前回の「村上春樹を読む」で、村上春樹の小説では主人公や重要な人物が泣く場面がたくさんあることを紹介しました。『風の歌を聴け』でも『羊をめぐる冒険』でも、『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』でも、そして『アフターダーク』でも、物語の最後に主人公や重要な人物が泣いたり、涙を流したりする場面があります。
なぜ、村上春樹の小説の主人公や重要人物たちは泣くのでしょう。今回は、その理由を考えたいと思います。
話をわかりやすくするために、結論を先に記してしまいましょう。
村上作品の主人公や重要人物たちはなぜ泣くのか。それは彼らが自分にとっての「切実なこと」に気付いたからだと思います。
感動して、泣いちゃった…。悔しくて、泣けた…。年をとると、つい涙もろくなる…。人が泣く理由はいろいろあると思いますが、でもその人間が泣く時には、ある「切実なこと」の反映なのです。
深い悲しみと涙の原因には、自分のことだけでなく、家族のこと、友人のことなどに不幸や不安がおとずれたり、そのことによって自分の過去の記憶をはっきり思い出したり、様々なことがありますが、これらはみな、その人間にとって「切実なこと」なのです。そして人は泣くことで、日ごろは忘れている、自分の大切なものにハッと気がつくのです。
登場人物たちは、きっとこのことがよくわかっていて、たくさん泣くのだと思います。
例えば『アフターダーク』のマリはベッドの上で頬の涙を拭いながら思います。
「ひどく唐突な感情だ。でも切実な感情だ。涙はまだこぼれ続けている。マリの手のひらに、落ちてくる涙を受けとめる。落ちたばかりの涙は、血液のように温かい。体内のぬくもりをまだ残している」
マリの思いか、筆者の思いか、どちらとも受け取れるような文体で書いていますが、ここで村上春樹は「切実な感情」と「涙」との関係を簡潔に述べているのだと思います。
さて、最新長篇の『1Q84』の主人公たちはどうでしょう。この小説では主人公の一人である青豆は女性の殺し屋ですし、ハードボイルドタッチで書かれていますから、主人公が泣いているイメージがあまりないかもしれません。
でも青豆も自分の遊び仲間である「あゆみ」という婦人警官が死ぬと泣きます。「顔を両手で覆い、声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣い」ているのです。しかしその姿について「自分が泣いていることを、世界中の誰にも気取られたくないという様子で」と書いてあるので、ハードボイルド小説の主人公のような泣き方とも言えます。
そして、この大長篇の最後には次のようなことが記されています。『1Q84』BOOK3(2010年)の最後で、青豆は愛し探し続けていた天吾と再会。二人は初めて結ばれるのですが、その時、「青豆は泣く。ずっとこらえていた涙が両方の目からこぼれる。彼女はそれを止めることができない。大粒の涙が、雨降りのような音を立ててシーツの上に落ちる」のです。やはりここでも「物語の最後に泣く村上春樹」は維持されています。
もう一人の主人公である天吾は、この場面で泣いていません。青豆と天吾。その二人の主人公のうち、どちらか一方をあえて選ぶとしたら、大粒の涙で泣く青豆のほうが『1Q84』の主人公なのかもしれません。そんなふうにも思えます。
でも、天吾も次のようなことを考えている人物として描かれています。それは『1Q84』BOOK2(2009年)の終盤。「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手になら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」と天吾は思うのです。
つまり『1Q84』BOOK3のラストの青豆の「大粒の涙」と『1Q84』のBOOK2のラストの天吾の「切実な問題」の自覚とが、ちゃんと対応しているのです。
このように村上春樹の作品は主人公たちが最後に泣くということが多いのですが、でも泣くということには必ず、その人間の切実な問題が表れているのです。いま自分にとって、どんなことが切実な問題か、それがほんとうにわかれば、そこから世界はまだまだ造り直せるはずです。そんなふうにして書かれているのが、村上春樹の小説だと私は思います。
最後に一つだけ加えておきます。村上春樹作品の重要な人物は、決して最後の部分だけで泣くわけではありません。作品の途中でも泣いています。
『ノルウェイの森』にも『海辺のカフカ』にも、まだまだ素敵な泣く場面があります。そんな場面に出会ったら、その登場人物たちの涙に思いを寄せて、しばし考えてみてください。村上春樹の小説の味わいが、さらに増してくると思います。(小山鉄郎・共同通信編集委員)
※次回の「村上春樹を読む」は6月23日更新、以後毎月第4木曜。
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