「村上春樹を読む」(6) 消えてしまった海 「1963年」へのこだわり・その1

左から『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険(上)』『カンガルー日和』

 佐々木マキの自選マンガ集『うみべのまち』が、今年7月に刊行され、版を重ねています。佐々木マキは村上春樹の初期三部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』などの表紙の絵でも知られるマンガ家で、村上春樹が、その『うみべのまち』の帯に推薦の言葉を書いています。

 それによると、1960年代の後半、高校時代に神戸に住んでいた村上春樹は、新しいスタイルのコミックを興奮して読んでいて、中でも佐々木マキの作品に圧倒的な新鮮さを感じていたようです。だから最初の小説『風の歌を聴け』の単行本化が決まると、「その表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなくてはならなかった」と書いています。

 私も佐々木マキの新作が載るマンガ雑誌「ガロ」を楽しみにしていた1人ですし、『やっぱりおおかみ』『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』『ぶたのたね』などの絵本を笑いながら読んだものです。

 その佐々木マキが表紙を描き、本の中にも佐々木マキの絵がたくさん入った村上春樹の比較的初期の本に『カンガルー日和』(1983年)という作品集があります。この本には村上春樹にしては珍しく「あとがき」がついていて、その最後に「マキさんには僕の長篇の表紙の絵をずっと描いていただいていたのだが、本文の方で一緒に仕事をしたいという念願がかなって、とても嬉しい」と記してあるのです。村上春樹が佐々木マキの作品をとても好きだったことがよくわかります。

 そして、そのあとがきは「ここに集めた23編の短かい小説?のようなもの?は81年4月から83年3月にわたって、僕がある小さな雑誌のために書きつづけたものである」と書き出されています。村上春樹自身「短かい小説?のようなもの」と記していますし、村上春樹の作品集としては、やや軽いものと受け取られているかもしれませんが、村上春樹という作家を考えていく時に、この『カンガルー日和』は、かなり重要な位置を占める作品集ではないかと、私は思っています。

 その証拠というわけではありませんが、米国で最初に刊行された村上春樹の短篇選集『象の消滅』には「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と「窓」(「バート・バカラックはお好き?」を改題)の2篇が入っていますし、米国刊行2冊目の短篇選集『めくらやなぎと眠る女』では「鏡」「カンガルー日和」「かいつぶり」「スパゲティーの年に」「とんがり焼の盛衰」の5篇が収録されているのです。

 前回のコラムでは村上春樹のエッセイ集『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』を取りあげ、野菜好きな村上春樹を紹介しました。そして、この『カンガルー日和』に「1963/1982年のイパネマ娘」という短篇があるのですが、その中にも野菜好きな「僕」と「女の子」が出てきます。

 同作の僕は「イパネマの娘」という曲を聴くたびに、高校の廊下を思い出します。それは暗くて、少し湿った、高校の廊下です。なぜ思い出すのか、その脈絡は自分でもよくわからないのですが、高校の廊下といえば「僕はコンビネーション・サラダを思い出す。レタスとトマトとキュウリとピーマンとアスパラガス、輪切りたまねぎ、そしてピンク色のサザン・アイランド・ドレッシング」なのだそうです。作中にもありますが「ここにもやはり脈絡なんてない」のです。

 そして、さらに「1963/1982年のイパネマ娘は形而上学的な熱い砂浜を音もなく歩きつづけけている」というのです。これもさらにさらに、コンビネーション・サラダとの脈絡がつかみがたいですね…。

 さてさて前置きが長くなってしまいましたが、今回の「村上春樹を読む」は、この「1963/1982年のイパネマ娘」とは、何かということを考えてみたいと思います。

 『カンガルー日和』は「トレフル」という雑誌に連載された作品です。「1963/1982年のイパネマ娘」は、その「トレフル」の1982年4月号に掲載された作品ですので、この「1982年」のほうは、その時代の「現代」という意味でしょう。

