「村上春樹を読む」(11) 読者を引っ張る「リーダブル」という力 「桃子」と「緑」から考える

表紙カバーを取り除いた装丁。左から『ノルウェイの森』(上)(下)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』初版

 村上春樹作品の特徴の1つに「リーダブル」ということがあります。ともかく最後まで読めてしまうということです。

 私の知り合いにも、村上春樹作品があまり好きでないと言いながら、いったん読み出すと最後まで読んでしまい、最後まで読んだことを少し悔いているような不思議な読者もいます。でもそんな読者でも、最後まで引っ張っていく「リーダブル」という力が、村上春樹の作品にはあるのです。今回のコラム「村上春樹を読む」では、村上作品の、この「リーダブル」ということについて、考えてみたいと思います。

 『ノルウェイの森』に「直子」と「緑」という対照的な女性が登場します。

 「直子」のほうは、「僕」の死んだ友人の恋人だった女性です。ビートルズの『ノルウェイの森』が好きな「直子」は、最後に森の奥で自殺してしまう女性です。

 「緑」は「僕」と同じ大学に通う女性で、まるで「春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感」に満ちた女性です。

 『ノルウェイの森』を読んだ人は多いと思いますが、その「緑」にお姉さんがいることを覚えていますか?

 映画になった『ノルウェイの森』を観ていたら、「僕」が「緑」の家を訪ねると、家には「緑」以外は誰もいなくて、「緑」が家族のことを話す場面がありました。

 そこで「緑」が「お姉さんは婚約者とデートをしてる」と話すところがありましたし、別な場面では「僕」からの電話に「緑」が出ないので、その電話に出なくていいの?と、お姉さんが言う場面があります。お姉さんは、声だけの出演ですが。

 小説のほうでは、「僕」と「緑」が初めて会話するところで、「緑」がお姉さんのことを話しています。それはこんな場面です。

 「僕」が大学から近い小さなレストランでオムレツとサラダを食べていると、「緑」も同じレストランに来ています。

 そこで「緑」が「緑色は好き?」と「僕」に訊くのです。それは、緑色のポロシャツを「僕」が着ていたからです。

 そして「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない? まるで呪われた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私のお姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?」と「緑」が言うのです。

 「それでお姉さんはピンク似合う?」と「僕」が訊くと「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから」と言うのです。

 つまり「緑」の姉の名が「桃子」なのです。

 私が村上春樹作品の「リーダブル」ということについて、考え出したのは、この場面からです。「緑」の姉が「桃子」。「桃子」の妹が「緑」なのか…と思いながら。

 村上春樹を初めて取材したのは『ノルウェイの森』の1つ前の長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)が刊行された時でした。

 その本は(現在出ている版は異なるのかもしれませんが)箱も桃色が基調で、箱から取り出すと、全身桃色の本でした。

 何しろ最初にインタビューした作品ですので、村上春樹というと、この桃色の本を持ち歩いて、読んでいた感覚をまず思い出します。

 当時、新潮社の看板シリーズだった「純文学書下ろし特別作品」の一冊で、600ページ以上あって、手に持ってしばらく読んでいると重たくなってくる感覚が忘れられません。布張りで、箱入り。村上春樹の本の中では一番、立派な造本ではないかと思います。

 この本の中にピンクのスーツが似合う17歳の女の子が出てきます。太ってはいますが、活発で魅力的な女の子です。

 主人公の「私」が、その子と地下の世界に降りて、2人で唄を歌いながら、地底を行く場面があるのですが、そこでピンクのスーツの似合う女の子が『自転車の唄』というものを歌います。

 「四月の朝に/私は自転車にのって/知らない道を/森へと向った/買ったばかりの自転車/色はピンク/ハンドルもサドルも/みんなピンク/ブレーキのゴムさえ/やはりピンク」

 そんな歌い出しです。「なんだか君自身の唄みたいだな」と主人公の「私」が言うと「そうよ、もちろん。私自身の唄よ」と彼女が言います。

 「気に入った?」と聞かれて、「気に入ったね」と「私」も言います。

 「四月の朝に/似合うのはピンク/それ以外の色は/まるでだめ/買ったばかりの自転車/靴もピンク/帽子もセーターも/みんなピンク/ズボンも下着も/やはりピンク」

 と続いていく、実に楽しい唄です。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のピンク一色の装丁は、このピンクの娘の存在と、この唄からできていることは間違いないでしょう。何しろこの本に付いているしおりの紐糸(スピン)までピンクなのです。唄のように言えば「箱もピンク/本もみんなピンク/しおりもやはりピンク」なのです。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品は開放系の「ハードボイルド・ワンダーランド」の話と閉鎖系の「世界の終り」の話が交互に展開する長編ですが、そのピンクのスーツが似合う17歳の女の子は「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうに出てきます。

 村上春樹には「街と、その不確かな壁」という「文學界」(1980年9月号)に掲載された中編小説があって、これは村上春樹自身が「志のある失敗作」として、かなり長い作品なのに唯一、単行本に収録していない小説としてファンの間では知られています。

 そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」のほうは、この「街と、その不確かな壁」を基にして書き直された部分です。

 つまり村上春樹が「志のある失敗作」を、作品として生き返らせるために書き直した長編が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』なのです。

 この作品で、村上春樹は戦後生まれとして初めての谷崎潤一郎賞を受賞しました。その時もインタビューをしたので、私は短期間に2回、この作品を読むことになったのですが、2度目に読んだ時に、このピンクの女の子のおかげで『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が成功作となっているのだと思いました。

