【読書亡羊】共感とギャップの波状攻撃 柿沼陽平『古代中国の24時間』(中公新書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

古代中国へタイムスリップ

一体どれだけの年月と手間をかけて調べ、書き上げたのかと、思わず嘆息する。

柿沼陽平『古代中国の24時間――秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)は、始皇帝や三国志の時代を生きた名もなき人々の暮らしの詳細を、あらゆる歴史書からコツコツと拾い上げ、ほぼすべての記述を「論拠・引用元付き」で仕上げた労作中の労作である。

そのすごさは巻末の注記を見るだけでも伝わってくるが、にもかかわらず本文は極めて平易。早稲田大学文学学術院教授である著者の柿沼氏と同世代の当欄筆者としては、プロローグの副題「冒険の書を開く」に、ゲーム「ドラゴンクエスト」の影響を感じて、思わずにんまりしてしまったほどだ。

おかげで、すんなりと「古代中国」にタイムスリップして、人々の暮らしを覗き見ることができる。

夜明けを迎えるころになっても寝付けず、庭を歩き回る哀れな女性の姿は『玉台新詠』という史料から。子供らがトリモチを使って蝉を取る様子は『准南子』から。

『漢書』や『史記』をはじめ、多数の当時の記録にわずかに残された「当時の普通の人々の、なんでもない生活」の記述を逐一採集し、24時間の暮らしを描き出している。

人間は変わらないが社会は変わっていく

歴史ものを楽しむポイントをあえて絞れば、以下の2つになろう。

一つは、「共感」。時代や国は違っても、「やはり人間というものは、いつの時代も変わらないのだなぁ」と感じる時、私たちは過去の人々と我が身を重ね、共感し、親しみを覚えるのだ。

例えば占いの館を訪れる人々。結婚相手、夫婦関係、どうすれば儲けられるのか、自分は出世できるのかなど悩みを打ち明け、亀卜や手相占い、夢占いなどで自らの行く末を占ってもらっている。

「占いなんて、非科学的なものを信じるのは古代人だからでは」と思う向きもあろうが、今も多くの女性誌は巻末に「星占い」のページを持つ。当時と同様、恋愛運、仕事運、金運の動向が今も最大の関心事だ。

あるいはハゲに悩む官吏たち。戦国時代には「洗髪のたびに脱毛があるのを恐れて洗髪をやめれば、さらに抜け毛が増える」とのことわざまであったという。身に覚えのある向きも少なくないはずだ。

もう一つは「ギャップ」だろう。人間としての感情や悩みは、時代や国を隔ててもそうは変わらないが、価値観や制度は大きく異なる。

例えばお酒の席。近年、日本でも宴席での酒の強要は問題視されているが、当時の「アルハラ」は度を越している。「もう飲めない」と音を上げる家臣の口に無理やり竹筒を差し込み、酒を流し込む王。宴席のルールを軍法並みに厳しくした上司の下では、酔っ払って席を離れようものなら切り殺された部下もいるという。

こうしたえげつない事例は「人間社会の意識が進歩して、生命が尊重される時代に生きていて助かった」と思わされる(アルハラ経験者からすれば「古代と現代で進歩がない」と感じるかもしれないが)。

もう一つは市場での死刑。なぜ刑場でなく、人々や物が行き交う市場で公開処刑を行うのかと言えば、あえて見せて戒めとすべきだったからだろう。だが斬首や磔だけでなく、「車裂」までが、子供の目にも触れる市場で行われた。

「車裂」は陰惨極まりなく、手足それぞれを別々の馬車に括り付け、一斉にそれぞれの方向へ引っ張るというもの。そんなに簡単に体は引き裂けはしないので、片腕だけもげて悶絶、絶叫ということもあったようだ。

〈市場は死刑囚の断末魔の声が響き渡る場所であった〉と聞けば、これまた人間社会の倫理観の向上に感謝するほかない。

彼らも私たちも「日常」を生きている

本書の成果は学問的には「民衆史」「日常史」の範疇にある。これまで民衆は「国や王に対立するもの」としてや、「歴史を主体的に作り上げていく民」としての視点から考察されることが多かった。

だがそれゆえに、本書が拾い上げたような占い、排泄、ハゲ、酒の席、風呂などの「ただただ『生』のありようそのものを語る」材料は軽視されがちだったという。

だが筆者の柿沼氏が指摘する通り、今の私たちが「毎日毎日、何らかの歴史に残る事件にかかわるわけでもなく、ただ昨日とさほど変わらない日常を生きている」ことがほとんどであるように、過去の人々もまた「日常」を生きていたのだ。

そして本を読んで、こう思うはずである。「今生きている私たちの生活、発言、行動も、何らかの形で歴史として残っていくのだ」と。

今から2000年後、「令和日本人の24時間」を書こうと思ったら、新聞、雑誌、ネットニュースだけでなく、個人のツイッターやfacebookの記述まで、ありとあらゆる材料が存在することになる。

後世の歴史家が「令和日本」をどうまとめ上げるか、その成果を見ることは不可能だが、そんな「過去から未来まで、歴史を流れとしてみる視点」さえ、本書で養えるのだ。これこそ歴史を楽しみ、歴史を生きる醍醐味ではないだろうか。

先人たちの営みに感謝

ちなみに、本書の第8章「農作業の風景――午後一時頃」には、この書評欄の連載タイトル「読書亡羊」のもとになったと思しき故事が引用されている。

もちろんもれなく注釈がついているので、出典元が『荘子』外篇駢拇篇であることも知り得た。知ったとたんに何やら高尚なタイトルに見えてくるから不思議だ。

読書にかまけてヒツジ番の仕事をさぼって怒られた、古代中国の名もなき人物。名は残らなくとも、その営みはこうして伝わったことになる。

そして当欄筆者もヒツジこそ逃がさないながら、読書にかまけてこの連載原稿を書き始めなければ、やはり編集長から怒られることになっただろう。

先人たちの「営み」に感謝するばかりなのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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