 では「1963年」のほうは、いったい何でしょうか? 村上作品のファンならば、ご存じのかたもいらっしゃると思いますが、この「1963年」という年に村上春樹は、作家として出発した時からたいへんな興味を寄せています。いくつか、デビュー作『風の歌を聴け』から、その例を挙げてみましょう。

 一番はっきりと「1963年」が出てくるのは「僕」が関係した女性を振り返る場面です。「僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に日付けがメモしてあり、それは1963年8月となっている」とあります。

 この彼女は次の作品『1973年のピンボール』で「直子」という名前を持って登場してくる女性で、このデビュー作でも彼女は死んでしまう人として描かれていますし、もちろん、その「直子」は『ノルウェイの森』の中で縊死しまう「直子」と繋がっています。

 『風の歌を聴け』の彼女はまだ無名ですが、「彼女は14歳で、それが彼女の21年の人生の中で一番美しい瞬間だった」と記されています。若くして死んでしまう、その女性の一番美しい時が「1963年」なのです。

 それはまた「ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年だ」ともあります。ケネディー大統領暗殺は「1963年」のことですが、このケネディー大統領の話がたびたび繰り返されるのも『風の歌を聴け』の特徴です。

 冒頭近くには「僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、それからもう15年にもなる」とあります。さらに同作では僕が左手の小指のない女の子と知り合う場面がありますが、前夜泥酔していた彼女が、その夜のことを覚えておらず、「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」と問うと、「ケネディーの話。」と僕が答えるのです。

 また同作にはデレク・ハートフィールドという架空のアメリカ作家が出てくるのですが、「僕が絶版になったままのハートフィールドの最初の一冊を偶然手に入れたのは股の間にひどい皮膚病を抱えていた中学三年生の夏休みであった」と記されています。この中学三年の夏休みも「1963年」なのです。

 さらに「僕」は子供時代に「ひどく無口な少年」だったのですが、「14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた」のです。この14歳の春もまた「1963年」です。

 その「僕」も「左手の小指のない女の子」も「僕の友人・鼠」もジェイズ・バーというバーに集まります。初期三部作にずっと出てくる、そのジェイズ・バーが僕や鼠の住む街に引っ越してきたのも「1963年」なのです。そのことが『羊をめぐる冒険』に記されています。ですから『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の三部作は「1963年」を結節点のようにして書かれている小説だとも言えるのです。

 まだまだ他にも「1963年」にかかわる村上作品を挙げることができますが、ともかく村上春樹が「1963年」に、非常にこだわって出発した作家であることはわかっていただけたかと思います。

 「1963/1982年のイパネマ娘」の「1963」とは、その「1963年」のことです。では、この「1963年」とは、どんな年のことでしょうか。この村上作品の中に頻出し、たくさん潜在する「1963年」とは何かということを考えるのが、村上春樹の小説世界はどのようなものなのかを考えることに深く繋がっていると思うのです。

 このコラム「村上春樹を読む」では、なぜ村上春樹が「1963年」にこだわるのか、その理由について、私なりの仮説のようなものを幾つか提出してみたいと思うのです。そして、話を分かりやすくするために、結論を先に書いてしまいますと、村上春樹が「1963年」に、なぜこだわるのか、その理由の1つは「海の喪失」だと思います。

 「1963/1982年のイパネマ娘」は「すらりとして、日に焼けた/若くて綺麗なイパネマ娘が歩いていく」というボサノバの歌曲「イパネマの娘」の歌詞から書き起こされています。そして歌詞の最後は「僕のハートをあげたいんだけれど/彼女は僕に気づきもしない。/ただ、海を見ているだけ」という言葉です。

 それに続いて「1963年、イパネマの娘はこんな具合に海を見つめていた。そしていま、1982年のイパネマ娘もやはり同じように海を見つめている」と書かれています。つまりこの作品は「海」をめぐる小説です。

