魂の世界」です。「鼠」も「羊男」も、その「死者の世界」「霊魂の世界」に住む人たちなのです。

 そして、この「死者の世界」「霊魂の世界」への入口に位置するのが「旭川」なのです。「旭川」が村上春樹の作品に出てくる時、それは必ずと言っていいほど、「死者の世界」や「霊魂の世界」と繋がっているのです。

 その例を具体的に列挙してみましょう。

 例えば『ノルウェイの森』の次の長編である『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)にも「旭川」が出てきます。

 『ダンス・ダンス・ダンス』は『羊をめぐる冒険』の続編的な作品ですが、この長編には、ホテルのフロントで働いている「ユミヨシさん」という23歳の女性が出てきます。主人公の「僕」は眼鏡がよく似合う、感じの良いユミヨシさんに好意を抱きます。

 そのユミヨシさんが勤務し、「僕」が宿泊する「ドルフィン・ホテル」で、ある日、ユミヨシさんがエレベーターから出て、16階の廊下に立って、ふと気づくと、あたりが真っ暗で闇の世界です。エレベーターの方へ振り返ってみても、エレベーターのスイッチ・ランプも消えています。

 「全部死んじゃったのよ、完全に。そりゃ怖かったわ。当たり前でしょう? 真っ暗な中に私一人きりなんですもの」と、その時の恐怖をユミヨシさんは「僕」に語ります。

 さらに「僕」も、この真っ暗な闇の世界に侵入し、そこに住む「羊男」と会話をする場面が『ダンス・ダンス・ダンス』にありますし、物語の最後には「僕」とユミヨシさんが一緒に、この闇の世界に入る場面もあります。

 この16階の真っ暗な闇は『羊をめぐる冒険』で「僕」と「鼠」が出会い会話した、あの闇の世界と繋がっています。つまり「ドルフィン・ホテル」の16階の闇の世界も「死者の世界」「霊魂の世界」のことなのです。

 さて、そして、このユミヨシさんについて「彼女の実家は旭川の近くで旅館を経営して」いると村上春樹は書いているのです。つまり「闇の世界」に入るユミヨシさんは「旭川」近くの出身なのです。

 そのユミヨシさんに対して、「僕」は「フロントに立っていると君は何だかホテルの精みたいに見える」と言います。「ホテルの精?」「素敵な言葉。そういうのになれたら素敵でしょうね」とユミヨシさんが応えると、「僕」は「君なら、努力すればなれる」と加えるのです。この「ホテルの精」とは「ホテルの精霊」のことです。ユミヨシさんは「精霊」、すなわち「霊魂の世界」に近い人で、その実家が「旭川」近くなのです。

 ユミヨシさんは真っ暗な闇の世界に侵入することができる人ですし、そこで「全部死んじゃったのよ、完全に」と感じることができる人です。ここにも「旭川」と「死者の世界」「霊魂の世界」の繋がりがあります。

 また『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)にも「旭川」は何度か出てきます。この大長編は「僕」が突然行方不明になった妻・クミコを捜し続けて、取り戻す物語です。でも、その「僕」とクミコの結婚は、妻の実家の反対に遭っていました。

 しかし実家が信頼する老霊能者の本田さんが、結婚に反対したら「非常に悪い結果をもたらすことになる」と断言してくれたので、2人は結婚できたのです。この本田さんはノモンハン事件の生き残りでした。本田さんはかなり有名な占い師だったのですが、その本田さんが死に、形見分けのために戦友の間宮中尉が「僕」たち夫婦の所にやってきて、ノモンハン事件でのことを語ります。

 こうやって1984年、85年ごろの日本社会と、日中戦争に突入していく時代の日本の姿が重ね合わされて進んでいく物語が『ねじまき鳥クロニクル』なのです。

 そして亡くなった老霊能者・本田さんの故郷が、また「旭川」なのです。ここでも戦争という「死者の世界」、霊能者という「霊魂の世界」とが「旭川」で繋がっています。

 『ねじまき鳥クロニクル』で「旭川」が出てくる例をもう1つ紹介してみましょう。

 それは『ねじまき鳥クロニクル』の第3部で最も重要な場面です。妻・クミコを向こう側に連れ去ってしまった妻の兄・綿谷ノボルと「僕」が対決するところです。

 ホテルのロビーの大型モニターテレビでNHKのニュース番組を放送していて、衆議院議員の綿谷ノボルが暴漢に襲われて重傷を負ったというニュースが伝えられます。

 そのニュースが放送される直前に「旭川では大雪が降って、視界不良と道路凍結のために観光バスがトラックと衝突して運転手が死亡し、温泉旅行に行く途中の団体観光客が何人か負傷した」という「死亡事故」のニュースが流れる場面があります。

 ここにも「旭川」と「死者の世界」との繋がりが書かれているのです。さらに、そのニュースを読むアナウンサーの抑制した口調を聞いて「僕は占い師の本田さんの家のテレビを思いだした」と、わざわざ村上春樹は書き加えています。本田さんはいつも家のテレビのチャンネルをNHKに合わせていたからです。この場面は「旭川」の「死亡事故」が「死者の世界」と、「旭川」出身の霊能者・本田さんが「霊魂の世界」と繋がっていることを意識的に村上春樹は書いているのです。

 以上、村上春樹の小説の中では「旭川」が「死者の世界」「霊魂の世界」と繋がる土地であることについて紹介してきました。そのことをしっかり頭に入れておいてください。

 さてここで最初の問題である、レイコさんは、どんな発想から「人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」とつぶやいたのかという問題に戻ってみたいと思います。

