名将が語る全国高校サッカー「優勝は夢のまた夢だった」 100回目の選手権、長崎・国見のレジェンド(1)

長崎・国見を6度の優勝に導いた小嶺忠敏氏

 12月28日に開幕する全国高校サッカー選手権は第100回大会を迎える。長崎・国見を戦後最多タイの6度優勝に導き、現在は長崎総合科学大付の監督を務める小嶺忠敏氏(76)がインタビューに応じ、サッカーや大会への思いを語った。(共同通信=大島優迪)

 ―サッカーとの出合いから。

 「子どもの頃は今みたいにサッカーがなく、野球かソフトボールが一般的だった。中学生の部活動もバレーボール部だけ。サッカーは遊びでやったが、縁がなかった。長崎・島原商高で初めてサッカー部、サッカーとの出合いがあった」

 ―高校でサッカーがしたかったのか。

 「巡り合わせだった。私は母子家庭で7人兄弟の末っ子。他の兄弟は誰も高校に行っていない。農家で、高校に行くお金がなかった。兄弟が東京や大阪で商売をやって「一番下の弟ぐらい、高校に行かせてやろうよ」とお金を出してくれた。大学も私だけ行かせてもらった。6人の兄弟には本当に申し訳ない」

 「当時は中学を卒業したら集団就職するような時代で、進学率が低く成績が良くても貧乏で進学できない人が多かった。中学校で100人卒業したら高校に行くのは10人前後。僕は末っ子でラッキーだった。終戦後で食べ物もなく、私は1年に10回ぐらいしか米のご飯を食べられなかった。そのハングリー(精神)があったからこそ、今の私がある。過去の人生の経験は何ものにも変えがたい財産。これがあるから、何事にも耐えてやることができる」

 ―高校生の時は全国選手権が目標だったか。

 「そうだが、『御三家』との差が大きかったから全国大会優勝という目標までは持てなかった。日本サッカーの御三家は埼玉、静岡、広島。私が高校の頃は全国高校総合体育大会で御三家の高校と試合をしたら5点くらい取られた。九州で優勝しても全国では歯が立たないのが通例だった」

 ―高校1~3年生で全国選手権に出場した。

 「僕が試合に出たのは3年の時だけ。1、2年時はサブで、3年の時は主将。中学時代もバレーボール部の主将で県大会で優勝した。当時、島原市にはサッカーをやっている中学校が他にあったから僕がキャプテンというのは異例だった」

 ―大商大から1968年に島原商に赴任し、サッカー部員は13人。

 「工業高校ができ、島原商は女子校に近い状態だった。高度成長時代で工業化が進み、ほとんどの男子は島原工に行った。当時は試合のエントリーに17人必要で、部員が13人だったのでバレーボール部や陸上部から部員を借りて試合をやった」

 ―指導法は。

 「もう、ただ頑張るだけ。当時は工業高校が強かったから、島原工以上に鍛えないと。自分自身ハングリーで育ったから苦労しなかった。何度も言うが、指導の原点は家庭環境にある」

 「今の若い指導者はすぐギブアップする。すました顔で朝練に遅刻する。それで『一流のチームを目指す』と言っても勝てない。生徒に『ここが頑張りどきだ』と言っても、指導者が適当にやっていてできるはずない。悪いところは悪いと言い、いいところは大いに褒める。徹底しないと。生徒に慕われるのはいいが、好かれようとしたらダメだ。生徒にごまをすれば、生徒はそこを逃げ場にする。それでは生徒の人生を崩してしまう」

 ―島原商で指導者を始め、77年は全国高校総体で初優勝した。

 

国見高校総監督だった当時の小嶺氏=2006年

「鍛えれば、ある程度のチームにはなる。この優勝は当時、小中高のサッカーで優勝旗が関門海峡を渡った第1号だった。優勝の前、九州の強い高校が集まって合宿をした。福岡商(現福翔)の教室で6~8チームが貸布団を借りて泊まり、交流試合をやった。夜遅くまで『九州はどうすればいいか』と話し合った」

