【久保康生 魔改造の手腕(6)】 幼少時から小、中学校時代にかけてはまだ、硬式野球に出会っていませんでした。山や川を駆け巡った幼少期と同様に、もう本当によく遊ばせてもらいました。
2歳年上の兄がいましてね、常に私の少し先を歩んでいるわけですよ。そのお下がりをいただくというか、兄の影響でいろんな経験をさせてもらいました。
兄がカワサキの大きなバイクを買った時がありました。排気量650㏄のW1という大きな名車です。そのバイクにも乗せてもらったり、勝手に乗ったりしたものです。
野球をやっていたら、バイクなんて危ないからやめなさいとなるところですが、そういうのはなかったですね。自由に遊んでいました。
父も車の運転を教えてくれました。実家は煮豆工場も営んでいましたので、配達にダットサンの貨物車を使っていました。
小学校の高学年か中学くらいの時だったと思います。配達が終わると青果市場の広い駐車場で車の運転を教えてもらいました。公道ではダメですからね。
家業で山林を所有していたので、その整備を手伝う時にも運転させてもらいました。山に入るまでの道のりを父が運転して、私有地に入ったら私が代わってハンドルを握りました。もちろんマニュアル車で、シフトレバーがハンドルの横から出ているコラムシフトの車でしたね。
こういった経験は若い私の感性を非常に刺激してくれました。アイデアが次々と浮かぶ遊びというのか、自分の引き出しがどんどん増えるわけです。発想がどんどん広がります。
当時は釣りも大好きでしたので、毛針や浮きを自作したり、餌も自分で調合したり、創意工夫に励みました。
釣りが上手なおじさんを見つけては、じっと観察してコツを盗んで、自ら発展させる。どんどん空想の世界を広げ、現実に生かしていきました。
今の野球の指導に至る想像力、目の付けどころなどは若かりし日の経験とは無関係ではないはずです。
遊びに熱中することで、体力もどんどんついていきました。山林の整備を手伝った帰りには、県営力丸ダムに隣接していた屋外アイススケート場で夜通し滑ったものです。土曜の夜から日曜の朝までオールナイトで滑ったものです。体力はもう自然と付きましたね。
飯塚から福岡の海まで3時間ほどかけて海釣りにも出かけていました。飯塚から宮若市の山道を越えて福津市の津屋崎というところまで約40キロを日帰りで往復ですよ。これはかなり遠かったです。合計で6時間ほどですからね。
現地までの道は父の車で出掛けた時に覚えていますから、そこを自転車で走るわけですが、まあ行動派でしたね。いやもう「お前どこ行っとったん」と親にはよく言われてましたね。
でも、体力的には全然平気でしたもんね。若かったですね。本当にね、気ままにいろんなことをさせてもらってね。自転車もいいものを両親に買い与えてもらってました。
それだけ自由に過ごしていたのに、どういうわけか高校からは野球の名門校に入ることになるんですね。普通に中学の野球部で軟式野球をしていました。打つのも投げるのも得意でしたが、ここでお話しした通り野球だけに情熱を注いでいたわけではありません。ここから人生がガラッと変わっていくことになります。