 ここは話を分かりやすくするために、結論の部分を先に書いてしまいましょう。

 私は、この「レイコさん」とは「レイコン」「霊魂」のことではないかと考えています。「レイコさん」には「石田玲子」という名前があるのですが、でも作中は一貫して「レイコさん」と呼ばれています。これは「レイコ」が「霊子」であり、「レイコさん」は「レイコン」「霊魂」を表す名前ではないかと、私は思っているのです。

 その理由を以下、述べてみたいと思います。レイコさんが、「僕」に会いに来るとき、ツイードの上着と素敵な柄のマドラス・チェックの半袖のシャツを着てきます。それらの服装はすべてが死んだ直子のものです。

 レイコさんと直子は洋服のサイズが殆ど一緒でした。直子は死ぬ時、誰にあてても遺書を書かなかったのですが、「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」という走り書きをメモ用紙に書き、机の上に残していたのです。

 レイコさんは、その直子の洋服を着て、新幹線に乗って、東京に来ます。その新幹線のことを「棺桶みたいな電車」とレイコさんは言います。窓が開かないからでしょうか。

 この「棺桶みたいな電車」に乗って、直子の服を着て「僕」に会いに来る、直子と同じ体型のレイコさんとは、つまり死んだ直子のお化けです。直子のレイコン・霊魂です。

 「私はもう終ってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」

 こんなことをレイコさんは「僕」に言います。この言葉もレイコさんが既に死者であり、直子のレイコン・霊魂であることを頭に入れて読んでみれば、よく受け取れると思います。

 『ノルウェイの森』の冒頭、直子は繰り返し「私のことを覚えていてほしいの」と言います。このように同作で、直子は大切な記憶の化身のようにしてあるのですが、『ノルウェイの森』の最後にレイコさんもまた「僕」に「私のこと忘れないでね」と、全く同じ意味のことを言います。これもレイコさんが直子のお化け、霊魂であることを示しています。

 そして「僕」はレイコさんと交わります。なぜ「僕」が19歳も年上のレイコさんとセックスをしなくてはならないのか。それはレイコさんが直子だからです。レイコさんが直子のお化けであり、直子のレイコン・霊魂だからなのです。

 このレイコさんと「僕」について「結局その夜我々は四回交った」とあります。さらに「四回の性交のあとで」と、村上春樹は「四回」を強調するように繰り返し書いています。

 そして、この「四回」も私には「死回」「死界」と読めます。「死の世界」のセックスと受け取れるのです。それは、ちょっと考えすぎではないかと思うかもしれません。これだけの紹介ですと、そのような疑問を抱くかたも多いかと思いますが、でも村上春樹には「四」という数字に対するたいへんなこだわりがあります。その具体的な「四」(死)への数多くのこだわりについては『村上春樹を読みつくす』という本の中で詳述しましたので、そちらを読んでください。

 ただ今回のコラムでとりあげた中から、一例だけ紹介しておけば、『ダンス・ダンス・ダンス』の「ドルフィン・ホテル」の16階の真っ暗な闇の「死者の世界」「霊魂の世界」に「羊男」が住んでいる理由にも村上春樹の「四」(死)へのこだわりがあります。これはおそらく、4(死)×4(死)=16だから、「羊男」は16階にいるのでしょう。

 さてさて以上で、『ノルウェイの森』の最後、「僕」に会いに来るレイコさんは、直子のお化け、直子のレイコン・霊魂ということを理解していただけたでしょうか。

 その霊魂であるレイコさんが、向かう土地が「旭川」なのです。そんな「旭川」は、これより先には人は住めない土地「十二滝町」、人の往来も途絶える場所である暗闇の世界、あの「死者の世界」や「霊魂の世界」への入口の土地なのです。

 霊魂であるレイコさんが「死者の世界」「霊魂の世界」への入口の「旭川」に行くのです。これが「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」とレイコさんがつぶやくことの理由でしょう。

 霊魂は「恋なんてするものなのかしら?」、まして「霊魂の世界」への入口の「旭川」で「恋なんてするものなのかしら?」という意味のレイコさんの言葉だと、私は思います。

 ですから現実の旭川の人たちが恋をできないという意味ではありません。村上春樹の作品世界の中で「旭川」は「霊魂の世界」「死者の世界」への入口として、描かれているという意味です。

 さて、その霊魂であるレイコさんが「僕」にこう言います。

 「辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ」と言うのです。

 これは村上春樹の小説にとって、霊的なものとの対話、死者との対話、死者に対する記憶(歴史も含みます)が、とても重要だということをよく示している言葉です。

 大切なものを失ったとき、私たちはほんとうの自分の心の姿に気がつきます。

 ある場合は、大切なものを失っていることにすら、ふだん気がつかないときもありますが、でも人は、その大切なものを失っていることに、ふと気づくことがあります。その時、人は成長するのです。

 亡くなった人で、記憶に深く残っている人は、自分がこれまで生きてきたなかで、とても大切な人だからです。そういう大切な記憶、大切な人(忘れられない死者)と対話することで、人は成長していくのです。

 村上春樹の小説をことさら難しく読む必要はありません。村上春樹は一貫して、そういう人間の成長、成長することの大切さということを書いているのです。そこから聞こえてくるものに耳を澄ませながら読むことが、村上春樹の作品を読む際の最大のポイントだと、私は考えています。

 そうそう、「旭川」は「作りそこねた落とし穴みたいなところ」とレイコさんは言いました。それはどんな意味なのか。そのことについては、次のこのコラムで、四国の「高松」についても取りあげながら、考えてみたいと思います。(小山鉄郎・共同通信編集委員)

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