 村上春樹の言う「志のある失敗作」とは、どんなことかと考えてみると、「リーダブルでない」ということではないかと私は思います。

 「街と、その不確かな壁」は決して悪い作品ではありませんが、読んでいると、少し目が詰まってくるというか、息が抜けないというか、作品世界が、重たく感じられてきます。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のほうは、この闊達で魅力的なピンクの女の子の登場を楽しみに読み進めていくと、作品のもともとのテーマである「世界の終り」のほうの話をじっくり読んでしまいます。

 でもその「世界の終り」のほうの話は、主人公の「僕」をはじめとする人々が高い壁に囲まれた不思議な街に住んでいる世界です。人々は街に入る時に、門の所で自分の「影」を切り離し、門番に預けます。それと引き換えに、人々は安らぎに満ちた生活を街で送ることができるのです…。

 そんな世界は、ほんとうに生きるべき価値がある世界なのか。いやその世界を生きる価値ある世界に作っていくには何が大切なのか。そんなことが問われる話ですので、読み進めると話が、だんだん重たくなってきます。

 するとまた物語世界に、みんなピンクの女の子が救助にやってきてくれるのです。その彼女の明るさ、楽しさの力で、読者はついつい大団円まで読んでしまうのです。

 読むという行為は、たいへんエネルギーが要ることですし、このせわしない時代、最後まで作品にタッチしながら読めるという小説はそんなに多くはないと思います。でも、このピンクの女の子のような力もあって、村上春樹の作品は「つい最後まで読んでしまう」のです。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、あのピンクの本を手にすると、作品を成功に導いた、ピンクの女の子のことを思い出します。その記念のようにして、あのピンク一色の本があるように感じてられてくるのです。

 その「ピンク」が、ものすごくよく似合って「ピンクを着るために生まれてきたような人」の妹が「緑」なのです。

 「緑」も『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のピンクの女の子と同じ役割を、『ノルウェイの森』の中で果たしているということなのではないでしょうか。

 『ノルウェイの森』は、とても不思議な小説です。

 最後に自殺してしまう「直子」と、活発で魅力的な「緑」との間を主人公の「僕」が往還しながら、最後に「僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ」という場面で終わる物語です。

 なのに、それから18年後の回想から始まる冒頭まで戻って、再読してみると、あの活発で魅力的な「緑」のことは、一言も書かれていないのです。なぜでしょうか?

 『ノルウェイの森』の冒頭に、「直子」のことを「僕」が回想する場面があります。

 その最後の場面に「もっと昔、僕はまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ」とあります。

 この部分を読むと「街と、その不確かな壁」を、自ら「志のある失敗作」として『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いた村上春樹のことを思うのです。

 『ノルウェイの森』の「直子」のことを、必ずしも実在の人間と考える必要はないと思います。でも村上春樹が書きたかったことは、この「直子」のことなのです。「直子」のことを考えることが、『ノルウェイの森』のことを考えることなのだと思います。

 そして「直子」は最後に自殺してしまう、死の世界の人です。その「直子」の話だけを読むのは、ちょっとつらいでしょう。

 だから、活発で魅力的な「緑」が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「ピンクの女の子」のように、『ノルウェイの森』を「リーダブル」な長編とするために、生み出されたのではないでしょうか。

 『ノルウェイの森』の上巻の終わりごろに「もう少し明るい話をしない?」と「直子」が僕に言う場面があります。

 「でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれ、そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持ちになれるのに」と僕は思います。

 この「突撃隊」は学生寮に生活している僕の同室の学生のことですが、彼は「ある国立大学で地理学を専攻」しています。そして「緑」もアルバイトで「地図の解説を書いて」います。

 その「緑」が『ノルウェイの森』に登場すると、バトンタッチをするかのように「突撃隊」は物語から消えていきます。まるで「明るい話」は「緑」に任せたという具合に、です。

 この『ノルウェイの森』という作品は、短編「螢」を長編化したものですが、「螢」にも「僕」と学生寮で同居する地理学専攻の学生が出てきます。彼は毎朝のラジオ体操で、僕を悩ませるやつです。

 「直子」に相当する女性は、「彼女」という呼び方で登場してくるのですが、その「螢」の中に、こんなところがあります。

 「僕が同居人と彼のラジオ体操の話をすると、彼女はくすくす笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは―それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど―本当に久し振りだった」

 という文章です。

 「もう少し明るい話をしない?」という「直子」の発言は、この場面とも対応しているのでしょう。

 この愉快な「同居人」と「突撃隊」と「緑」と「ピンクの女の子」が、私の中では1つに繋がっています。

 村上春樹の作品の一番描きたい部分、つまり「直子」や「世界の終り」の部分を「リーダブル」にするという役割を担っているような気がするのです。村上春樹という作家は、そのことが自分で、とてもよく分かって書いているのだと私には思えるのです。これが「最後まで読めてしまう」秘密でしょう。

 「緑」の名誉のために、最後に加えておきますと、あの「緑」の生命力あふれた魅力は、私が考えているような誕生の経緯を超えて、とても生き生きと輝いていて、『ノルウェイの森』という作品を大きく広げていると思います。

 『ノルウェイの森』でも、村上春樹をインタビューしたことがあるのですが、その時には、あの有名な装丁がまだ出来ていない段階でした。

 後日、「赤」と「緑」のシンプルな装丁の『ノルウェイの森』を手にした時の、驚きのようなものは忘れることができません。なにしろ最初に取材した本が「桃色」の本だったのですから。

 その『ノルウェイの森』の装丁の「赤」と「緑」についてのことなどは、次のこのコラムで別の角度から記してみたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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