 この「海」や「海岸」は、村上春樹にとって原点とも言える場所でした。それが高度成長という中で失われていくのです。そのことに対する強い怒りが村上文学の出発点です。

 『カンガルー日和』の中で「1963/1982年のイパネマ娘」の次の次に置かれている短篇に「5月の海岸線」という作品があります。これは「1963/1982年のイパネマ娘」のちょうど1年前の「トレフル」1981年4月号に掲載された作品です。「5月の海岸線」は「トレフル」の連載では最初に書かれた短篇ですが、これもタイトルにもあるように「海」についての作品です。

 僕が友人の結婚式で12年ぶりに帰郷すると「海は消えていた」のです。正確に言うと、海は何キロも彼方に押しやられ、古い堤防だけが何かの記念品のように残っていました。

 20年前には、夏になると毎日僕が泳いでいた海なのです。「砂浜で犬を放してぼんやりしていると何人かのクラスの女の子たちに会えた。運がよければ、あたりがすっかり暗くなるまでの一時間くらいは彼女たちと話しこむことだってできた。長い丈のスカートをはき、髪にシャンプーの匂いをさせ、目立ち始めた胸を小さな固いブラジャーの中に包み込んだ一九六三年の女の子たち。彼女たちは僕の隣りに腰を下ろし、小さな謎に充ちた言葉を語り続けた」と「5月の海岸線」に記されています。その海が消えていたのです。

 ここに「一九六三年」の海と、その海岸線を歩く日本の女の子が書かれていて、おそらく「1963/1982年のイパネマ娘」は、この「5月の海岸線」の日本の女の子に対応して書かれた作品でしょう。この「一九六三年の女の子たち」の誰かが「1963/1982年のイパネマ娘」なのかもしれません。

 20年前には、夏になると毎日僕が泳いでいた海。運がよければ、あたりがすっかり暗くなるまでの一時間くらいは彼女たちと話しこむことだってできた、その海岸が埋め立てられ、広大な宅地と化していたのです。

 「その荒野には何十棟もの高層アパートが、まるで巨大な墓標のように見渡す限りに立ち並んでいた」「僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう」。このように、村上春樹は珍しく非常に激しい言葉で書いています。

 人びとは山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に何十棟もの高層アパートを建て、「僕」が20年前には夏になると毎日泳いでいた海は、わずかに「五十メートルばかりの幅の小さな海岸線」としてだけ残っているような「海」になってしまったのです。

 これは現実的には、昔の芦屋浜を埋め立てて、その土地に建てた芦屋浜シーサイドタウンのことです。私も、この埋め立て後、芦屋川河口に残された「50メートル」の砂浜に何度か立ってみたことがあります。それは何回見ても、村上春樹の怒りが伝わってくるようなほんとうに荒涼とした風景でした。

 村上春樹のことを“お洒落な都会的な小説を書く作家”と思っている人も多く、そのため、「海辺」と「高層ビル群」の対比で考えると、「高層ビル群」のほうの価値観に立つ作家と感じている人も少なくないのですが、実際の作品を読んでいくと、そういう価値観とはまったく逆の「海」「海岸線」を護る側に立つ作家であることがよくわかります。

 そして20年前には、夏になると毎日僕が泳いでいた海。運がよければ、あたりが暗くなるまでクラスの女の子たちと話しこむことができた海岸。その海を埋め立てて、高層ビル群を建てるという案が兵庫県によって提案されたのが、まさに1963年なのです。

 この山を崩し、海を埋めるという自然破壊の計画へ深い怒りを抱くゆえに、村上春樹は「1963年」にこだわっているのではないかと、私は考えているのです。

 「1963/1982年のイパネマ娘」の「彼女の足の裏に指を触れると、微かな波の音がした。波の音までもが、とても形而上学的だ」とあります。イパネマの娘は変わらぬ「海」の象徴なのでしょう。でもその海は消えて、高層ビル群となってしまいました。「海」を護ることは、夢や理想や形而上学的にしか存在しないのかもしれません。

 でも「1963/1982年のイパネマ娘は今も熱い砂浜を歩きつづける。レコードの最後の一枚が擦り切れるまで、彼女は休むことなく歩きつづける」という言葉で、この短篇は終わっています。つまり「イパネマ娘」とは村上春樹自身のことなのでしょう。自らの力が尽きるまで、海を護り、山を護り、自然を護るという夢を追求したいということが同作の最後の言葉の意味だと思います。

