「村上春樹を読む」(4) 随所にブーメラン的思考 カタルーニャ国際賞受賞スピーチを読む・その2

 

「ねじまき鳥クロニクル」と「ノルウェイの森」

 村上春樹がバルセロナで行ったカタルーニャ国際賞の受賞スピーチで、我々は唯一の被爆国の人間として、核に対する「ノー」を叫び続けるべきだったと語り、それが大きな話題となりました。

 その中で広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉を紹介しながら、この言葉の中には「我々は被害者であると同時に、加害者でもある」という意味が込められていると述べました。

 この「被害者であると同時に、加害者でもある」という言葉を知って、実に村上春樹らしい考え方だと思いました。このような「被害者であると同時に、加害者でもある」という思考方法が村上春樹の大きな特徴でもあるのです。

 問題を、相手に対する問題として捉えるだけでなく、その問題を自分の問題として捉え直して、常に二重に考えを進めていくのです。

 この思考方法を、私は「村上春樹のブーメラン的思考」と呼んでいます。

 少し気をつけて、村上春樹の書いたものを読んでみれば、このブーメラン的思考は随所に示されています。

 カタルーニャ国際賞の受賞スピーチの中から、幾つかブーメラン的思考の部分だなと思う村上春樹の言葉を紹介してみましょう。

 そのスピーチの中で村上春樹は東日本大震災での福島第1原発事故について述べているのですが、そこでこんなことを言っています。

 「原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられる」ことを指摘し、そのような事情を調査し、もし過ちがあったなら「我々は腹を立てなくてはならない」と話しました。

 そして、それに続いて「しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう」と述べているのです。

 「我々は腹を立てなくてはならない」。それと同時に「そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならない」。

 これが村上春樹のブーメラン的思考です。

 さらにもう一つ、このスピーチから紹介してみましょう。

 村上春樹は、今回の原発事故は「日本が長年にわたって誇ってきた『技術力』神話の崩壊である」ことを述べました。そしてそれと同時に「そのような『すり替え』を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました」と述べているのです。

 さらにそれに続いて「我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです」と述べているのです。

 以上、このスピーチが、村上春樹独特のブーメラン的思考で語られていることが、よく分かると思います。

 想定を超えた大津波の到来の可能性を何人かの専門家が指摘し、安全基準の見直しを求めていたが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかったことに触れて、「我々は腹を立てなくてはならない」という言葉だけなら、他の人でも言うかもしれません。

 でもこのすぐ後で、同時に「そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならない」と考えるのが村上春樹のブーメラン的思考なのです。

 つまり相手を糾弾するとともに、その問題を自分の問題として村上春樹は常に考えるのです。原爆についても被害者であると同時に、その力を引き出したという点、力の行使を防げなかったという点では加害者なのだと考えるのです。

 今回の原発事故も「我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです」とも語っています。

 そういうブーメラン的思考は、村上春樹の小説の中でも一貫して書かれています。

 例えば『ノルウェイの森』の冒頭は37歳になった「僕」が乗ったボーイング747がハンブルグ空港に着陸する場面から始まっています。その時、飛行機の天井のスピーカーからビートルズの「ノルウェイの森」がきこえてきます。

 その曲をきっかけに18年前、直子という女性と歩いた草原の風景を僕は思い出すのです。直子が「ノルウェイの森」を好きだったからです。

 僕は「十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんかどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女のことを考え、そして僕自身のことを考えた」と記されているのですが、それに続いて「それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ」という言葉が書かれているのです。

 「何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくる」ということは、どんな問題もブーメランのようにぐるっと一周して、自分の問題としてかえってくるということです。

 この言葉は『ノルウェイの森』の冒頭部分に記されたものですから、『ノルウェイの森』の中で書かれたことは、すべてが自分の問題として、問われているのです。

 村上春樹の小説は一貫して、このブーメラン的思考で書かれていると言ってもいいと思います。

 例えば『ねじまき鳥クロニクル』に、綿谷ノボルという人物が出てくることを前のコラムでも紹介しました。彼は主人公「僕」の妻の兄ですが、この綿谷ノボルは日本を戦争に導いたような精神の持ち主として描かれていて、同作は僕がこの綿谷ノボルと対決して、彼をたたきつぶして、綿谷ノボル側に連れ去られた妻を自分の側に取り戻すという長い長い物語です。

 この綿谷ノボルと対決して、僕は彼をバットでたたきつぶすのですが、いくら悪い奴でも、自分の妻の兄ですから、何もバットでたたきつぶさなくてもいいのではないか。そんなふうに考える読者もいます。

 でもここにも、私は村上春樹のブーメラン的思考を受け取るのです。

 村上春樹の本のイラストも多く描いているイラストレーターの安西水丸の本名が渡辺昇という名前なのですが、短編「ファミリー・アフェア」では「渡辺昇」という名の人物が出てきます。そして『ねじまき鳥クロニクル』の出発点となった短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」では、その「ワタナベ・ノボル」という名前が妻の兄の名前として、またその兄の名から命名された猫の名前として使われています。

 さらに『ノルウェイの森』の「僕」は「ワタナベ・トオル」という名前です。

 この「ワタナベ・ノボル」「ワタナベ・トオル」と『ねじまき鳥クロニクル』の「ワタヤ・ノボル」(綿谷ノボル)は非常によく似た名前です。また「ワタヤ・ノボル」は『ねじまき鳥クロニクル』で、やはり猫の名前としても使われています。

 さて、この「ワタナベ・ノボル」「ワタナベ・トオル」「ワタヤ・ノボル」は違う作品に登場する人物ですので、もちろん異なる3人として考えていいと思います。でもここに「何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくる」という考え方を置いてみると、これらの人物を通して、一人の人間のいろいろな側面が描かれていると考えることも可能だと思います。

 仮に『ノルウェイの森』の「僕」(ワタナベ・トオル)や『ねじまき鳥クロニクル』の「綿谷ノボル」(ワタヤ・ノボル)を同じ人間のいろいろな側面として考えてみると、『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」が綿谷ノボルと対決して、彼をバットでたたきつぶすということは、「僕」が自分の中の「日本を戦争に導いたような精神」の部分を自らの手で徹底的にたたきつぶすということだと思います。

 そうやって、問題を常に自分の問題として捉え直して、日本社会を再び構築し直そうとしているのが、村上春樹の小説ですし、村上春樹のブーメラン的思考です。

 カタルーニャ国際賞受賞スピーチで村上春樹は、相手を糾弾するだけではなく、自分の問題として考えることを通して、我々の倫理や規範を新しくつくり直していこうとすることを語りました。

 「損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります」「みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして」と述べました。

 ここに村上春樹のブーメラン的思考があります。今回の東日本大震災と福島第1原発の事故を一人ひとりが自分の問題として、受け止めて、素朴で黙々と、忍耐強く取り組むことを通して「我々は新しい倫理や規範」を再構築するのです。

 それが、村上春樹のブーメラン的思考なのです。(小山鉄郎・共同通信編集委員)

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