 ―島原商で選手権優勝には届かなかった。

 「それは、もう夢のまた夢。高校総体で優勝した時も(生徒に)胴上げをさせなかったと思う。選手権は難しい。夢物語だったが、78年度の57回大会で準優勝した室蘭大谷(現北海道大谷室蘭)が大きな刺激になった。(大会後に)室蘭大谷の監督だった故高橋正弘さんに誘われ、祝賀会に行ったらびっくりした。ゴールポストの上まで雪があり、ここで練習するのかと驚いた」

 「高橋さんは『うちは3~4カ月はこうだ。おまえのところは雪が降らないし、日照時間が長いので易しい』と言った。私は『人生に甘えていた』と思った。私もやれるはずだと奮起し、心が全く変わった。(84年に国見へ赴任後)初めて選手権で優勝したのが87年度。あの祝賀会に行っていなかったら多分、優勝は何年か遅れていた」

 ―55回大会から開催地が首都圏に移り、注目度が高まった。選手権が夢なのはなぜか。

 「やっぱり高校生の最後の大会だから。総体は中間テストみたいなもの。しかも国立競技場は大きなインパクトがある。テレビ中継も大きい。郷土の画面に映り、みんなが応援する。テレビ中継がなかったら旧態依然だったと思う」

 ―66回大会で初優勝した時の感慨は。

 「覚えている。65回は静岡・東海大一(現東海大静岡翔洋)に決勝で0―2で負けて、66回決勝は逆に1―0で勝った。僕らは静岡で鍛えてもらった。春休みに(静岡の)サッカーフェスティバルに呼んでもらい、ずっとやらせてもらった。静岡に恩返しできた」

 ―初優勝の後も5回優勝した。

 「おいしいものを食べたら、また食べたいのと同じだ。夢を見たら、もう一回その夢を見たいと。夢を見ても優勝できない学校がいっぱいある。当時約4100チームのうちの1チームだから。生徒には『君たちは偉大だ』と話した」

 ―優勝できる代も、そうでない代もある。

 「それは神様が与える運で、絶対今年は勝てると考えたことはない。優勝しようと思って優勝できた記憶はない。優勝する力がないのに『勝った、また勝った』というのはある。逆に、いいぞという時に『あのチームに負けるのか』というのもある。良い時と悪い時、ラッキーとアンラッキーがあるんですわ」

教え子で当時C大阪の大久保嘉人選手(中央)と並ぶ小嶺氏(右)=2004年

 ―国立競技場でプレーする価値は大きい。

 「やはり観客が多い方がやりがいが出る。私は国立競技場はヘタをうまくするところ、と言っている。シュートを遠くから打つと、へぼシュートでも観衆が『おおー』と沸き、うまくなったと錯覚する。長崎に帰って来ると実際にその子がうまくなっている。次の試合は同じ場所から打てるようになる。不思議だよ」

 ―リーグ戦が整ってきている中で、一発勝負の選手権の意義は。

 「どちらも意義がある。ワールドカップ(W杯)も1次リーグの後は決勝トーナメントだ。どちらも経験しなきゃいけない。一発勝負も経験をさせて勝負勘を磨かないと。リーグ戦がいい、トーナメントは悪いと結論づけるのは怖い。リーグ戦は失敗しても取り返せるが、トーナメントは失敗できない。それで終わり。世界で勝つには失敗は許されない。若い時から経験させるのは必要だ」

 ―今も長崎総合科学大付で指導する。

 「選手を鍛え、人間として生きていく上での基本を、スポーツを通じて経験させたい。これがないとサッカーをした意味がない。それが第一で(軌道に)乗れば優勝できる。そのために指導者の教育も必要だ。指導者が口だけではなく、毅然とやらないと。国見でも島原商でも成績が悪い選手は次の試験まで絶対に練習させなかった」

 ―教え子がプロや日本代表で活躍している。

 「彼らの成長を見るのは人生でこの上ない光栄。指導者冥利に尽きる」

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 小嶺忠敏 1945年6月24日生まれ。長崎県南島原市出身。長崎・国見を率い、全国高校サッカー選手権で優勝6度。元日本代表の大久保嘉人ら多くの教え子をプロに送り出した。V・ファーレン長崎の社長も経験。長崎総合科学大の教授も務める。

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