 最後にもう1つだけ加えておきたいと思います。それは、こんな「1963年」に注目すると『1973年のピンボール』という作品のタイトルの意味することを少しだけ受け取れるような気がするのです。『1973年のピンボール』は大江健三郎『万延元年のフットボール』のパロディーかと思いますが、それはそうとして、この「1973年」とは何か。そんなことをつい考えてしまいます。

 この作品のプロローグは「1969?1973」とあり、その冒頭は「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。一時期、十年も昔のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある」と書き出されています。

 「1969?1973」とプロローグの初めにあるので、この「十年も昔のこと」という言葉は、1979年か、または同作が発表された1980年から「十年も昔のこと」と受け取るのが、普通の読み方だと思います。なぜなら、このプロローグの中で、前にも紹介した「直子」という女性が、自分の育った街のことを、1969年の春、僕に対して語っているからです。

 でも同作冒頭にある、この「十年も昔のこと」という言葉をこの作品の時間である「1973年」から「十年も昔のこと」と受け取ってみると、これも「1963年」のこととなります。一瞬、そんなことも思わせる書き出しなのです。『1973年のピンボール』とは「1963年」の10年後の日本社会という意味なのかなと…。

 同作で直子は12歳の時、1961年に、彼女が語る土地に引っ越してきました。

 直子が移り住んだ家の「庭は広く、その中には幾つかの林と小さな池があった」そうですし、「池には水仙が咲き乱れ、朝になると小鳥たちが集ってそこで水を浴びた」そうです。その土地には冷たい雨が降り、そして「雨は土地に浸み入り、地表を湿っぽい冷ややかさで被った。そして地底を甘味のある地下水で満たした」のです。

 直子が住む街には井戸掘り職人が住んでいて、彼は井戸掘りの天才でした。ですから「この土地の人々は美味い井戸水を心ゆくまで飲むことができた。まるでグラスを持つ手までがすきとおってしまいそうなほどの澄んだ冷たい水だった」と書いてあります。

 でも、直子が17歳の秋(これはたぶん1966年のことかと思われますが)、その井戸掘り職人が電車に轢かれて死んでしまうのです。息子たちも跡は継がずに土地を出て、この土地では美味い水の出る井戸は得難いものとなってしまったのです。

 この時代の変化を村上春樹は「時が移り、都心から急激に伸びた住宅化の波は僅かながらもこの地に及んだ。東京オリンピックの前後だ。山から見下ろすとまるで豊かな海のようにも見えた一面の桑畑はブルドーザーに黒く押し潰され、駅を中心とした平板な街並が少しずつ形作られていった」と書いています。

 東京オリンピックの開催は1964年のことです。「東京オリンピックの前後」とは、まさに「1963年」から1965年ぐらいの時代のこと。一面の桑畑が「まるで豊かな海のようにも見えた」という言葉にも注目したいです。ここでも「海のような桑畑」が消えていったのです。

 『1973年のピンボール』という作品は美味い水を生む井戸が消え、海のような桑畑が消えた土地のことを語った「直子」が死に、その「直子」の死んだ後の世界を「僕」が生きていく物語です。「直子」とは消えていった「海」や「井戸」、「山」や「畑」など、「自然」を体現する女性なのでしょう。そんな「直子」の死の後をどう生きていくのか。そのように『1973年のピンボール』を読めば、村上春樹の時代への認識が鮮明に浮かび上がってくると思います。その時代認識は村上春樹の初期作品から、最新作『1Q84』までを貫くものだと、私は考えています。

 今回の「村上春樹を読む」は、村上春樹が「1963年」へこだわる理由に「海の喪失」「自然の喪失」への強い怒りがあることを紹介しました。でも村上春樹の「1963年」へのこだわりには、まだ他の理由もあるようです。それは次のこのコラムで紹介しましょう。(小山鉄郎・共同通信編集委員)

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