<レスリング>【勇退記念・回想】伝統の強さを、私にも注入してくれた福田会長、心の金メダルをもらった(上)…編集長・樋口郁夫

 

 「周りから『生意気だ!』と言われるくらいでなければ駄目だぞ。上司から、『貴様、生意気だ!』と言われないようなヤツは、大物にはなれないぞ!」

 1986年10月、運動記者になって3年目の秋、見聞を広めるため自費で世界選手権の取材に行ったときに、ハンガリー・ブダペストのホテルで福田富昭会長(注=当時の肩書にかかわらず、本ページではすべて「会長」と記載します)の部屋に呼ばれ、言われた言葉だ。私がレスリング界の末席を汚していたことは伝えてあったが、マンツーマンでじっくり話をしたのは、これが最初だった。

福田会長の存在を知り、畏敬と驚嘆の気持ちを持った1984年秋の週刊誌記事

 評判通りの人だと思った。福田会長の存在を知ったのは、その2年前のロサンゼルス・オリンピックで、某レスリング代表選手の開会式カメラ持ち込み事件に際し、チームの監督として日本選手団のお偉方と徹底的にやり合ったことだった。大会後の週刊誌で「体協の石頭どもに物申す」という手記を発表し、日本体育協会の古い体質を糾弾。

 「勝利はいつも美しい」という自叙伝を出版され、「このままでは日本のスポーツは滅びる」ことをアピールした。その本の「あとがき」に記されていた言葉は、私の心に強く刻まれた。「生意気と言われようが、誰が何と言おうが、私はいっこうにかまわないし、下がることは絶対にない。(中略)私はスポーツを愛する人たちとともに戦い続けるつもりだ」-。

 上下関係の厳しいスポーツ界において、こんなふうに上に向かって行く人って、いったい、どんな人なんだろう、という興味はあったが、卒業大学は違い、簡単に話しかけられる立場の人ではない。それが、ブダペストのホテルで福田会長から「○号室に来てくれないか」との電話をもらった。緊張の気持ちを抱えながら向かうと、「日本のレスリング復活に必要なことは何だと思う?」などと聞かれた。

 私ごときが答えられる質問でない。何と答えたか、まったく覚えていない。心に残ったのが、ひとしきり話が終わったあとにかけられた冒頭の言葉だ。

畏敬と驚嘆のまなざしで見ていた福田会長からの言葉

 学生時代までの私はといえば、高校時代まで熱中した野球でも、プロレス好きが高じて大学入学後に始めたレスリングでも、何の成績も残せず、体力と運動神経のなさ、精神力の弱さを痛感。人生に自信が持てない人間だった。それでも、国際通信社である共同通信社に運動記者として合格。少し自信めいたものが出てきた。

1984年、43歳にしてオリンピック日本選手団の安斎実副団長(右=72歳)と大ゲンカした福田会長(写真は、帰国後の慰労会で和解を求めてきた?シーン)=撮影・宮澤正幸

 そんな時期に、畏敬と驚嘆のまなざしで見ていた福田会長からの言葉。「生意気と言われるくらいの度胸が必要なんだ」と自分に言い聞かせ、それまでの反動もあって突っ張った行動が多くなった。上司からは扱いづらい社員だったと思う。

 ブダペストでの世界選手権で世界のレスリングに魅せられた私は、その3年半後に脱サラし、レスリング協会から機関誌編集の委託を受け、経営と記者の双方に挑んだ。いわゆるバブル経済の絶頂期。銀行の2年定期預金の利率は7%くらいだったから(現在は0.002%!)、今では考えられない好景気だ。

 機関誌の販売収入は少なくとも、「税金に持っていかれるくらいなら」と、広告を気前よく出してくれた会社に支えられてスタートできた。福田会長からも、重役を務めていたユナイテッドスティールのほか、つながりのある企業を紹介してもらうなどお世話になった。

 それも束の間。バブル経済が崩壊し、広告を出してくれた社が次々と手を引いていった。経営はあっという間に苦しくなり、借金を余儀なくされ、その金額が増えていった。

福田会長の言葉を「座右の銘」にした私だが…

 景気の悪化だけが原因ではない。私の性格が経営者に向いていなかった。経営に携わる企業人は、とにかく腰が低い。取引相手との人間関係に細心の注意を払い、神経を使う。自分を押し殺さねばならず、非礼があって相手を怒らせてしまえば、会社の規模にもよるが、何百万円、何千万円という損失を被る。

希望に燃えて創刊した「月刊レスリング」だが、筆者の未熟さのゆえ、命は短かった

 記者はどうか。総理大臣やスター選手を取材するとき、ぞんざいな態度で接する記者はいない。非礼がないように神経を使うが、記者になる人間の根底には反骨の血が流れている。権力や権威に向かっていくのが常だし、言葉はストレートで遠回しの言い方は苦手。自己主張が強く、「ジャーナリストたるもの、敵が何人もいて当たりまえ」くらいの気概があるのが普通だ。

 敵をつくらないことを念頭においた取材や行動の下、 ちょうちん記事(媚びへつらう記事)しか書かない記者は、人の心を揺さぶる記事も書けない(こういう人は「記者」「ジャーナリスト」とは呼ばない)。経営者と記者とは、究極の反対位置。大谷翔平のようなマルチの才能を持っていても両立は不可能だと思う。記者としての仕事を前面に出していた私が、経営に行き詰まったのは当然のことだった。

 経営の窮地を福田会長に相談すると、経営とはどんなことかについて説明してくれた。私は姿勢を改める必要を感じる一方、胸の内にあったことを言わせてもらった。「福田さんに言われたことで、座右の銘にしている言葉があるんです」と切り出し、ブダペストのホテルで言われた言葉を伝えた。

平身低頭で協賛金集めをしていた福田会長

 「会社員時代は、上司に突っかかっていく人間でした。本当に『生意気だ!』とも言われましたが、これでいいんだ、と自分に言い聞かせていました。でも…。経営は違うんですね」

 「そうだなあ…。オレもなあ、オリンピック委員会では、上に突っかかって行く人間だ。煙たがっている人間は何人もいる。でも、ユナイテッドスティールの人間として取引に臨むときは、ペコペコの連続なんだよ。○○党なんて大嫌いなんだ、口ばかりで行動が伴わないから。この前、その党本部に自動販売機を置いてもらう交渉したときは、最初から最後まで頭の下げっぱなしだった」

福田会長(当時副理事長)の尽力で実現した1990年の男子フリースタイル世界選手権(東京体育館)

 「そうなんですか…。あのとき、経営者は違う、ということまで教えていただきたかったです」

 「まさか、共同通信を辞めるとは思わなかった…」

 協会会長に就任後のみならず、当時も協会の協賛金集めは福田会長(当時は副理事長だったと思う)に頼りっ切りという状況で、周囲には「福田さんなら簡単に金を集められる」というイメージすらあった。簡単なことではなかった。協会のため、ひたすら頭を下げて協賛金を集めている福田会長の姿勢と努力には、敬服するしかなかった。

 姿勢を改めた私だったが、世の中の景気は悪化するばかり。年間300万円以上もの広告を出してくれた2つの企業を筆頭に、大口に相次いで撤退されてはたまらない。負債は“8けた”に達した。「登山者の本当の勇気とは、登る勇気ではなく、下りる勇気である」という言葉を胸に、協会機関誌の請け負いをやめることを決意。まず福田会長の元を訪れて「限界です」と伝えた。

《続く》

© 公益財団法人日本レスリング協会