【久保康生コラム】甲子園でのちに対戦 因縁のPL学園からも勧誘あったが…

高校は地元の名門・柳川へ(東スポWeb)

【久保康生 魔改造の手腕(7)】 恵まれた家庭環境から創造力を鍛えられました。さらに、豊かな自然の恩恵を受け、知恵を育むこともできました。

そんな少年時代から一変、高校野球の名門・柳川商野球に入部することになります。大げさな表現かもしれませんが、自由奔放な生活から急に軍隊のような寮生活の始まりです。

甲子園に出場するような学校ですから、そりゃもう練習が厳しかったのは言うまでもないです。でも、嫌だなとか、そういうネガティブな感情はなかったですね。どちらかというと何とも思ってなかったです。

自由な幼少期から少年時代を過ごした割にはと思うかもしれないですけどね。でも、本当にもう何でしょう。遊び切ったというわけではないのですが「高校野球」というものにチャンネルがカチャッと変わってしまった感覚でした。

厳しい寮生活で我慢を強いられるという気持ちではなく、何かこうポジティブに考える性格が根付いていました。いい方向に考えて、野球に打ち込めることを楽しみに変えると言えばいいのでしょうか。「これもこれやな」っていうふうに楽しんでました。

「貧すれば鈍する」という生き方になってはいけないなと思うんです。目の前のことだけに必死になり、生活全体に知恵がいきわたらないようではいけないですよね。

幼少時、少年時代から今も含めてですね、プラス思考で柔軟に物事を考えるというのがベースにあります。コーチング理論というのも、理屈だけではなく、こういった考え方が起源にあるのだろうと思っています。

教わる側の立場になっても、コーチに対しての関わり方も重要ですよね。魚釣り名人のおじさんがいたら、横にくっ付いて情報を収集する人懐っこさなんかも必要ですし、そこは人と人との付き合いという話にもなってきます。

「俺なんて、何も教えてもらってない」というふうに自ら孤独をつくってしまっては閉塞感しかなくなります。

「すいません。よろしくお願いします」と自分で扉を閉めずに人と接した方がいい方向に向かいます。かわいがってもらえなかったという事実があったとしても、その原因を自分の対応の悪さとは考えず、相手だけの責任にしてしまっては歩み寄れませんよね。

さて、柳川商への入学に話を戻します。2つ上の兄は地元の公立高校に進学していて、その担任の先生が野球部の部長だったんです。で「お前の弟をよこさないと落第だ」と言われていたそうなんです。

地元の高校を強くしたいからということで度々、そういうことを言われていました。でも、私は勉強するのが嫌だから行きたくないよと拒んでいました。

あちこち入部の勧誘をいただいたり、見学にも行かせてもらいました。父の出身地が近い関係で大分・柳ケ浦も見に行きましたがご縁がなかった。のちに甲子園で対戦することになるPL学園からもお誘いを受けましたが、私が選んだのは柳川商でした。

最後に見学したのが母校でした。いきなり部室に通され、ユニホームに着替えさせられ、グラブを持ってブルペンで投球しました。

何も用意をしていなかったのでスパイクも借り物だったと思います。硬球を握るのも投げるのも初めてだったと思います。言われるがままに話が進んで柳川商を受験する運びとなりました。不思議なご縁です。

柳川という土地の印象が、文武両道の非常に良い雰囲気と私は思っていました。悪くないなと思ったんです。兄と中学の同級生である松尾勝則さんが在籍していたのも大きかったです。松尾さんは後に夏の甲子園で作新学院・江川卓さんと投げ合った人なんですよ。

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